六月博多座大歌舞伎(夜の部)(2011年06月12日、博多座)
「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」「英執着獅子」「魚屋宗五郎」。
「仮名手本」の幸四郎はひどかった。芝居のおもしろさは「肉体」のおもしろさである。人間の「肉体」は似ているようで似ていない。動く瞬間、動く限界の位置がそれぞれ違う。歌舞伎というのは肉体の誇張である。ふつうは人間の肉体はそんなふうには動かないのだが、動きを拡大することで、肉体のなかにあることばにならないものを見せるということに特徴があると私は思っているのだが、幸四郎の芝居は「肉体」が動かない。「台詞」だけが動く。台詞でストーリーを説明するだけである。極端に言うと、台詞を言ってしまってから、肉体の動きがそれを追いかけている。これでは小学生の「学芸会」である。緊張して台詞を忘れてしまいそう、忘れないうちにちゃんといわなくっちゃ……と焦っている小学生の学芸会である。
魁春が、梅玉から、夫は殺された--と知らされ、ことばをなくす場面と比較するとわかりやすい。人間のことばというのは、いつでも肉体から遅れて動く。肉体が先に動いて、それからことばがやってくる。この動きを、幸四郎は先にことばを発してから肉体を動かしている。--まあ、「好意的」に言えば、幸四郎の役は「酔っぱらったふり」をしている、つまり芝居をしている役所なのだから、芝居そのものを演じているということを演じて見せた演技といえるかもしれないけれど。ねえ、そんなばかな、である。
藤十郎の「英執着獅子」は前半の恋する姫の部分はよかった。手、指先の動きなど、まるで少女である。(口がぱくぱく動いてしまうのは、息がつづかないからなのだろう。まあ、みなかったことにする。)しかし、後半の獅子の踊りはつらいねえ。特に、獅子のたてがみをふりまわすところなど、一生懸命はわかるけれど、それがそのまま動きにでてしまう。たてがみがまわりきらない。腰を中心に上半身がまわらないのだ。芝居というのは役者が苦しい姿勢をしたときに美しく見えるというが、それはあくまで苦しみを隠しているとき。たとえば、姫を演じたときの、腰を落としたままの動き。けれど獅子のように、苦しみが見えてしまうと、なんだかはらはらしてしまう。
「魚屋宗五郎」は特別すばらしいわけではないと思うけれど、幸四郎と藤十郎がつらかっただけに、菊五郎がかっこよかった。酔っぱらいの感じも幸四郎の酔っぱらいとは大違い。華がある。酔って乱れる。片肌脱いで、裾も乱れて、褌までちらりと見せる。そのとき舞台が活気づくのである。芝居小屋の空気が生き生きしてくるのである。芝居というのは、芝居を見るんじゃない。役者の肉体を見るのだ、ということがその瞬間わかる。よっ払いというのは現実ではみっともないが、それは現実の「人間」が不格好だからである。菊五郎のように色男なら、乱れたところが華となって輝くのである。菊五郎の芝居は、それをみて「人間性」の本質を感じる(人間はこういう存在なのだ、と実感する)ということはないのだが、やっぱりいい男だなあ、色男だなあ、持てるだろうなあと人をうらやましがらせるところがある。役者の「特権」を持っている。と、あらためて思った。
*
博多座の観客のマナーは相変わらず悪い。お喋りが耐えない。台詞が始まるまで芝居ではないと思っているのかもしれない。だから「英執着獅子」のように、役者がしゃべらないとき、踊りのときがひどい。ひそひそ声がうぉーんという感じで歌舞伎座全体に広がる。全方向からノイズが聞こえてくる。まいる。
「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」「英執着獅子」「魚屋宗五郎」。
「仮名手本」の幸四郎はひどかった。芝居のおもしろさは「肉体」のおもしろさである。人間の「肉体」は似ているようで似ていない。動く瞬間、動く限界の位置がそれぞれ違う。歌舞伎というのは肉体の誇張である。ふつうは人間の肉体はそんなふうには動かないのだが、動きを拡大することで、肉体のなかにあることばにならないものを見せるということに特徴があると私は思っているのだが、幸四郎の芝居は「肉体」が動かない。「台詞」だけが動く。台詞でストーリーを説明するだけである。極端に言うと、台詞を言ってしまってから、肉体の動きがそれを追いかけている。これでは小学生の「学芸会」である。緊張して台詞を忘れてしまいそう、忘れないうちにちゃんといわなくっちゃ……と焦っている小学生の学芸会である。
魁春が、梅玉から、夫は殺された--と知らされ、ことばをなくす場面と比較するとわかりやすい。人間のことばというのは、いつでも肉体から遅れて動く。肉体が先に動いて、それからことばがやってくる。この動きを、幸四郎は先にことばを発してから肉体を動かしている。--まあ、「好意的」に言えば、幸四郎の役は「酔っぱらったふり」をしている、つまり芝居をしている役所なのだから、芝居そのものを演じているということを演じて見せた演技といえるかもしれないけれど。ねえ、そんなばかな、である。
藤十郎の「英執着獅子」は前半の恋する姫の部分はよかった。手、指先の動きなど、まるで少女である。(口がぱくぱく動いてしまうのは、息がつづかないからなのだろう。まあ、みなかったことにする。)しかし、後半の獅子の踊りはつらいねえ。特に、獅子のたてがみをふりまわすところなど、一生懸命はわかるけれど、それがそのまま動きにでてしまう。たてがみがまわりきらない。腰を中心に上半身がまわらないのだ。芝居というのは役者が苦しい姿勢をしたときに美しく見えるというが、それはあくまで苦しみを隠しているとき。たとえば、姫を演じたときの、腰を落としたままの動き。けれど獅子のように、苦しみが見えてしまうと、なんだかはらはらしてしまう。
「魚屋宗五郎」は特別すばらしいわけではないと思うけれど、幸四郎と藤十郎がつらかっただけに、菊五郎がかっこよかった。酔っぱらいの感じも幸四郎の酔っぱらいとは大違い。華がある。酔って乱れる。片肌脱いで、裾も乱れて、褌までちらりと見せる。そのとき舞台が活気づくのである。芝居小屋の空気が生き生きしてくるのである。芝居というのは、芝居を見るんじゃない。役者の肉体を見るのだ、ということがその瞬間わかる。よっ払いというのは現実ではみっともないが、それは現実の「人間」が不格好だからである。菊五郎のように色男なら、乱れたところが華となって輝くのである。菊五郎の芝居は、それをみて「人間性」の本質を感じる(人間はこういう存在なのだ、と実感する)ということはないのだが、やっぱりいい男だなあ、色男だなあ、持てるだろうなあと人をうらやましがらせるところがある。役者の「特権」を持っている。と、あらためて思った。
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博多座の観客のマナーは相変わらず悪い。お喋りが耐えない。台詞が始まるまで芝居ではないと思っているのかもしれない。だから「英執着獅子」のように、役者がしゃべらないとき、踊りのときがひどい。ひそひそ声がうぉーんという感じで歌舞伎座全体に広がる。全方向からノイズが聞こえてくる。まいる。
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