詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(212 )

2011-04-25 12:07:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「フォークナーの署名」。

かれの旅の終りで彼は自分の心に
何というだろうかと東の国につれてこられた
この夏の夢をみる大きな神がかりの
男の霊のために
私の見たことを思いおこすのだ

 この書き出しは、わかるようで、わからない。わかるように感じるのは、そこに書かれていることばのひとつひとつが全部わかるからである。わからないのは、そのことばの接続が変だからである。こんなふうに私は語らないし、こんなふうに誰かが語るのを聞いたことがない。
 特に2行目がわからない。

何というだろうかと東の国につれてこられた

 「何というだろうか」と「東の国につれてこられた」の関係がわからない。そのふたつのことがらが「と」で結びつけられている「理由」(根拠?)がわからない。
 「何というだろうか」は1行目の「かれの旅の終りで彼は自分の心に」に結びつけると、「かれの旅の終りで彼は自分の心に何というだろうか」になり、これは、まあ、わかる。旅のおわり、それまでの旅で見聞きしたことを思い起こし、自分の心に語りかけてみる。そのとき「何というだろうか」。
 けれど、それにつづく「東の国につれてこられた」は何? 誰のこと? 「かれ」(彼)? 
 かれは東の国に連れてこられた。その連れてこられた旅のおわりに、彼は自分の心に何を語るか、という意味だろうか。
 つづく3行はの「男」と「かれ」は同じ人間だろう。「かれ(この/男--3行目の行頭の「この」は4行目の「男」にかかるだろう。そして、「この」以下は、「男」の修飾節だろう)」は、夏の夢をみる大がかりな「霊」をもっている。
 その「男の霊」と向き合うために、(私は)「私の見たことを思いおこす」。
 なんとなく、「意味」が通じたかな。
 なんとなく、「意味」がわかった(ような)気持ちになって、読み返すと、でもやっぱり2行目でつまずく。おかしいねえ。変な「日本語」だねえ。変なのだけれど、この行の真ん中の、変、の原因である「と」が不思議とおもしろい。わからないからこそなのかもしれないけれど、「と」が楽しい。
 「何というのだろうかと」というとき、「と」が繰り返される。そのくりかえしにあわせるように、次の「東の国につれてこられた」では「れ」がくりかえされており、その「音」がとても印象に残る。「つれて」「こられた」。「つ」と「こ」が似ているというと奇妙だけれど、私の「肉体」には何か響きあうものがある。「つれてこられた」というとき、早口ことばの「つまずき(つっかえ?)」というか、言い間違いになるような「音」の響きあいがある。「耳」ではなく、そのことばを「声」にするときの「肉体」(喉や舌や口蓋や……)のなかで何かがつながって「音」がすぐには出てこない感じがする。それが「思いおこす」という5行目の「意味」とも通い合う。
 さらに「何というのだろうかと」の直後の「東の国に」。これが不思議なことに、「ひがしのくにに」ではなく、私は「とうごくに(東国に)」と読みたい欲望を誘うのである。私にとっては「とうごくに」の方が2行目の音の響きあいは魅力的なのだが、西脇は「ひがしのくにに」と読ませている(たぶん)。そしてその「ひがしのくにに」が、私の音の印象ではちょっと「音色」が違っているので、今度は、その違いが次の行への飛躍というか、切断を身軽にする。
 あ、不思議だな。

 こういう印象は、詩の鑑賞にとって、どんな意味を持つのかわからないが、私はいつもそういうことが気になるのである。「意味」は気にならない。ことばの「出典」も気にならない。ただ、「音」の動きが気になる。

 詩はつづく。

かれは大使館の涼しい隅の席に
ただひとりすわつて空の日射病のあと
しばらく休んでいた

 「空の日射病」というのは変な表現である。こんな「日本語」はない。ないのだけれど、おもしろいねえ。とても目立つねえ。そして、おもしろく、目立つだけではなく、このことばが全体の中になじんでいる。
 なぜだろう。
 ここにも私は「音」の影響感じるのだ。「そらのにっしゃびょう」。「さ行」、特に「し」の「音」。

かれはたい「し」かんの「す・ず・し」い「す」みの「せ」きに
ただひとり「す」わつて「そ」らのにっ「し」ゃびょうのあと
「し」ばらくや「す」んでいた

 また「た行」も交錯している。「た」いしかん、すわ「つ・て」、に「っ」しゃびょう、あ「と」、やすん「で」い「た」。

 こういう「音楽」の助走のあと、西脇のことばは「カタカナ」の多い「ヨーロッパ」(というか、西洋というか……)へと飛翔する。

この没落のジュピーテルは空間のように
透明でこの静かなポセイドンのような
この百姓は鳶色の神からうまれた
いまは山国にあるアンズの国への
旅を考えているそこで牧人たちを
集めて夏期大学を開こうと
考えていたのであつた
西国人の心についてかれの笛のような思想を
東方人に語ることを考えていた

 ここでも、私の耳はいろいろな「音楽」を感じるが、書くと煩雑になるのでひとつだけ。
 「東方人」。ね、「東の国に」ではなくて、やっぱり「と」で始まる「と」うほう人。「西国人」と「さいごくじん」なのだろうけれど、私は「せいごくじん」と読みたい気持ちでいっぱい。「せーごく」「しそー」「とーほー」。音引きであらわす「音」が交錯するからね。これはさかのぼれば(?)、「ジュピーテル」「くーかん」「よーに」(よーな)「とーめー」とも響きあう。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店



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