木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年05月25日発行)
木下龍也『つむじ風、ここにあります』は歌集。
私はいつも読み違える。読み違えたまま感想を書こうとして、引用して、あ、間違えたと気づく。
私は巻頭のこの歌が、最初は好きだった。この歌が好きだったとき、私は
と読んでいた。「舐めとるときは」ではなく「舐めるとき」。7音ではなく5音なのだから、その段階で間違いに気づくべきだったのかもしれない。でも、気づかなかった。短歌のリズムが私の肉体になっていないためだろう。そういう「門外漢」がこの歌集を読むと、まあ、次のような感想になる。
まず、私が読み間違えた巻頭の一種。「舐めとるときは」という音の中には「と」の繰り返しがある。そしてそれはこの歌の主題(?)でもある「ひとり」の「と」と呼応するのだが……。うーん、私の感覚では、この歌の基調音は「い」である。「と」が後半で重なると「い」の音が聞こえにくくなる。それが残念。「裏側に張りついている」には「に」を含めて「い」の音がたたみかけるように動く。それが「ヨーグルト」で別の音になり、「なめるとき」(誤読の短歌を優先して書いておく)ともう一度別な音になり、「いつもひとりだ」で「い」にもどる。
そのとき、「舐めるときは」ではなく「舐めるとき」と「は」がないと、「き」のなかの「い」と「いつもの」「い」が重なり合うようにして動く。「とき」のなかの「い」が「いつも」の「い」を押し出して、その押し出された勢いで「ひとりだ」というセンチメンタルが動く。「は」があると……どうも「勢い」中断する。そして、なんといえばいいのか「意味」が強調される。
この「意味の強調」は、私にはちょっと息苦しい。
たぶん、木下にとっては、短歌は「意味」なんだろうなあ。「文学」は「意味」なんだろうなあと思う。
自販機のなかには冷たい水がある。けれどもカゲロウはそれを飲むことができず、喉は渇いたままである。「意味」とは、ここでは「矛盾の構造」と同じようなものである。「矛盾」によって、いままで意識しなかった世界が見えてくる。その発見が「意味」であり、「詩」である、ということになる。
ホテルの、だろうか、カードキーを忘れて外に出てしまったために、部屋に入れない。それは部屋に閉じ込められるの逆で世界に閉じ込められるということである。締め出されるを、逆に言ってみる。そこにも「矛盾」のようなもの、「逆説」のようなものがあり、その「逆」の視点によって世界が新しくなる。
こういうことばの運動は、秋亜綺羅の詩にいくらか似ている。
これはこれで木下の個性なのだろうから、これ以上「批評」しても、あまりおもしろくないことになる。
そういう「世界の見せ方」が評価されているのだろうけれど、私には、あまりおもしろくない。「頭」で書かれた作品、という感じがどうしてもしてしまい、そこに「肉体」が見えてこない。「肉体」を「分有/共有」する感じがしない。
私が気に入ったのは、たとえば
ここにはじかに「肉体」が「おぼえていること」が出てくる。「肉体がおぼえていること」だけが、ビニール傘を自分のものと主張する。これはいい。ここには「無意味」がある。「矛盾」とか「逆説」を追いかけて、「世界」を別の角度から見るのではなく、ただじかに「もの」に触れて、触れることによって「おぼえていること」を「事実」にする。「事実」というのは「無意味」だ。「このくたびれた傘は私のものである」というのは、「新しい」世界ではない。「古い世界」であり、「古い世界」を強固にしたものである。この「強固」が、私の感覚の意見では詩であり、思想である。「肉体」である。
「ようやく」が「肉体」である。思想である。「理解する」というのは、いつでも遅れてやってくる。(季村敏夫を、私は何度でも思い出す。私は季村敏夫の『日々の、すみか』によって、「肉体」をたたかれ、ことばをたたかれ、思想を仕込まれたと感謝している。)いくつもの手で撫でられる。その「撫でる」という「肉体」が少年の「肉体」をいままでとは違うものにかえてしまう。その「変化」のなかで少年は父の死を「思い出す」。「肉体」は、父の死をはっきりと「おぼえる」と言い換えてもいい。
「わかる」とは「肉体がおぼえる」ことなのだ。
この「やっぱり」も「肉体」である。「肉体」の世界の発見の仕方は「逆説」ではなく「順接(?)」である。ただ、それをおしつづける。「肉体」をくりかえしおしつづけると、だんだん「じか」が出てくる。それが「ほんもの」になる。
