粕谷栄市「経験」(「現代詩手帖」2014年12月号)
粕谷栄市「経験」(初出「GATE21」19、13年11月)は入水自殺するつもりで埠頭へやってきたら、「私」の前に女が投身してしまった。それを見たために「私は、張り詰めた気分を失ってしまった。」この「張り詰めた気分を失ってしまった。」が、私は、とてもおもしろいと思った。
なぜかというと、気持ち(思考)が次のように変わっていくからだ。
「張り詰めた気分」がなくなると、すべてが「曖昧」になる。そそうか。もし、そうであるなら、「張り詰めた気分」で見たものはすべて「鮮明(明瞭)」になる。
「気分」の充実によって「世界」が変わる。
このことを粕谷は次のように言い直している。
これは「言い直しではない」と粕谷は言うかもしれないが、私は「言い直し」と「誤読」する。
何かがある。それは「事実」か「幻」か。それを決めるのは「張り詰めた気分」(気分の状態)である。「気分」によって、あることが「事実」になったり「幻」になったりする。そういう「流動的」な「記憶」をもって、人は生きている。
「流動」そのものを人は生きている。「自らは、気づくことはないが」。
「自らは、気づくことがない」なら……私は、この詩の「見知らぬ女」を粕谷自身と呼んでみたい気がする。
粕谷は気づいていないが、何かに張り詰めていた気分そのものが「女」になって投身(入水)自殺した。粕谷は、それを「肉体」の記憶として覚えている。いつでも思い出せるもの(経験)として、覚えている。それは粕谷の「肉体」を生かすための、ひとつの方法だったのかもしれない。
粕谷は、ある種の「死」を経験した。それ以後、いつも粕谷は、その「死」といっしょに生きている。
粕谷栄市「経験」(初出「GATE21」19、13年11月)は入水自殺するつもりで埠頭へやってきたら、「私」の前に女が投身してしまった。それを見たために「私は、張り詰めた気分を失ってしまった。」この「張り詰めた気分を失ってしまった。」が、私は、とてもおもしろいと思った。
なぜかというと、気持ち(思考)が次のように変わっていくからだ。
どうして、そんなことが起こったのか。彼女は、何者
だったか。なぜ、その夜、そこにいたのか、分からない。
今となっては、その夜、本当に、彼女が、その霧の埠頭
にいたのかどうか。そのことすら、曖昧だ。
「張り詰めた気分」がなくなると、すべてが「曖昧」になる。そそうか。もし、そうであるなら、「張り詰めた気分」で見たものはすべて「鮮明(明瞭)」になる。
「気分」の充実によって「世界」が変わる。
このことを粕谷は次のように言い直している。
その後、永い歳月をへて、私は、あれは、私だけの幻
の経験だったと、考えることにしている。誰もが、自ら
は、気づくことはないが、そんな記憶を持って、この世
の日々を生きているのだ、と。
これは「言い直しではない」と粕谷は言うかもしれないが、私は「言い直し」と「誤読」する。
何かがある。それは「事実」か「幻」か。それを決めるのは「張り詰めた気分」(気分の状態)である。「気分」によって、あることが「事実」になったり「幻」になったりする。そういう「流動的」な「記憶」をもって、人は生きている。
「流動」そのものを人は生きている。「自らは、気づくことはないが」。
それは、私の終生の秘めごとだ。あの霧の夜、あの見
知らぬ女は、確かに、私の代わりに、岸壁から跳んで死
んだ。確かに、私の代わり、死んだのである。
「自らは、気づくことがない」なら……私は、この詩の「見知らぬ女」を粕谷自身と呼んでみたい気がする。
粕谷は気づいていないが、何かに張り詰めていた気分そのものが「女」になって投身(入水)自殺した。粕谷は、それを「肉体」の記憶として覚えている。いつでも思い出せるもの(経験)として、覚えている。それは粕谷の「肉体」を生かすための、ひとつの方法だったのかもしれない。
粕谷は、ある種の「死」を経験した。それ以後、いつも粕谷は、その「死」といっしょに生きている。
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