詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」

2010-10-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」(「未来」2010年10月号)

 きのう読んだ小林稔の詩は難解だった。ことばを追いきれない。「その」が何を指しているか、特定できない。そこでつまずいていると、他のことばが、それぞれのことばを突き破るようにして動いていく。動いていることはわかるが、その軌跡がはっきりしない。複雑に入り乱れ、先へ進にしたがって、それまでの「文脈」の修正を要求してくる。「その」ということばで指し示しているはずのものが、どんどん「過去」へ遡っていく--そういう感じがする。
 こういう難解な詩を読むと、何か、思想とか、哲学とか、そういう高尚なものに触れたような気持ちになる。
 けれど、哲学(形而上の問題?)はややこしいことばの運動の中にだけあるのではない。一見、簡単そうに見えることばのなかにもある。それは簡単そうに見えるだけで、実は簡単ではない--ということを、大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」は書いている。
 「リンゴ」という詩を取り上げている。

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここにある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 この作品について、大橋は次のように書いている。

一つのリンゴ、その存在を「まぶしい」と感じられるまで見尽くすのである「リンゴの/この大きさは/このリンゴだけで/いっぱいだ」という杵築は、まどさんにとって、なんという深い驚きであったことだろう。

 「形而上」のことがらを大橋は「深い驚き」と書いている。哲学とは深い驚きである、ということになる。
 哲学は難解なことばによって語られるだけではなく、だれもが知っている「リンゴ」を題材にして、だれもが知っていることばだけでも語られる。いや、そういうことばの動きこそ、哲学というのにふさわしい、ということかもしれない。
 なんといっても、ことばは共有されてことばになるのだから、毎回テキストをそばにおいてでないと語れないようなことは、まだ「哲学」にはなりきれていなことばである、ということになるかもしれない。
 あることばが「深さ」をもてば、それが「思想」である、と大橋は言うかもしれない。私は、この大橋の考えに賛成である。どんなことばでも、それが「いま」「ここ」にある「深さ」と別の「深さ」をもてば、そこには「思想」が存在する、と思う。
 ちょっと、話を変える。

 最近、読者(山内聖一郎さん)から「思想」に関連してコメントが寄せられた。私は書かれている「内容」よりも、書き方(文体)にこそ「思想」を感じるが、山内聖一郎さんは私とは違ったふうに考えている。ひとの考えは違っているからこそおもしろいのだが、まど・みちおの詩を、「文体」から見ていくとどうなるか。そのことを書いてみたい。
 まど・みちおの詩には、山内さんの考える「思想」(答え)はないかもしれない。けれど、私の考えている思想(文体)がある。
 大橋が感心している「リンゴ」の2連目。私も、この連が非常に好きだ。「いっぱい」の発見も好きだが、その「いっぱい」に至る過程--文体に、「思想」を感じる。

リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ

 「この」が繰り返されている。「この」だけではなく、この詩では、すべてが繰り返されているのだか、その繰り返しの「思想的」特徴が「この」にとてもよくあらわれている。
 「この」がなくても、「意味」としては、かわらない。ひとつのリンゴの大きさはリンゴの大きさだけでいっぱいである。ほかのものを含んでいない。リンゴ以外のものを含まないまま、リンゴは「いっぱい」である。
 人間は、そういう具合にはなかなかいかない。人間は、じゃなくて、「私」はと言い換えないと語弊があるかもしれない。「その人」だけで「いっぱい」の「人」もいるかもしれないけれど、そして、そういうのが「私」の「理想」でもあるけれど、私の場合は、そんな具合に「私」ができあがっていない。いろんなもの、あからさまにいえば他人の考えや他人のことばがまじっていて、とても「私でいっぱい」という具合にいかない。
 でも、まあ、そういう「理想」のことを語るよりも……。

