池田順子「つつみ」「やくそく」(「ガーネット」58、2009年07月01日発行)
池田順子「つつみ」は、女性の肉体についての詩。
「どこから うまれてきたの?」という問いが、あらゆる子供がもつ疑問かどうか、私は知らない。私は、この疑問を一度も持ったことがない。どこから生まれてきたか、疑問に感じたことがない。気がついたら、知っていた。疑問に思う前に、悪ガキ仲間が教えてくれたということなのだろうけれど、教えられたことに対してびっくりしたという記憶もない。鶏が卵を産んだり、牛が子牛を産んだりするのを、ものごころがつく前に見ていた、ということが影響するのかもしれない。
ことばよりも前に、事実があったのだ。
池田の「ことばが/あわだっている」という行に出会って、そんなことを思った。同時に、そうか、ことばをとおしてというか、ことばにすることで人は事実を受け入れていくのか。人は事実を肉体に納得させるのか、とも思った。
私は産むという性と無関係なせいか(いい加減で、乱暴な言い方になってしまうが)、産む、いのちをつなぐということを、女性が「ことば」をとおして納得している、受け入れているということに気がつかなかった。女性の体験は何度も聞いたことがあるし、読んだこともある。ことばにふれながら、それがことばとは感じたことがなかった。もしかすると、私が読んできたことば、触れてきたことばに対して、そのことばを発した女性たちは「ことば」という意識を持たずに語っているかもしれない、とも思った。たまたま私が接触した女性は、ことばを語るとき、ことばを語っているという意識を持たずに、ただ、「事実」を語っている、体験したことを語っている、と思っているだけなのかもしれなかった。
池田は、違う。「ことば」を意識している。
「ことば」のなかで、自分を見つめ、自分を存在させようとしている。そしてそれは、冒頭の母と少女の対話が象徴的だが、母から娘へと、しっかりつながっていくことばなのだ。ことばのなかで、少女は、女になり、母になる。そして、少女が女になり母になるのを見つめる。
「とめるすべもなく/はじらうすべもなく」の「すべもなく」。それは確かに「術のない」ことである。それは、本来ことばと無関係なことがらである。(と、書くと、女性から叱られるだろうか。)それは、いのちの「本能」に属することがらであり、ことばを超越した何かである。またまたいい加減なことを書いてしまうが、それは、人間が考えなくていいことがらというか、ことばを持たない「いきもの」すべてが、ことばにすることなく知っていることがらである。(と、産むということを体験したことのない男である私は、無責任に考えている。)しかし、そのことばの領域を超えた世界を、池田は、ことばにしたいと願っている。
「ことば」を意識している。
「すべなく」としか言えない。けれど、そう言うのだ。そう「ことば」にするのだ。そうして、そのことばを超えた世界を、自分の「肉体」そのものにする。さらに、それを共有しようとする。「女(ひと)」と。
「ひと」には男も女もふくまれるが(と男である私は、無意識に男を優先させて書いているが)、池田にとって「ひと」とはまず「女」である。「女」とことばを共有しようとしている。少女が母に「どこから うまれてきたの?」と秘密を訪ねるように、お風呂で静かに聞いたように、お風呂で内緒話をするように、裸の肉体を接触させながら、小さな声で「女」に語りかける。そういう「ことば」を紡ぎだしている。
この、静かな親密さと「ひらがな」の関係が、とても気持ちがいい詩である。
「やくそく」は「指切り」を題材にしているが、この詩にも、ことばと肉体の親密な関係がある。
ことばはときどき「肉体」を裏切る。「指切り」とことばは言うが、指は切られず、いまも肉体にきちんとつながっている。けれど、ことばのなかで、切られた指が失われたまま、どこかで泣いている。
ことばは、肉体を超える。
そして、そのことばは肉体によって否定される。(指は、あいかわらず、手の先にある)。それでも、ことばにする。ことばのなかにある肉体を静かに差し出す。
この悲しみは「愛しみ」と書くべきことがらかもしれない。
池田順子「つつみ」は、女性の肉体についての詩。
やわらかくちいさなおしりをひざにのせ
どこから うまれてきたの?
