詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大鐘敦子『森の囁き』

2007-07-14 14:54:27 | 詩集
 大鐘敦子『森の囁き』(思潮社、2007年06月30日発行)
 「漢字」で思考するのだろうか。「森の囁き」のなかほど。

限り無い出会いを見出し
限りある時を共有し
夢の中の邂逅を交感し
また眠りに就く

 「漢字」が多い。そして、この「漢字」が多いという印象は、不思議なことに、そこに「漢字」以外のものがまじるからだ。たとえば「夢」。たとえば「眠り」。もちろんそれも「漢字」で表記はされているが、「共有」とか「邂逅」「交感」という「漢字」とは違う。違うのだけれど、「共有」とか「邂逅」「交感」とは違うがゆえに、それらに汚染されて本来の美しさを失い、そのうしなわれた美しさが、また逆に「漢字」そのものの印象を強くする。
 「漢字熟語」が多い。そしてその漢字熟語にひっぱられる形で「漢字」そのものが多いという印象になるのかもしれない。
 いっそうのこと「無限の遭遇を発見し/有限の時間を共有し/夢幻の中原の邂逅を交感し/再度睡眠に就く」とでも書けば「漢字」が多いという印象は逆に消えたかもしれない。「夢」や「眠り」が「漢字」に汚染されているという印象とは違ってきたかもしれない。
 「漢字」が多い--という印象は、実は実際に漢字が多いからではなく、漢字と漢字以外のもののバランスが不自然に感じられるからである。それが「漢字」に汚染されているという印象を呼び起こすのだろう。この不自然というのは、もちろん私の印象であって、ほかの読者はそういうふうには感じないかもしれないが。

 言い換えると……。
 「漢字」をつかうときの対象(世界)との距離のとり方と、ひらがなをつかうときの対象(世界)との距離のとり方が違っている、「尺度」が違っているという印象がする。
 「漢字」。イメージが結晶化した世界、完結した世界(宇宙といった方がいいかもしれない)を大鐘は見ることができるのだろう。結晶のように完璧な美の世界が大鐘には見えるのだろう。そして、その完璧な宇宙へむけてことばを動かしていく。そういうスタイルの詩だ。
 たぶん大鐘には、大鐘の見ている宇宙が完璧だから、それを再現する詩も完璧である、という思いがあるのだろう。
 そうした思いはとても大切である。
 だが、大鐘に見える宇宙が完璧だからといって、それにあわせて完璧な「漢字」を持ち出してきても(たぶん大鐘の引き出しには「漢字」がいっぱい整理整頓されているのだろう)、完璧な宇宙というものは再現されるわけではない。
 「結晶」を持ち出して宇宙を飾るのではなく、宇宙の混沌に投げこむ一個の汚れた石が必要なのだ。大鐘が一個の汚れた石を宇宙に放り込めば、宇宙で動いているさまざまなものがそのまわりに集まってきて、いままでなかったものとして結晶する--宇宙というものはそういうものである。生成といっしょに存在するものである。詩とは、そういう生成の現場を揺り動かすことばのことである。そういうところでは、はじめから結晶してしまっている「漢字」は邪魔である。「漢字」と「漢字」がぶつかりあい、それは一瞬、きらきらと輝いて見えるのではあるけれど、新しい何かが誕生する美しさではない。また滅んでいく美しさ、破壊されていく美しさでもない。

 大鐘にとって必要なことは、引き出しのことばを全部捨ててしまうことだ。大鐘が美しいと思うことばを全部捨てて、そのあとにのこったことばで大鐘の「尺度」をつくりあげることだ。
 大鐘の作品の一部をなぞったふうに言えば、

漢字によって失った過去と
漢字によって掴んだ現在に訣別して

 大鐘自身の肉体の、その細胞の、そのうごめきが、「頭脳」(頭蓋骨)からほとばしり出るようにしむけなければならない。
 詩は、大鐘の書いていることばとは反対側にある、と私は思う。


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