「逆説」の描き出す構図は「あざやか」というか、印象に残るが、それは「頭」が刺戟されるということであり、それは最終的にはどっちだっていい、ということになる。ほかの「逆説」もあるという感じがする。--これは、私の直感であり、印象にすぎないけれど。
これも順接。「肉体」には「逆説」などない。とても強烈な響きがある。
ここにも逆説はない。ただ時間がすぎる順序で、世界が自然に変わってゆく。「人為」がない。「人為がない」ということが自然であり、「肉体の思想」なのだ。目が生きて動いている。「写生」というのかもしれないけれど。
ほかにも
にも私は二重丸をつけた。
逆に×をつけたのは。
これは寺山修司あたりが書きそうな「頭」の「物語」。「頭」の「物語」のセンチメンタル。大富豪が(そんなことはないだろうけれど)道に落ちているものを拾い集める趣味があって、その拾い集めているものに名前をつけているという「物語」なら、そのセンチメンタルはかなり違ったものになる。「遺失物保管係」を選んだとき、そこにはすでにセンチメンタルが用意されている。それを「頭」で増幅したのが、木下の短歌である。
「銃じゃなくて」が「頭」で考えた「平和」。寺山修司や秋亜綺羅なら「銃なら」と肯定するだろう。「銃じゃなくて」という否定、否定による世界の見せ方--この短歌に、たぶん木下のことばの運動がいちばん的確にあらわれていると思う。
この一首が好きなひとは、私がいちゃもんをつけた短歌は全部好きだと思う。
木下龍也『つむじ風、ここにあります』は歌集。
私はいつも読み違える。読み違えたまま感想を書こうとして、引用して、あ、間違えたと気づく。
裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ
私は巻頭のこの歌が、最初は好きだった。この歌が好きだったとき、私は
裏側に張りついているヨーグルト舐めるときいつもひとりだ
と読んでいた。「舐めとるときは」ではなく「舐めるとき」。7音ではなく5音なのだから、その段階で間違いに気づくべきだったのかもしれない。でも、気づかなかった。短歌のリズムが私の肉体になっていないためだろう。そういう「門外漢」がこの歌集を読むと、まあ、次のような感想になる。
まず、私が読み間違えた巻頭の一種。「舐めとるときは」という音の中には「と」の繰り返しがある。そしてそれはこの歌の主題(?)でもある「ひとり」の「と」と呼応するのだが……。うーん、私の感覚では、この歌の基調音は「い」である。「と」が後半で重なると「い」の音が聞こえにくくなる。それが残念。「裏側に張りついている」には「に」を含めて「い」の音がたたみかけるように動く。それが「ヨーグルト」で別の音になり、「なめるとき」(誤読の短歌を優先して書いておく)ともう一度別な音になり、「いつもひとりだ」で「い」にもどる。
そのとき、「舐めるときは」ではなく「舐めるとき」と「は」がないと、「き」のなかの「い」と「いつもの」「い」が重なり合うようにして動く。「とき」のなかの「い」が「いつも」の「い」を押し出して、その押し出された勢いで「ひとりだ」というセンチメンタルが動く。「は」があると……どうも「勢い」中断する。そして、なんといえばいいのか「意味」が強調される。
この「意味の強調」は、私にはちょっと息苦しい。
たぶん、木下にとっては、短歌は「意味」なんだろうなあ。「文学」は「意味」なんだろうなあと思う。
自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる
自販機のなかには冷たい水がある。けれどもカゲロウはそれを飲むことができず、喉は渇いたままである。「意味」とは、ここでは「矛盾の構造」と同じようなものである。「矛盾」によって、いままで意識しなかった世界が見えてくる。その発見が「意味」であり、「詩」である、ということになる。
カードキー忘れて水を買いに出てぼくは世界に閉じ込められる
ホテルの、だろうか、カードキーを忘れて外に出てしまったために、部屋に入れない。それは部屋に閉じ込められるの逆で世界に閉じ込められるということである。締め出されるを、逆に言ってみる。そこにも「矛盾」のようなもの、「逆説」のようなものがあり、その「逆」の視点によって世界が新しくなる。
こういうことばの運動は、秋亜綺羅の詩にいくらか似ている。
これはこれで木下の個性なのだろうから、これ以上「批評」しても、あまりおもしろくないことになる。
