『旅人かへらず』のつづき。
一一六
旅につかれて
村の言葉でよそぞめといふ木の下で
休んでゐた時考へた
杓子の化物を考へた
偉大な神話づくりが
我々の先祖の中にゐた
立ち上がってみると
秋も大方過ぎてゐた
「よそぞめ」。村の言葉とあるから標準語ではないのだろう。どんな木なのかわからないが、もし、西脇が木そのものに関心があったなら、枝がまがっているとか、葉っぱがくたびれているとか、何らかの描写があっていいはずだ。特に、西脇が「絵画的な詩人」であるなら、そういう描写がなければならない。
けれども、絵画的な描写はない。
西脇は、ここでは「よそぞめ」という音そのものに反応している。その音にふさわしい音を展開して楽しもうとしているのだ。「そ」「ぞ」の繰り返し。繰り返しながら、清音と濁音のずれ。ゆらぎ。
それが「考へた」「考へた」という繰り返し(脚韻)のなかにある。繰り返される「考へた」は2回目は単に脚韻を踏んでいるだけではなく、行のわたりとなって、別の行へ行く。同じ音であっても、そのなかで「意識」がずれる。このずれは、清音と濁音のずれのように、なんだか、意識がむずがゆい。意識がくすぐられる。「中にゐた」「過ぎてゐた」の「ゐた」の繰り返しも愉しい。
また、「杓子といふ化物」という表現がおかしい。意識の関節が脱臼しそうなおかしさである。杓子が「偉大な神話」というのも、意識の脱臼を誘う。
こういうずれは、「よそぞめ」という音に出会うことからはじまっている。
西脇の意識を活発にするのは「音」、聞いたことのない音なのだ。
一一八
偉大な小説には
子供の雑記帳に鉛筆で書き始めた
ものがあると誰か言つてゐる
秋のきりん草の中でさう思ひ出した
「偉大な小説」と「子供の雑記帳」「鉛筆」のとりあわせ、そして、その取り合わせを独立させるような、「ものがある」という行の断絶。「書き始めた/ものがある」という行の展開は、意識の流れを叩ききりながら、繋いで見せる。その一瞬に、その間(ま)に、無意味(ナンセンス)の無垢と空白が輝く。
空白というより、透明かもしれない。
それは秋の透明さかもしれない。
そして、この最終行の透き通った感じは「秋」の「き」、「きんり草」の「き」、「きりん草」の「そう」、「さう思ひだした」の「さう」と響きあう。その音の響きの透明さと、とても似合っている。
一一九
人間の声の中へ
楽器の音が流れこむ
その瞬間は
秋のよろめき
これは、音への関心をそのまま書いていて、西脇の嗜好(思考)を知るにはいい断片だが、音そのものは、あまり愉しくはない。
ことばが「意味」になってしまうとき、音の喜びは消える。ナンセンスな意味の脱臼が音楽には不可欠なものなのかもしれない。
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