 「この」がなくても、意味はかわらない。けれども、まど・みちおは「この」をつかって書いている。それは、なぜなのか。--そういうことを、私は考えるのである。

 この連にあらわれる「思想」としての「この」、その「文体」について考えたことを書こう。(大橋さん、大橋さんの文章に対する感想から逸脱していくけど、許してくださいね。)
 「この」とある存在を特定する。そして、その「この」を繰り返す。そのとき、「この」ということばとともに反復されるのは「もの」ではなく「思考」であると私は考える。「この」とことばにすることで、「もの」から(つまりリンゴそのものから)ことばは離れ、思考そのものを動かす。リンゴはそこにある。思考はリンゴのまわりを動きはじめる。
 「この」を繰り返すとき、その「この」は同じものであって、同じではない。同じであるけれど、微妙に違う。どこが違うのか説明は難しい。あえていえば、「意識する」という精神のありようが違う。「意識する」という精神の動きによって、「もの」は「意識」になる。--あ、こんな書き方ではな、なんの説明にもならないねえ……。
 「この」がないと、「この」の繰り返しがないと、

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 へとことばが動いていかない。
 「この」という意識は「あること」と「ないこと」を結びつける存在なのだ。それは「接着剤」を通り越して、完全に「融合」している。
 繰り返すことは、分離することである。繰り返すためには、対象を離れなければならない。対象にくっついたままでは、動けない。
 「この」(対象)と「この」(意識)は離れている。そして、離れることが「融合」につながる。繰り返しが「融合」への一歩なのである。それは「ある」と「ない」と同様、ことばにすると「矛盾」するが、その「矛盾」はさらに「融合」によって「矛盾」することで、「いま」「ここ」になかったものを見えるようにする。
 何かを意識し、それを繰り返すとき、最初の何かが変質する。その変質を次の「この」が追いかけるとき、そこに、そのひとのもっている「精神」そのものが動きはじめ、「思想」を形作りはじめる。
 そんなことを、私は考えた。

 大橋は「未来」2010年09月号では、三好達治の「雪」を取り上げていた。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎を眠らせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

 何か私には納得できないことを書いていたので、何が書いてあったか忘れてしまった。(申し訳ない。)その詩で私が考えたことは(感じたことは)、実は、まど・みちおの「リンゴ」の詩に感じることと同じである。
 繰り返しが「思想」の文体である、「思想」は繰り返しの中から生まれる。
 「雪」では「太郎」「二郎」になっているが、私はそこに書かれている「太郎」も「二郎」も知らないから、「太郎」はほんとうは「二郎」であり、「二郎」はほんとうは「太郎」かもしれないとも思う。区別はできないけれど、そこにあえて区別を持ち込むなら、最初の1行と、その1行を少しずらす形で反復(繰り返し)した2行目があるということになる。繰り返すことではじめて、そこに「太郎」と「二郎」が生まれてくるのだと考える。
 最初の1行を「現実」とすると2行目は「意識」である。繰り返すことで「現実」と「意識」が分離し、そこに「現実」と「意識」が生まれてくる。
 ことばは繰り返すことによって、世界は「現実」から離れ「意識」へ踏み込むのだ。そして、この「遊離体験」が、読者を誘い込む。私たちは「現実」の「太郎」「二郎」を知らない。けれど、三好が「太郎」「二郎」とだれかを呼んでいるという世界を知る。そして、そこには雪が降っているということを「現実」としてではなく、三好の意識した「意識世界」として追体験する。私たちの「意識」が三好の「意識」に重なる。「二郎」になってしまう。
 実際に2軒の家があり、そこに「太郎」と「二郎」が眠っていたとしても、「太郎」のあとに「二郎」を繰り返すとき、読者は(私は)、「二郎」になってしまう。「二郎」になって、私の屋根に雪が降り積もる、そして私は眠るという世界が広がってくる。

 ある存在をことばにする。そして、そのことばを繰り返すとき、私たちは「もの」ではなく、何かを語るということの不思議さ、語るときに意識が集中し動くということを知る。その動きの中にこそ「思想」がある。何を使って、どう動くか--「文体」そのものが「思想」になるのは、そういうときである。
 「リンゴ」にもどる。

リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ

 最初の「この」はまど・みちおが持ち込んだ「リンゴ」そのものを指す。ところが次の「この」は、さらにその「リンゴ」そのものを意識する意識によって成り立っている。「意識」しないことには、「この」ということばは動かない。
 ひとつのものを繰り返す。繰り返すことで「集中」する。その「集中」のなかに、「思想」が動いてくるのだ。
 この「集中」を、大橋は「アリ」というまど・みちおの詩に触れながら、次のように語っている。

文字通り「穴のあくほど」対象を見つめるまどさんの尋常一様でない目がある。見つめ過ぎて「いのち」と「からだ」の区別もなくなった激しい光景が出現している。

 見つめること、それをことばにすることによって、「いのち」でも「体」でもないものになってしまう。その運動を大橋は「思想」(形而上)と呼んでいるのだと思う。
 どんなことばにも、見えるもの(対象の描写)と、見えないもの(対象を描写する意識)がある。そして、その意識の運動は、それがどんな形で書かれようと「思想」である。好き嫌いはあっても。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

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6 コメント

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一生懸命書きます (山内聖一郎)
2010-10-23 14:18:19
形而上詩?というものがあるのですね。形而上学は哲学とイコールでないし、”思想NE(ノット・イコール)哲学”だと思うのです。”山内の考える思想(答え)”というのも少し困ります。”思想NE答え”と思っています。
思想は哲学を完成(=終了)させる工程と考えます。

この大きさは
このリンゴだけで

の「この」は「りんご」という概念を言うのではないという意思。二次元的に二つとない一過性、という意味によって逆にりんご以外のすべてに想念を叩き出そうという企み。
「この」が無ければ第四連に続かないのは当然・・・なのではなく、第四連は変わってくる、それで良いと思う。第二連に在った「思想」は第四連において消えうせてしまった(これが「無思想」)。
「精神」の動きを物理的に工面する論輸には限界がある。”離れなければ繰り返せない”などは、実に物理の論輸であり、「精神」の能動を表すにはそれを狭めすぎている。
「精神は実は肉体を考えることもできない。精神にとって肉体とは、神と同等に他者である」。
繰り返すことで「思想」のように見せかけるだけである。裏に重層な思想が貼り付いて隠れているかの如くに装う・・・現代詩人がよく使う見飽きた手である(だから詩はデリダからも遠く残骸として放置される他なくなる)。
次郎も太郎もそのとおり読めば良い抒情詩であり、無理に「思想」という(コピー&ペースト的な)ファントムを立ち上げないと読めない理由が私には知れない。
「思想」が繰り返しの中に現れたと思われたら、かなり警戒すべきだ。「リフレインは安易に思想を腐らせる病弊である。讃美歌のように神にひれ伏すように狂った受肉の手管である」
三好達治は意識的に思想を書こうとしたわけでないし、書かれてもいない。けれど結果、確かに表された思想というのは確かにある(谷内さんはこれらを探知できる優れた哲人だ)。 しかしこれらはやはり終末ということを論理化する限りは「哲学の終り」には辿り着けそうもない、素晴らしいが淋しい断片だ。
思想を哲学を、「好き嫌い」で終わらせることなど到底不可能であることは、谷内さんの指摘されるとおりです。けれど思想は必ず意図して問い詰めていったものの中からしか哲学への収斂を果たさない。単なる抒情の重層構造が何万層重なろうが、思想の「化石」が一片、何万年後かにボロッと掘り出されるだけだろう。

ブログのご本人のお話よりも長いコメント書いて・・・これって許されませんね。本当にごめんなさい。
それにしても、谷内さんは眼もお悪い中でこれだけ読まれ、これだけ書かれる・・・すごい人だと思います。
お体をお大事に。ずっと楽しみに読んできました、1年~2年じゃありません。谷内さんがタレントなら実は私は「大ファン」なのかも知れません。これからもものすごく楽しみに読んでいきたいです。毎回の生意気な意見をお許し下さい。
返信する
山内聖一郎さん、 (谷内修三)
2010-10-24 01:22:51
コメントが私の書いたものより長くてもなんの不都合もありません。

