永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(4)(思潮社、2011年04月25日発行)
永島卓のことばはねじれている--と書くと、「おまえのことばこそがねじれている」と言われそうだが……。私は永島のことばが「ねじれている」ことを批判しているのではない。評価しているのである。ことばは誰のことばでも「正確」ではない。必ず「間違い」を含んでいる。そこに引きつけられるのである。「正確」を破ってはみだしていく力--そこにことばの本能、欲望をを感じるのだが、それはことばの欲望・本能であると同時に永島自身の欲望・本能、つまり「肉体」だと思うのである。「正確」を破ってことばが動くとき、ことば自体は「間違える」のであるが、そのとき「肉体」は間違えない。欲望や本能は間違えない。欲望や本能が間違えないからこそ、それを制御できない(?)ことばのほうがねじれて、逸脱していく。「間違い」を突っ走る。
そして、そのときの永島のことばの特徴、「肉体」の特徴、欲望・本能の特徴は「長い呼吸」である。「息継ぎ」がないところにある。本来(?)、ふたつのものが、「息継ぎ」によってふたつに整理されるべきものが、「ひと呼吸」(一息)のなかに封印される。どういえば、いいのだろうか。「もの」と「思考」が「ひと呼吸」のなかに閉じ込められ、強引に攪拌されて吐き出される。
それは一種の「嘔吐」かもしれない。
吐瀉物--何かしらの原型をとどめながら、異臭を放って輝く汚物。それは「美しい」ものではないかもしれないが(一般的には「美しい」とは言われないが)、なぜか「美しい」と感じるときがある。それは、吐瀉物のなかに「もの」の形が残されているからなのか、それともそこに「もの」を吐き出してしまう「肉体」のどうすることもできない抵抗の「力」があるからなのか--よくわからない。たぶん、そこには「もの」と「肉体」のせめぎあい、抵抗の「力」が輝いているのだ。
あ、きょうもまた、変な具合にことばが動いていく。「吐き出す」ということばが動き、それが「吐瀉物」にかわったときから、私はどうしようもなく逸脱しはじめている。だんだん永島の作品を離れ、私の感じている「感じ」の方へ傾いて、暴走しはじめている。永島の詩にもどろう。もどらなければならない。
「夏の冬」。「原爆投下したアメリカの男がテレビで話す戦争」というサブタイトルがついている。
これは、サブタイトルを頼りに「理解」すれば、テレビでアメリカの男が原爆を投下したときのことを自慢げに(自信ありげに)話した、それを聞いたということだろう。「我々が原爆を投下し、戦争を終結させた。その終結によって、それ以後の損失を回避できたのだ」とアメリカ人が自信ありげに話したのを聞いたということだろう。
そのときの「背景」として「八月」「座礁船」がある。「八月の座礁船」を思い浮かべながら、その座礁船に乗っているのが「わたし」だと感じながら、永島はアメリカ人の話を聞いたのだ。
戦争に敗れた「日本」が「座礁船」の象徴かもしれない。ここには、あまり「逸脱」というものがないように見えるが、「座礁船」という「比喩」が「逸脱」である。--それは、あまりにも平凡な(?)比喩なので、逸脱とは気づきにくい。しかし、戦争に敗れた国を、座礁した船、動かなくなった船と呼ぶのは、「逸脱」であることに間違いはない。永島は、それを実際に座礁船のなかで聞いた(見た)のではなく、彼自身の家で(たぶん)見聞きしたのだから。永島の「肉体」のなかに「座礁船」が姿をあらわし、それがアメリカ人のことばを受け止める。
そうすると、アメリカ人の話していることが、「胸を張り自信ありげ」という態度とともにあらわれてくる。この部分も、実は、逸脱である。「これ以上失うものは我々によってのみ回避できた」が話の「内容」だとすれば、その「内容」が「正確」であるかどうかは、その「内容」を分析・吟味することによってのみ判断されるべきことなのだが、人間は(人間の本能)はそんなふうには動かない。無辜の日本人を大量殺戮しておいて、その態度、「胸を張」るその態度は何なんだ。その「自信」は何なんだ。おかしいじゃないか。--これは、私の「ことば」で言いなおすと、永島はアメリカ人の話した「ことばの意味」に反発していると同時に、その「声」(肉体)に反応しているということである。そして、こういう反応、「声」(肉体)に対する反応には、絶対に「間違い」というものはない。そして、これからが面倒くさいのだが、その反応が「間違いない」ということを、もう一度「頭」をとおしたことば、整理したことばに置き換えるのは、実は、とても面倒である。そんなことは、普通、人間にはなかなかできない。相手の態度にむかっときて、怒りが爆発する。「意味」ではなく、「声」、「肉体の音」で反撃し、けれど、十分に反論できずに、哀しく、悔しい思いにとらわれる。
「息」が、まず「本能・欲望」(怒り)を吐き出してしまって、「意味」がついてこれないのだ。「意味のないことば」(反論にならない反論)になってしまう。「間違い」を言ってしまう。--けれど、その「間違い」こそが、唯一「正しい」ものなのだ。
