ほしのしほ『湯屋の花』(詩遊社、2010年08月20日発行)
「思想」はどのことばにもある。だれのことばであっても、そのことばが動く限り、そこに「思想」がある。ことばを動かしている人間が生きている限り、ことばにはそのひとの暮らしが入り込むからである。
プラトンやカントやデリダや吉本隆明のことばだけが「思想」なのではない。
ほしのしほ『湯屋の花』には難解なことばは出てこない。まど・みちおのようにぎりぎりに見つめられたことばも出てこない。そうではあっても、そこには「思想」がある。
「チンドンコンクール・昭和」はほしのが幼いころ家族でちんどん屋コンクールを見に行ったときのことを書いている。
何でもないことを書いている。何でもないことを書いているけれど、その何でもないことを省略せずに書いている。食券制の食堂で、注文の品と交換に食券の半分を持ち去る。食べたものではなく、その仕組みをじっと見つめている。見落としてしまいそうなことがらを、ほしのはていねいにことばにしている。
この見たもの、気づいたことがらを、ていねいにことばにするという姿勢、そのときのことばの運動のていねいさが、しほのの「思想」である。
詩集のなかでは、「角度」がいちばんおもしろかった。
世界はしほのの考え方(基準)通りにはできていない。違う基準をもつ人がいて、人間は生きている限り違う基準の人とも「同じ時間(いま)」「同じ場所(ここ)」にいないといけない。そして、そういうときには、「基準」の違いが「社会の仕組み」として見えてくる。
角度を測るには、その角度の頂点と分度器の中心(?)とを明確にあわせないといけない。中心は「点」でなければいけない。「花」では「中心」がわからない。
これは、ごくささいな「算数の世界」とかわいい花が好きという「ほしのの世界」がぶつかった一瞬のできごとだけれど、それを忘れずに書き留めておく--それがほしのの「思想」である。
そして、そういう「思想」を書き留める「居心地が良い」(湯屋の花)場が、ほしのにとっては詩である、詩を書くと、ことばが「居心地が良い」と感じて、そこに生きつづける、生きつづけていることが実感できる、だからほしのは詩を書いている、そして一冊の詩集になった。
その「思想」は幼いこども時代から、大人になったいまも変わらない。そのことばは自然にほしのの「自分史・半世記」になっている。
ただし、その「思想」の世界は、あまりおもしろくない。そういう「思想」があるということはわかるけれど、私にはあまりおもしろくない。
これが、文学というか、詩の不思議なところである。ことばのおかしなところである。ひとりの人間の「半生」がその人自身のことばで書かれているけれど、何か足りないと感じてしまう。
「思想」ならすべておもしろいかというと、そうではないのだ。
だから、困るのだ。
「思想」はどのことばにもある。だれのことばであっても、そのことばが動く限り、そこに「思想」がある。ことばを動かしている人間が生きている限り、ことばにはそのひとの暮らしが入り込むからである。
プラトンやカントやデリダや吉本隆明のことばだけが「思想」なのではない。
ほしのしほ『湯屋の花』には難解なことばは出てこない。まど・みちおのようにぎりぎりに見つめられたことばも出てこない。そうではあっても、そこには「思想」がある。
「チンドンコンクール・昭和」はほしのが幼いころ家族でちんどん屋コンクールを見に行ったときのことを書いている。
お昼ごはんはデパートの
最上階にある
食堂で食べた
注文の品が
テーブルの上に並び
ウエイトレスさんが
食券の半分を
持っていった
何でもないことを書いている。何でもないことを書いているけれど、その何でもないことを省略せずに書いている。食券制の食堂で、注文の品と交換に食券の半分を持ち去る。食べたものではなく、その仕組みをじっと見つめている。見落としてしまいそうなことがらを、ほしのはていねいにことばにしている。
この見たもの、気づいたことがらを、ていねいにことばにするという姿勢、そのときのことばの運動のていねいさが、しほのの「思想」である。
詩集のなかでは、「角度」がいちばんおもしろかった。
文具店で買った
分度器は
中心に
お花の絵が
描いてあり
とても可愛かった
算数は
苦手だったが
早く使いたかった
いよいよ
その日が来た
ところが
私の机上を見て
「これは正確な角度が
測れません」
先生が言った
次の授業でも
同じ分度器を
持っていった
また同じことを
言われた
世界はしほのの考え方(基準)通りにはできていない。違う基準をもつ人がいて、人間は生きている限り違う基準の人とも「同じ時間(いま)」「同じ場所(ここ)」にいないといけない。そして、そういうときには、「基準」の違いが「社会の仕組み」として見えてくる。
角度を測るには、その角度の頂点と分度器の中心(?)とを明確にあわせないといけない。中心は「点」でなければいけない。「花」では「中心」がわからない。
これは、ごくささいな「算数の世界」とかわいい花が好きという「ほしのの世界」がぶつかった一瞬のできごとだけれど、それを忘れずに書き留めておく--それがほしのの「思想」である。
そして、そういう「思想」を書き留める「居心地が良い」(湯屋の花)場が、ほしのにとっては詩である、詩を書くと、ことばが「居心地が良い」と感じて、そこに生きつづける、生きつづけていることが実感できる、だからほしのは詩を書いている、そして一冊の詩集になった。
その「思想」は幼いこども時代から、大人になったいまも変わらない。そのことばは自然にほしのの「自分史・半世記」になっている。
ただし、その「思想」の世界は、あまりおもしろくない。そういう「思想」があるということはわかるけれど、私にはあまりおもしろくない。
これが、文学というか、詩の不思議なところである。ことばのおかしなところである。ひとりの人間の「半生」がその人自身のことばで書かれているけれど、何か足りないと感じてしまう。
「思想」ならすべておもしろいかというと、そうではないのだ。
だから、困るのだ。