いろいろな考え方があると思いますが、私は精神は肉体だと思っています。
ことばも肉体だと思っています。
精神の肉体や、ことばの肉体を、私は思想と呼んでいます。

山内さんとも、他の人とも違った「用語」だと思います。
違っていることを承知で私は書いています。
ほかの書き方がみつかれば、また別の書き方をします。
返信する
そのとおりですね (山内聖一郎)
2010-10-24 10:23:27
谷内さんの言われるとおり、谷内さんの書かれる「思想」・「哲学」は独自のものです。それを私の方が、むしろ勝手な違和感とわがままな正当性を申し立てて騒ぎ過ぎた感があります。
それも、谷内さんの使う言葉のほうが「おかしい」などとは、とても言えた筋合いではなく、私の使う「思想・哲学」という言葉も充分独善的でわがままな、わかりにくいものでした。また「文体」という言葉に対するときの、私の侮蔑を込めた拒否感も、ある種病的であったと反省しています。
お互いに何もかもが違った用語であったことを、教えて頂けて感謝しています。
私が常に、詩に違和感をもつ原因「精神が肉体を持つ(語る・考える)ことなど妄想であって絶対にできない」という確信も、谷内さんとは徹底的に違う「用語」だったと、思い知らされました。
返信する
山内聖一郎さん、 (谷内修三)
2010-10-24 15:05:56
ことばの問題はとても難しい。

私は、たとえばだれか著名な思想家のことばを読むとき、それを「頭」では理解できたつもりになっても、どうしても自分の「肉体」をくぐらせることができない。

たとえば、山内さんのことばで言えば「思想NE哲学」というときの「NE」。
これは「記号」になってしまって、「頭」のなかを整理するには都合がいいけれど、その「整理」のスピードが速すぎて、手や耳でもっているものが振り落とされてしまう。

私はゆっくりと、まだるっこしい感じで、自分の「肉体」を確かめながら、ことばを動かしたい。
そう思っています。
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切るときは切らないと (山内聖一郎)
2010-10-24 19:20:55
ノット・イコールは確かに変な「用語」でした。けれど、切るときは一気に切らないと、いわゆる皮膚感覚がついてきます。「痛い」「痒い」「冷たい」「暑い」・・・だからどうしたのだ? 肉体が肉体を感知しているだけのことで、精神の興亡にいったい何か?・・・と、無視する。皮膚も肉体も無関係、これ当然ではないですか?
毎月一度東村山のハンセン病資料館に行きます。何度も何度も同じ展示物を見ます。もう15年? 16年以上?・・・何度見てもわたしは、このわたしを許せません。この時代にいなかった私が許せないのです。切るときは切らないと、肉体などに、何が語れるのですか? 「肉」などに?!
誰にも(肉親にも)知られず最後までここで死のうと思い果てたハンセン病患者が今も幾人かいらっしゃいます・・・この「精神」とだけ一緒に私は生きます。おそるべき自惚れだけが私に「死」を数十年、思いとどまらせてきました。恥ずかしいですが・・・ごめんなさい、言い訳です。終り。
返信する
山内聖一郎さん、 (谷内修三)
2010-10-25 08:43:20
私は精神と肉体、という二元論がなじめない。
二元論でことばを動かしていくと、私の場合、どうしてもどこかでつまずいてしまう。

私は、「精神の肉体」「ことばの肉体」という具合に、「の」でつないで考えています。
「肉体の精神」ということばは、たぶんつかわないと思うけれど、「肉体のことば」はしきりにつかう。

「ことばの肉体」というときの「肉体」はもちろん比喩なのだけれど。

「比喩」というのは、「いま」「ここ」にないけれど、そこにあるかのようにして何かを呼び込むときにつかう方法。
つまり、私にもまだわからない何かをつかみとりたくて、私は「ことばの肉体」という表現をつかう。

山内さんのように、肉体と精神の関係を解明し、問題を解決してしまってから何かを書いているわけではないのです。
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