これは、アメリカ人の発言に怒り、その怒りで永島の体が苦しくなったということを「比喩」をつかって書いているのだが。
ほら、ここには大量殺人に対する論理的批判(意味)というものが、ひとことも書かれていないでしょ? この反論がアメリカ人に通じるわけがない。通じるわけがないのだけれど、そこに「意味」を越えた「正しさ」(間違いのなさ)がある。
こういう「意味を越えた間違いそのものの正しさ」(矛盾した言い方だねえ)が永島のことばを動かしている。「息」のなかで「間違い・正しさ」が同居して動いていく。「間違い・正しさ」が語弊の多い表現だとすれば……この詩集の感想として最初に書いたこと--ふたつの文章が結合して動いていくというのが永島の「ことばの肉体」なのだ。
「意味を越えた間違いそのものの正しさ」は、それでも「ことば」になろうとする。一気に、息継ぎ(呼吸)をしないまま、動く。たとえば、それが、
である。「刃物の並んだキッチン」ならだれでも想像できる。けれど「自戒や弁明のない刃物」って、何? わからないでしょう? まあ、「意味」は考えろといわれれば考えるけれど……。考えてもしようがないというか、「自戒や弁明もない」と「刃物」というかけ離れたものを「ひと呼吸」のなかに閉じ込めてしまう「肉体」が永島だと信じるのがいちばんいいのだ。その「肉体」を好きになる(納得する)かどうかが、読者にまかせられているである。
これも同じである。こういうことばは、どんなにていねいに分析(?)してみても、永島にはたどりつけない。ただ、そのことばを好きになるかどうか。その「間違い」を、読者が受け止めるかどうかだけなのである。「肉体」で共感するかどうかだけなのである。私は「共感」できているかどうか、わからない。「共感」は私の「誤読」だろうけれど、「誤読」だろうなんだろうが関係ないのだ。私は「共感」するのだ。
永島卓のことばはねじれている--と書くと、「おまえのことばこそがねじれている」と言われそうだが……。私は永島のことばが「ねじれている」ことを批判しているのではない。評価しているのである。ことばは誰のことばでも「正確」ではない。必ず「間違い」を含んでいる。そこに引きつけられるのである。「正確」を破ってはみだしていく力--そこにことばの本能、欲望をを感じるのだが、それはことばの欲望・本能であると同時に永島自身の欲望・本能、つまり「肉体」だと思うのである。「正確」を破ってことばが動くとき、ことば自体は「間違える」のであるが、そのとき「肉体」は間違えない。欲望や本能は間違えない。欲望や本能が間違えないからこそ、それを制御できない(?)ことばのほうがねじれて、逸脱していく。「間違い」を突っ走る。
そして、そのときの永島のことばの特徴、「肉体」の特徴、欲望・本能の特徴は「長い呼吸」である。「息継ぎ」がないところにある。本来(?)、ふたつのものが、「息継ぎ」によってふたつに整理されるべきものが、「ひと呼吸」(一息)のなかに封印される。どういえば、いいのだろうか。「もの」と「思考」が「ひと呼吸」のなかに閉じ込められ、強引に攪拌されて吐き出される。
それは一種の「嘔吐」かもしれない。
吐瀉物--何かしらの原型をとどめながら、異臭を放って輝く汚物。それは「美しい」ものではないかもしれないが(一般的には「美しい」とは言われないが)、なぜか「美しい」と感じるときがある。それは、吐瀉物のなかに「もの」の形が残されているからなのか、それともそこに「もの」を吐き出してしまう「肉体」のどうすることもできない抵抗の「力」があるからなのか--よくわからない。たぶん、そこには「もの」と「肉体」のせめぎあい、抵抗の「力」が輝いているのだ。
あ、きょうもまた、変な具合にことばが動いていく。「吐き出す」ということばが動き、それが「吐瀉物」にかわったときから、私はどうしようもなく逸脱しはじめている。だんだん永島の作品を離れ、私の感じている「感じ」の方へ傾いて、暴走しはじめている。永島の詩にもどろう。もどらなければならない。
「夏の冬」。「原爆投下したアメリカの男がテレビで話す戦争」というサブタイトルがついている。
わたしの乾燥した八月の河に だれも乗っていない船が
座礁して 客室には家具も調度品もなく テレビが一台
置かれ 訪ねてくることのなかったきみが 杖をつき古
い靴を引きずりながら なぜかテレビの中からわたしに
近寄ってきて かってこれ以上失うものは我々によって
のみ回避できたのだと 胸を張り自身ありげに話をして
きた
(谷内注・「自身ありげ」は「自信ありげ」だろうと思う。)
これは、サブタイトルを頼りに「理解」すれば、テレビでアメリカの男が原爆を投下したときのことを自慢げに(自信ありげに)話した、それを聞いたということだろう。「我々が原爆を投下し、戦争を終結させた。その終結によって、それ以後の損失を回避できたのだ」とアメリカ人が自信ありげに話したのを聞いたということだろう。
そのときの「背景」として「八月」「座礁船」がある。「八月の座礁船」を思い浮かべながら、その座礁船に乗っているのが「わたし」だと感じながら、永島はアメリカ人の話を聞いたのだ。
