中井久夫訳カヴァフィスを読む(91) 2014年06月21日(土曜日)
「ほんとうに亡くなられたとしても」の「声」を聞きとるのは、私にはむずかしい。アポロニアスという人物はどこへ消えたのか。死んだというのはほんとうか。そういうことがまず書いてある。
再臨し、宗教を復活することを願っている。「むろんじゃ、/むろん」の繰り返しが願いの強さを印象づける。それは、しかし、だれの声なのか。アポロニアスの時代の人の声なのか。
そう思って読むと、この詩の二連目に不思議な仕掛けのようなものが出てくる。
「声」を相対化している。ある「声」をそのまま指示していない。その「声」を読んで、別の時代の男が「声」を批判している。「これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い」か、と。それはアポロニアスの時代とは違った時代の人間の思いである。で、その時代は?
それは、実はいつだっていい。
カヴァフィスは時代設定をきちんと考えている。中井久夫も時代設定を考えて訳しているが、こういう過去のある時代の「声」を批判するというのは、いつの時代にも起きるる。それがアポロニアスの没後十年、二十年、百年であってもいいし、現代でもいい。--こう書くといいかげんな感じがするかもしれないが……。私はいつでもいいと思う。
カヴァフィスがフィロストラトスの著を読んだ男を設定したときから、時間は「記憶」の時間になる。歴史の絶対的な時間は消え、「いま/ここ」に思い出すという「行為」の時間になる。そして「時間」を超えて、人は交流する。「時間」はいつでも「いま」でしかない。「過去」の時間などない。
カヴァフィスは史実を題材に取ることが多いが、題材にした瞬間から、それは「いま/ここ」のできごととして動く。ことばはすべてを「いま/ここ」にしてしまう。
「ほんとうに亡くなられたとしても」の「声」を聞きとるのは、私にはむずかしい。アポロニアスという人物はどこへ消えたのか。死んだというのはほんとうか。そういうことがまず書いてある。
だが、いつか前どおりのお姿で
再臨なさる。真理の道をお教え下さる。それから、むろんじゃ、
むろん、わしらの神々の礼拝を復活なさる。
わしらの雅びなヘレネスの典礼も復活なさる。きっとじゃ」
再臨し、宗教を復活することを願っている。「むろんじゃ、/むろん」の繰り返しが願いの強さを印象づける。それは、しかし、だれの声なのか。アポロニアスの時代の人の声なのか。
そう思って読むと、この詩の二連目に不思議な仕掛けのようなものが出てくる。
これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い。
フィロストラトス著の『テュアナのアポロニアス』を読み終えて
わびしい部屋にぽつねんと座ってこういう思いにふけった。
だが、奴とても--とるにたらぬ臆病な男よ--、
公衆の前ではキリスト者を演じ、教会通いをする。
老ユスティヌスの敬虔なる御代のこと。
して、神の都アレクサンドリアは嫌悪する、
哀れれな偶像崇拝者を--。
「声」を相対化している。ある「声」をそのまま指示していない。その「声」を読んで、別の時代の男が「声」を批判している。「これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い」か、と。それはアポロニアスの時代とは違った時代の人間の思いである。で、その時代は?
それは、実はいつだっていい。
カヴァフィスは時代設定をきちんと考えている。中井久夫も時代設定を考えて訳しているが、こういう過去のある時代の「声」を批判するというのは、いつの時代にも起きるる。それがアポロニアスの没後十年、二十年、百年であってもいいし、現代でもいい。--こう書くといいかげんな感じがするかもしれないが……。私はいつでもいいと思う。
カヴァフィスがフィロストラトスの著を読んだ男を設定したときから、時間は「記憶」の時間になる。歴史の絶対的な時間は消え、「いま/ここ」に思い出すという「行為」の時間になる。そして「時間」を超えて、人は交流する。「時間」はいつでも「いま」でしかない。「過去」の時間などない。
カヴァフィスは史実を題材に取ることが多いが、題材にした瞬間から、それは「いま/ここ」のできごととして動く。ことばはすべてを「いま/ここ」にしてしまう。