新保啓「黄昏の道」、金井裕美子「置き場」(「詩的現代(第二次)」9、2014年06月発行)
新保啓「黄昏の道」は犬と散歩する詩。犬のことを「ワンちゃん」と書いている。うーん、いやだなあ。その「ワンちゃん」が「話者」になってる。うーん、こういうのも好きじゃないのだが。
「小波」って何かなあ。海の近く? 川沿い? 違うだろうなあ。夕暮れの光の「小波」かなあ。夕暮れの、きょう最後の光が道に届く(便りのように)。それが影をつくって、その光と影の交錯が「小波」? わからないけれど、印象に残る。「とぼとぼ」と「平らな道なのに/浮き足だってよろけた」はちぐはぐなのだけれど、何かに向かってむりやりイメージが結晶するという感じはないところが、妙にくすぐったい。
「ゆるんだ紐」は電線かもしれない。洗濯物を干す紐かもしれない。
けれど、私は犬と飼い主をつなぐリードと読みたい。信頼関係があるから、紐はたるんでいる。歩調があっているから、紐がぴーんと張ることはない。その紐は人間の目からは「空にかか」っているようには見えないけれど、犬の低い目線からは空にかかっているように見えるかもしれない。
ここで、私は、犬になってしまって、「そうか」と感激したのである。
夕日の名残が広がる道も、きっと人間の目線から見るときと、犬の目線で見るときでは違っているだろうなあ。
犬は、わざわざそんなことを言わないので、わからないが。(私も犬を飼っているが、そんなことは考えたことがなかったが……。)
飼い主のあと(真後ろ)だけは、他人がはいり込む余地がないので安心して歩ける。邪魔者がないのだね。
うーん、「ワンちゃん」の思いなのか、飼い主(新保)の思いなのか、区別がつかない。そこがいいんだな。家に帰る。そのことの「意味」を区別してもしようがない。家に帰るよろこび、家にいる(家がある)よろこび--に犬も人も区別がない。
そして、その家は、「灯り」がついて、完成する。中に人がいて完成する。その完成を家の方でも待っている。「手を振って」を私は、なんとなく「尻尾を振って」と読んでしまったのだけれど。
*
金井裕美子「置き場」は、プールに浮かんでぼんやりしているときのことを描いている。水泳の練習なのか。あるいは浮いているのは人間(金井)ではなく、もっとほかのもの、丸太とか死体とかかもしれないのだが、金井と思って私は読んだ。
まさか浮いている人間を竿で押し返す、しかも鎖骨のくぼみに竿を差し込んで、ということはないだろうから(だって、痛そうでしょ?)、浮いているのは金井ではないのだろうけれど、それでも金井と私は思いたい。
金井の肉体が、そのまま浮いている何かになっている。浮いている何かが金井の肉体になっている。その区別がつかなくなっている。この一体感が、詩、なのだ。
先に読んだ新保の「黄昏の道」では犬と飼い主が一体になっていた。犬と家が一体になっていた。かけ離れたものの偶然の出会いではなく、別個のものが「肉体」をとおして「ひとつ」になるとき、そこに詩があるのだ、と私は思う。
押し返された何かは別の何かとぶつかる。そのとき、その別の何かは、また別の誰かの「肉体」である。
詩の中に「鎖骨」「足の指」「腰骨」鳩尾」など、肉体の部位を書き込むことで、何かと「肉体」の一体感があふれてくる。浮いているときの「水」さえ、その一体感のなかにはいってくる。
材木か死体かわからないけれど、そういうものになってみたい気持ちになる。自分の意識は関係なくて、ただだれかに押されてあっちへぷかり、こっちへぷかりと動きながら時間が過ぎていくというのは、いいものかも。
そこは無為の時間の「置き場」かもしれないなあ。
新保啓「黄昏の道」は犬と散歩する詩。犬のことを「ワンちゃん」と書いている。うーん、いやだなあ。その「ワンちゃん」が「話者」になってる。うーん、こういうのも好きじゃないのだが。
小波が寄せていた
軽い便りのように
道をとぼとぼさせた
平らな道なのに
浮き足だってよろけた
「小波」って何かなあ。海の近く? 川沿い? 違うだろうなあ。夕暮れの光の「小波」かなあ。夕暮れの、きょう最後の光が道に届く(便りのように)。それが影をつくって、その光と影の交錯が「小波」? わからないけれど、印象に残る。「とぼとぼ」と「平らな道なのに/浮き足だってよろけた」はちぐはぐなのだけれど、何かに向かってむりやりイメージが結晶するという感じはないところが、妙にくすぐったい。