と
少女は
ちいさなつつみをそっとおいた
やんわりゆわえてあるのだが
ほどくのに
ことばが
あわだっている
「どこから うまれてきたの?」という問いが、あらゆる子供がもつ疑問かどうか、私は知らない。私は、この疑問を一度も持ったことがない。どこから生まれてきたか、疑問に感じたことがない。気がついたら、知っていた。疑問に思う前に、悪ガキ仲間が教えてくれたということなのだろうけれど、教えられたことに対してびっくりしたという記憶もない。鶏が卵を産んだり、牛が子牛を産んだりするのを、ものごころがつく前に見ていた、ということが影響するのかもしれない。
ことばよりも前に、事実があったのだ。
池田の「ことばが/あわだっている」という行に出会って、そんなことを思った。同時に、そうか、ことばをとおしてというか、ことばにすることで人は事実を受け入れていくのか。人は事実を肉体に納得させるのか、とも思った。
私は産むという性と無関係なせいか(いい加減で、乱暴な言い方になってしまうが)、産む、いのちをつなぐということを、女性が「ことば」をとおして納得している、受け入れているということに気がつかなかった。女性の体験は何度も聞いたことがあるし、読んだこともある。ことばにふれながら、それがことばとは感じたことがなかった。もしかすると、私が読んできたことば、触れてきたことばに対して、そのことばを発した女性たちは「ことば」という意識を持たずに語っているかもしれない、とも思った。たまたま私が接触した女性は、ことばを語るとき、ことばを語っているという意識を持たずに、ただ、「事実」を語っている、体験したことを語っている、と思っているだけなのかもしれなかった。
池田は、違う。「ことば」を意識している。
ことばが
あわだっている
「ことば」のなかで、自分を見つめ、自分を存在させようとしている。そしてそれは、冒頭の母と少女の対話が象徴的だが、母から娘へと、しっかりつながっていくことばなのだ。ことばのなかで、少女は、女になり、母になる。そして、少女が女になり母になるのを見つめる。
初めて
あかいはなびらがちっていくのを
ゆぶねでみた
とめるすべもなく
はじらうすべもなく
ちる
はなびら
はなびらが
ちるたびに
うすいひふのおくからうきあがるように
蕾が
うまれて
せまい場所で
土をにぎりしめ
棘をからだの芯につつみ
はなも
蕾も
ちらされた
女(ひと)たちがいた
あらがう
はなびらが
ちるたびに
つつみ
を
そおっとだきしめる
「とめるすべもなく/はじらうすべもなく」の「すべもなく」。それは確かに「術のない」ことである。それは、本来ことばと無関係なことがらである。(と、書くと、女性から叱られるだろうか。)それは、いのちの「本能」に属することがらであり、ことばを超越した何かである。またまたいい加減なことを書いてしまうが、それは、人間が考えなくていいことがらというか、ことばを持たない「いきもの」すべてが、ことばにすることなく知っていることがらである。(と、産むということを体験したことのない男である私は、無責任に考えている。)しかし、そのことばの領域を超えた世界を、池田は、ことばにしたいと願っている。
「ことば」を意識している。
「すべなく」としか言えない。けれど、そう言うのだ。そう「ことば」にするのだ。そうして、そのことばを超えた世界を、自分の「肉体」そのものにする。さらに、それを共有しようとする。「女(ひと)」と。
「ひと」には男も女もふくまれるが(と男である私は、無意識に男を優先させて書いているが)、池田にとって「ひと」とはまず「女」である。「女」とことばを共有しようとしている。少女が母に「どこから うまれてきたの?」と秘密を訪ねるように、お風呂で静かに聞いたように、お風呂で内緒話をするように、裸の肉体を接触させながら、小さな声で「女」に語りかける。そういう「ことば」を紡ぎだしている。
この、静かな親密さと「ひらがな」の関係が、とても気持ちがいい詩である。
「やくそく」は「指切り」を題材にしているが、この詩にも、ことばと肉体の親密な関係がある。
ゆびきり
げんまん
うそついたら
はりせんぼんのぉます
ゆびきった
と
きったゆびは
いったいどこへ行ったのだろう
(略)
きったゆびが
いまも
どこかで
泣いている気がして
ふっと立ち止まる
陽を抱いて
やくそくを
抱いて
ことばはときどき「肉体」を裏切る。「指切り」とことばは言うが、指は切られず、いまも肉体にきちんとつながっている。けれど、ことばのなかで、切られた指が失われたまま、どこかで泣いている。
ことばは、肉体を超える。
そして、そのことばは肉体によって否定される。(指は、あいかわらず、手の先にある)。それでも、ことばにする。ことばのなかにある肉体を静かに差し出す。
この悲しみは「愛しみ」と書くべきことがらかもしれない。
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