そういう「世界の見せ方」が評価されているのだろうけれど、私には、あまりおもしろくない。「頭」で書かれた作品、という感じがどうしてもしてしまい、そこに「肉体」が見えてこない。「肉体」を「分有/共有」する感じがしない。
私が気に入ったのは、たとえば
手がかりはくたびれ具合だけだったビニール傘のひとつに触れる
ここにはじかに「肉体」が「おぼえていること」が出てくる。「肉体がおぼえていること」だけが、ビニール傘を自分のものと主張する。これはいい。ここには「無意味」がある。「矛盾」とか「逆説」を追いかけて、「世界」を別の角度から見るのではなく、ただじかに「もの」に触れて、触れることによって「おぼえていること」を「事実」にする。「事実」というのは「無意味」だ。「このくたびれた傘は私のものである」というのは、「新しい」世界ではない。「古い世界」であり、「古い世界」を強固にしたものである。この「強固」が、私の感覚の意見では詩であり、思想である。「肉体」である。
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
「ようやく」が「肉体」である。思想である。「理解する」というのは、いつでも遅れてやってくる。(季村敏夫を、私は何度でも思い出す。私は季村敏夫の『日々の、すみか』によって、「肉体」をたたかれ、ことばをたたかれ、思想を仕込まれたと感謝している。)いくつもの手で撫でられる。その「撫でる」という「肉体」が少年の「肉体」をいままでとは違うものにかえてしまう。その「変化」のなかで少年は父の死を「思い出す」。「肉体」は、父の死をはっきりと「おぼえる」と言い換えてもいい。
「わかる」とは「肉体がおぼえる」ことなのだ。
台本にゆれるゆれると書いてありやっぱり僕は木の役だった
この「やっぱり」も「肉体」である。「肉体」の世界の発見の仕方は「逆説」ではなく「順接(?)」である。ただ、それをおしつづける。「肉体」をくりかえしおしつづけると、だんだん「じか」が出てくる。それが「ほんもの」になる。
「逆説」の描き出す構図は「あざやか」というか、印象に残るが、それは「頭」が刺戟されるということであり、それは最終的にはどっちだっていい、ということになる。ほかの「逆説」もあるという感じがする。--これは、私の直感であり、印象にすぎないけれど。
爆風は子どもの肺にとどまって抱き上げたときごほごほとこぼれた
これも順接。「肉体」には「逆説」などない。とても強烈な響きがある。
救急車の形に濡れていない場所を雨は素早く塗り消してゆく
ここにも逆説はない。ただ時間がすぎる順序で、世界が自然に変わってゆく。「人為」がない。「人為がない」ということが自然であり、「肉体の思想」なのだ。目が生きて動いている。「写生」というのかもしれないけれど。
ほかにも
たくさんの孤独が海を眺めてた等間隔に並ぶ空き缶
呼応して閉じられてゆく雨傘の最初のそれにぼくはなりたい
にも私は二重丸をつけた。
逆に×をつけたのは。
遺失物保管係が遺失物ひとつひとつに名前をつける
これは寺山修司あたりが書きそうな「頭」の「物語」。「頭」の「物語」のセンチメンタル。大富豪が(そんなことはないだろうけれど)道に落ちているものを拾い集める趣味があって、その拾い集めているものに名前をつけているという「物語」なら、そのセンチメンタルはかなり違ったものになる。「遺失物保管係」を選んだとき、そこにはすでにセンチメンタルが用意されている。それを「頭」で増幅したのが、木下の短歌である。
少年がわけもわからず受け取ったティッシュが銃じゃなくてよかった
「銃じゃなくて」が「頭」で考えた「平和」。寺山修司や秋亜綺羅なら「銃なら」と肯定するだろう。「銃じゃなくて」という否定、否定による世界の見せ方--この短歌に、たぶん木下のことばの運動がいちばん的確にあらわれていると思う。
この一首が好きなひとは、私がいちゃもんをつけた短歌は全部好きだと思う。
つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1) (新鋭短歌シリーズ (1)) | |
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はじめまして。木下龍也と申します。
短歌をつくるとき、自分の中でもやもやしていた部分を言語化していただきとても勉強になりました。
拙著をお読みいただきありがとうございました。