ゆるんだ紐が空にかかり
知らない家と家の
間に
落ちかかっていて
果てしなかった
「ゆるんだ紐」は電線かもしれない。洗濯物を干す紐かもしれない。
けれど、私は犬と飼い主をつなぐリードと読みたい。信頼関係があるから、紐はたるんでいる。歩調があっているから、紐がぴーんと張ることはない。その紐は人間の目からは「空にかか」っているようには見えないけれど、犬の低い目線からは空にかかっているように見えるかもしれない。
ここで、私は、犬になってしまって、「そうか」と感激したのである。
夕日の名残が広がる道も、きっと人間の目線から見るときと、犬の目線で見るときでは違っているだろうなあ。
犬は、わざわざそんなことを言わないので、わからないが。(私も犬を飼っているが、そんなことは考えたことがなかったが……。)
まだ帰る気がない人が
いっぱいいて
じゃまだから
道の端を遅れて歩いた
飼い主のあと(真後ろ)だけは、他人がはいり込む余地がないので安心して歩ける。邪魔者がないのだね。
ワンちゃんが黄昏の道を
歩いていた
遠くから幸せな仲間たちの
声が聞こえてきて
嬉しかった
犬にしか聞こえない声だけれど
家が舞っていることを知らせてくれた
一軒だけ灯りのついていない家が
ぽつんと 遠くで
手を振っていた
うーん、「ワンちゃん」の思いなのか、飼い主(新保)の思いなのか、区別がつかない。そこがいいんだな。家に帰る。そのことの「意味」を区別してもしようがない。家に帰るよろこび、家にいる(家がある)よろこび--に犬も人も区別がない。
そして、その家は、「灯り」がついて、完成する。中に人がいて完成する。その完成を家の方でも待っている。「手を振って」を私は、なんとなく「尻尾を振って」と読んでしまったのだけれど。
*
金井裕美子「置き場」は、プールに浮かんでぼんやりしているときのことを描いている。水泳の練習なのか。あるいは浮いているのは人間(金井)ではなく、もっとほかのもの、丸太とか死体とかかもしれないのだが、金井と思って私は読んだ。
プールに
浮いています
忘れられた浮き輪のように
ぷかっと
仰向けに浮いています
体の向きが変わって
プールの縁に
頭がこつんと閊えると
鎖骨のくぼみに
ながいながい竿の先がさしこまれて
ぐいっと押されます
まさか浮いている人間を竿で押し返す、しかも鎖骨のくぼみに竿を差し込んで、ということはないだろうから(だって、痛そうでしょ?)、浮いているのは金井ではないのだろうけれど、それでも金井と私は思いたい。
金井の肉体が、そのまま浮いている何かになっている。浮いている何かが金井の肉体になっている。その区別がつかなくなっている。この一体感が、詩、なのだ。
先に読んだ新保の「黄昏の道」では犬と飼い主が一体になっていた。犬と家が一体になっていた。かけ離れたものの偶然の出会いではなく、別個のものが「肉体」をとおして「ひとつ」になるとき、そこに詩があるのだ、と私は思う。
押し返された何かは別の何かとぶつかる。そのとき、その別の何かは、また別の誰かの「肉体」である。
押されると
思い出したように縁から離れ
漣を寄せて
体は
内へゆっくり移動します
水面に広がって
髪は藻のように揺れます
足の指が
だれかの腰骨に触れると
鳩尾に
差しこまれて
くいっと押されます
体は
あてもなく
ゆらりと向きを変えます
詩の中に「鎖骨」「足の指」「腰骨」鳩尾」など、肉体の部位を書き込むことで、何かと「肉体」の一体感があふれてくる。浮いているときの「水」さえ、その一体感のなかにはいってくる。
材木か死体かわからないけれど、そういうものになってみたい気持ちになる。自分の意識は関係なくて、ただだれかに押されてあっちへぷかり、こっちへぷかりと動きながら時間が過ぎていくというのは、いいものかも。
そこは無為の時間の「置き場」かもしれないなあ。
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