詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(82) 

2014-06-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(82)          

 「九時から」はカヴァフィスのことばの速さをあらわしている。カヴァフィスの詩には省略が多いが、それは省略というより、充実した時から別の充実した時への飛躍と読み替えることができる。

十二時半。九時からの時間の早さ。
明かりを点けてここに座ったのは九時。
本も読まず、口も開かずにずっと座っていた。

 何もしない。それでも時間が過ぎていく。そして、その何もしないとき、人は何をしているのか。

九時に明かりを点けた時から、
若かった私の身体の影が私に憑いて、
思い出させた。過去の情熱を閉じ込めた
むせかえる香の部屋部屋を。

 過去を思い出す。若かった自分の肉体を思い出す。官能のよろこびを思い出す。「部屋」ではなく「部屋部屋」と複数なのは、その思い出がいくつもあるからだ。そして、それはいくつもあるけれど「部屋」というひとつの単語のなかで繰り返される。つまり、それはいくつあっても「ひとつ」と同じことなのだ。
 このいくつあっても「ひとつ」ということが、時間を凝縮させる。時間の隔たりをなくしてしまう。
 若かった二十年前も十年前も、若くはなくなった一年前も、思い出の「部屋」のなかでは隔たりがなく、隣接している。それは「九時から」「十二時半」までの「三時間半」よりももっと「短い」時間のなかに、濃密に凝縮している。
 時間の凝縮が、時間の長さを「省略」してしまう。「時間」をのみこんでしまう。これが、カヴァフィスの「魔法」である。

十二時半。時間の経過のいかに疾き。
十二時半。過ぎし歳月のいかに多き。

 「疾い」と「多い」が重なり合う。区別がない。
 いや、それ以上のことが書かれている。
 してきたこと(過去)が多ければ多いほど、変化に富んでいれば富んでいるほど、それは濃厚な思い出を作り上げる。そして、その濃厚な思い出のなかに、時間はどんどん沈殿してゆく。その結果、時間は加速する。「過ぎし歳月(ひとつに収斂していく思い出)」が「多く」なければ、時間の経過は「疾く」はならないのだ。
 「疾き」「多き」と文語になっているのは中井の工夫だ。そこで時間が止まる。

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