戦争に敗れた「日本」が「座礁船」の象徴かもしれない。ここには、あまり「逸脱」というものがないように見えるが、「座礁船」という「比喩」が「逸脱」である。--それは、あまりにも平凡な(?)比喩なので、逸脱とは気づきにくい。しかし、戦争に敗れた国を、座礁した船、動かなくなった船と呼ぶのは、「逸脱」であることに間違いはない。永島は、それを実際に座礁船のなかで聞いた(見た)のではなく、彼自身の家で(たぶん)見聞きしたのだから。永島の「肉体」のなかに「座礁船」が姿をあらわし、それがアメリカ人のことばを受け止める。
そうすると、アメリカ人の話していることが、「胸を張り自信ありげ」という態度とともにあらわれてくる。この部分も、実は、逸脱である。「これ以上失うものは我々によってのみ回避できた」が話の「内容」だとすれば、その「内容」が「正確」であるかどうかは、その「内容」を分析・吟味することによってのみ判断されるべきことなのだが、人間は(人間の本能)はそんなふうには動かない。無辜の日本人を大量殺戮しておいて、その態度、「胸を張」るその態度は何なんだ。その「自信」は何なんだ。おかしいじゃないか。--これは、私の「ことば」で言いなおすと、永島はアメリカ人の話した「ことばの意味」に反発していると同時に、その「声」(肉体)に反応しているということである。そして、こういう反応、「声」(肉体)に対する反応には、絶対に「間違い」というものはない。そして、これからが面倒くさいのだが、その反応が「間違いない」ということを、もう一度「頭」をとおしたことば、整理したことばに置き換えるのは、実は、とても面倒である。そんなことは、普通、人間にはなかなかできない。相手の態度にむかっときて、怒りが爆発する。「意味」ではなく、「声」、「肉体の音」で反撃し、けれど、十分に反論できずに、哀しく、悔しい思いにとらわれる。
「息」が、まず「本能・欲望」(怒り)を吐き出してしまって、「意味」がついてこれないのだ。「意味のないことば」(反論にならない反論)になってしまう。「間違い」を言ってしまう。--けれど、その「間違い」こそが、唯一「正しい」ものなのだ。
積雲の層がテレビのなかに充満し なお透視でき
ない白光した光の粒が テレビの全面ガラスの奥から無
数に飛んできて わたしは知らず知らずにテレビの中心
に引き込まれ 締めつけられる目や胸をさすりながら
いつしか狭いブラウン管の管道へ吸引され気を失ってい
った
これは、アメリカ人の発言に怒り、その怒りで永島の体が苦しくなったということを「比喩」をつかって書いているのだが。
ほら、ここには大量殺人に対する論理的批判(意味)というものが、ひとことも書かれていないでしょ? この反論がアメリカ人に通じるわけがない。通じるわけがないのだけれど、そこに「意味」を越えた「正しさ」(間違いのなさ)がある。
こういう「意味を越えた間違いそのものの正しさ」(矛盾した言い方だねえ)が永島のことばを動かしている。「息」のなかで「間違い・正しさ」が同居して動いていく。「間違い・正しさ」が語弊の多い表現だとすれば……この詩集の感想として最初に書いたこと--ふたつの文章が結合して動いていくというのが永島の「ことばの肉体」なのだ。
しばらくして気が付くと 見渡すことができない
ほどの草原大地と 突き抜ける青空がわたしの視野をひ
ろげていた 風もなく雲も森も馬も鳥もない澄んだ異境
の地に ひと一人いない平穏も犯罪も触れられない の
っぺりした明るさだけが絵葉書のように現出し こんな
筈では決してなかったのだと あらゆる自戒や弁明のな
い刃物の並んだキッチンのような空間で 許すことと同
じくらいに忍び寄る保留なしの絶望がやってきた
「意味を越えた間違いそのものの正しさ」は、それでも「ことば」になろうとする。一気に、息継ぎ(呼吸)をしないまま、動く。たとえば、それが、
あらゆる自戒や弁明のない刃物の並んだキッチンのような空間で
である。「刃物の並んだキッチン」ならだれでも想像できる。けれど「自戒や弁明のない刃物」って、何? わからないでしょう? まあ、「意味」は考えろといわれれば考えるけれど……。考えてもしようがないというか、「自戒や弁明もない」と「刃物」というかけ離れたものを「ひと呼吸」のなかに閉じ込めてしまう「肉体」が永島だと信じるのがいちばんいいのだ。その「肉体」を好きになる(納得する)かどうかが、読者にまかせられているである。
許すことと同じくらいに忍び寄る保留なしの絶望
これも同じである。こういうことばは、どんなにていねいに分析(?)してみても、永島にはたどりつけない。ただ、そのことばを好きになるかどうか。その「間違い」を、読者が受け止めるかどうかだけなのである。「肉体」で共感するかどうかだけなのである。私は「共感」できているかどうか、わからない。「共感」は私の「誤読」だろうけれど、「誤読」だろうなんだろうが関係ないのだ。私は「共感」するのだ。
永島卓詩集 (1973年) | |
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