詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『深きより』(14)

2020-12-02 10:32:51 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(14)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「十四 もう一つの修羅」は「西行法師」。

今や武者の世 東に名告りを挙げれば 西に応える鬨のこゑ
その修羅を逃がれ歌に生きよと 教へてくれたのは 月の光
けれども 歌もまた別なる修羅 妄執ではなかつたらうか
他に卓れて秀歌を詠み 後の世に残さうと 骨身を削ることは?

 「修羅」ということばがくりかえされている。
 「生死をかけた戦いの場」という意味だろうか。「生死」をかけるとは「後の世に残る(生き残る)」かどうかという意味であり、「戦い」は「骨身を削る」と言い直されている。ただし、その「骨身を削る」はあくまで自分自身の骨身であって、「敵」の骨身ではない。
 だから、ここでは「武者」の戦いが敵(自分以外のもの)を傷つけることで勝利をおさめるのに対して、歌人は自分自身を傷つけることで勝利をおさめると言っていることになる。「武者」と「歌人」は生き方(思想/肉体の動かし方)が逆なのだ。だからこそ、

けれども

 ということばが「武者」と「歌人」をつなぐのである。
 高橋は、あるときは男と女をつなぎ、つなぐことで入れ換える。入れ替わる。それは、「先人」を書く、書くことで「先人」と高橋をつなぎ、つなぐと同時に入れ替わる。高橋が高橋ではなくなることが、新しい高橋を産み出す。
 この矛盾したような二重構造の運動を支えるのが「けれども」ということばなのだ。「けれども」のなかには、いま生きている次元を突き破って別の次元へと接続し、接続した瞬間起きるスパークを利用して、別の次元さえもまた新しく作り替えていこうとする「欲望」のようなものが動いている。
 「けれども」というのは「論理」を動かすことばだが、高橋の詩は、こういう論理のことばをつかんで押さえつけたとき、強靱な輝きを繰り広げる。
 「論理」とは「ことばの肉体そのもの」である。「論理」をつかみきることで、高橋はことばを「肉体」そのものになる。

過褒なされな 歌の亡者の罪の深さは 武者のに劣らず
死後の旅路に散り止まぬ花吹雪の 血腥さは未来永劫

 「血腥さ」ということばが最後に必要になるのは、「ことばの肉体」もまた「血」を内部にもっているからである。鮮血も流れてしまえば耐えがたいにおいを発する。いや、「ことばの外」にあるものによって変質してしまうということか。

 この詩を緊張させているもうひとつの要素に「月の光」がある。最初に引用した四行にも「月の光」は登場するが、書き出しの一行は、こうである。

それは月の所為 月の光のしわざとでも 答へるほかない

 「月の光」は不思議である。月そのものが光を発しているわけではない。太陽や星とは違う。あくまでも「反射」である。それは、たとえていえば「ことば」である。肉体があって、肉体が引き起こすさまざまなことがある。「ことば」は、現実を反映したもの(反射させたもの)なのである。そして、この「反射」は月がそうであるように、「ことば」が存在しないかぎり起きない。
 矛盾というか、絶対に切り離せない何事かがある。そして、その「切り離せない」ということを成立させているのが「論理」である。「論理」がすべてを産み出しているのだ。
 高橋のことばは、いつでも「論理」を探して動いている。その論理探しの欲望の強さには、そして、いつも「死の匂い」がする、と私は感じてしまう。否定された生の匂い、と言い直してもいいかもしれない。
 詩の最終行にあらわれた「血腥さ」ということばのなかには、死と生が、まさに「修羅」として動いている。

 私は、この詩が好きであるというしかないほど嫌いである。そして嫌いというしかないほど好きである。女になることをこころみた作品よりも、男のまま、「武者(男)」と向き合い、敗北する(武者として勝つのではなく、僧になることで戦いを放棄するという敗北)ことで、逆に死なないという生き方をする。ここには高橋の「ことばの肉体」と同時に、高橋の「生身の肉体」が「反射」という形で噴出してきていると感じる。






**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高橋睦郎『深きより』(13) | トップ | 不記載4000万円? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

高橋睦郎『深きより』」カテゴリの最新記事