詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルフォンソ・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」(★★)

2013-12-24 01:46:32 | 映画
アルフォンソ・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」(★★)


監督 アルフォンソ・キュアロン 出演 サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー、エド・ハリス

 3D映画。ただし、私は目が悪いので疲れる映像はみたくない。2D版をみた。それでも撮影の都合でそうなるのだろうが、わざとらしい遠近感(奇妙な縁取りのようなずれ)があって、かなり疲れる。
 誰もみたことがない映像--というのは映画の魅力だけれど。
 うーん、この映画の映像はほんとうに誰も見たことがない映像なのか。そうではなくて、ただ単にまだ一度も起きていない映像ではないのか。宇宙で衛星が衝突し(?)、その破片が飛び散り、船外活動をしている飛行士が困難な状況に陥る。そのときの衛星の破片が飛び散る様子、地球を周回する映像、さらにそのために命綱を切られてどこまでもまわりながら飛んで行く人間というのは、私は見たことがない。しかし、それはもともと見ようにも、まだ起きていないことなので見ることができないだけである。
 映画の見たことがない映像というのは、それとは違うのではないか。たとえばサンドラ・ブロックのスクリーンいっぱいに映し出される目。それは、私は現実には見たことがない。それは見ることができない。私がどんなに目をちかづけて行っても、サンドラ・ブロックの目は2-3センチより大きくならない。けれど映画では、それをスクリーンからはみだす大きさで見ることができる。現実には見ることのできないものをスクリーンで、限界を越えて見てしまうのが映画である。まだ起きていないことをスクリーンで見たって、新しい映像を見た、という気持ちにはなれない。
 こんなことをくだくだと書いているのは……。実は、私には衛星の破片が飛び交うシーンも、サンドラ・ブロックが宇宙空間をぐるぐる回転して飛んで行くシーンもおもしろくなかったからである。そんなものは、どっちにしろCGで作り上げた疑似体験映像にすぎない。どこまでCGがそれを映像にできるか、というのは映像作家にはおもしろい課題だろうけれど、見ている方では「こんなものか」と思うだけである。
 そんな映像よりも、私には、サンドラ・ブロックが涙を流したときの映像がおもしろかった。無重力なので、涙は頬をつたって下に落ちるのではなく、丸い水滴になって方々へ飛び散る。いくつもいくつも方々へ飛び散る。昔、「宇宙螢」と呼ばれた現象である。昔は宇宙飛行士が尿をするとき、コンドームのようものをペニスにかぶせ、それから用を足すのだが、自分のサイズを過大申告したために隙間ができて、そこから尿が飛び散り、その水滴が光を反射してきらきら輝く。それを「宇宙螢」というらしいのだが、そこには宇宙飛行の「見栄っ張り」のうようなものが原因としてひそんでいて、何だか、それが私の「肉体」をくすぐる。そういう「くすぐり」の感覚が私の肉体のなかには残っていて、尿ではないのだが、「あ、宇宙蛍だ」と思い出す。涙が水滴になって四方へ勝手に飛び散るシーンは私は見てきたわけではないが、「見たもの」として思い出し、納得する。
 こういう感じが、映画の「見たことのない映像」の体験というものである。見たことはない。けれど、見たと肉体が錯覚している何かを、影像でまざまざと見てしまう。
 スクリーンいっぱいに拡大されたサンドラ・ブロックの目--そういうものも、私は見たことはないが、誰かの目を覗き込み、それしか見えなかったということを肉体は覚えていて、そのためにスクリーンいっぱいの目を、その瞳の変化を、あ、これが目なんだと実感する。
 どこかに「肉体」が存在しないと、あるいはどこかで「肉体」としっかりつながっていないと、どんな影像も「新しい影像」にはなりきれない。私には、そう感じられる。
 これは別な言い方をすると、どんな新しい体験でも、それを私が実際に体験できないものであるなら、そんなものはちっともおもしろくないということでもある。宇宙空間をさまようなんて、恐怖かどうか、ぜんぜんわからない。それは「新しい」体験ではありえない。
 もうひとつ、おもしろいと思った影像で補足してみよう。
 涙の宇宙蛍と同時に、あ、ここは傑作だなあ、映画になっているなあと感じたのは、サンドラ・ブロックが中国の宇宙船に乗り込んでから。操縦しようとするとパネルの文字が中国語。アルファベットではない。読めない。スイッチを間違える危険性がある。思わず笑いだしてしまったが、こういう笑いは、知らない文字に出会って困惑したことが私にもあるからだ。これいったい、何? だれもが困惑することに、宇宙飛行士も困惑している。困っている。これが、影像で表現されているから、リアルに感じられる。まるで、自分がそこにいる気持ちになれる。
 で、この状況をサンドラ・ブロックはどう乗り切るか。ここもおもしろい。ソユーズに乗った体験(シュミレーションだけれど)を思い出し、ソユーズではこのボタンはあれ、という具合に「肉体」が覚えている位置関係をたよりにボタンを押す。文字で判断するのではなく、肉体が覚えているボタンの位置--それをたよりにする。こういうことは、だれもが日常で体験する。知らないことでも、たぶんこれがスタートのスイッチ、という具合に判断する。「肉体」は「頭」以上にかしこいのである。
 こういうシーンがもっともっとあれば、この映画は真に迫ってくる。肉体を真剣に描けば映画はおもしろくなる。そういうことをせず、ただ観客をびっくりさせることに終始している前半は、うーん、つまらない。手間隙かけて影像をつくったのだろうけれど、そんなものはすぐに忘れてしまう。人間が、観客の覚えている「肉体」を引っ張りながら動いてこそ、新しい影像体験と言えるのだ。
 影像がテクノロジーによって堕落してしまった映画だね、これは。
               (2013年12月22日ユナイテッドシネマ キャナル3)


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