詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八重洋一郎『木洩陽日蝕』

2014-06-20 10:02:24 | 詩集
八重洋一郎『木洩陽日蝕』(土曜美術出版販売、2014年06月10日)

 八重洋一郎『木洩陽日蝕』には沖縄がいろいろな形で書かれている。「洞窟掘人(ガマフヤー)」は「洞窟を掘りつづけ、出てきた戦死者の骨を洗い清め慰霊している人」のこと。「戦死者」はこの場合、兵隊ではない。

母の骨を探しあてた時 しみじみと心が
定まったのです
いのちは消えてないのですが 母がこうして私を
迎えてくれた 土の中から
白くなった手を伸べて
深々と心が落着いたのです

 これは、実際に体験しないと出ない声である。
 「私」が母の骨を掘り出した。ようやく見つけて土のなかから拾いあげた。それを、まったく逆に感じる。母が土のなかから迎えてくれた。
 そのとき、こころが定まった。こころが落ち着いた。
 「しみじみと」「深々と」
 むずかしいねえ。
 いや、「わかる」のだけれど、「わかる」からこそ、それを自分自身の「しみじみと」や「深々と」とどう結びつけていいかわからない。私の知らない「しみじみと」「深々と」がある。
 きっと、それは、自分が見つけたのではない、母が遺骨を探している自分を見つけて、手をさしのべてくれたのだという「意識、思い」という形で、くっきりと認識できたということだろう。
 「しみじみと」「深々と」は「母が手をさしのべてくれた」という「思い」とひとつになっている。

母の骨を探りあてた あの時
からだがつちの中にしみ込んでいくように
ふかぶかと心が落ちついたのです

 同じことを書いているようで、すこし違う感じがする。
 手をさしのべられて、その手にさそわれて「私」が「つちの中になかにしみ込んでいく」と書いてあるのだけれど、そのときの「私」は「私」であって、「私」ではないような感じがする。「母」のように感じてしまう。息子に捜し当てられて、ほっとして、あ、これで土のなかに帰れる(ほんとうに死んで行ける)、そう思って「ふかぶかと心が落ちついた」。
 自分のことばとして書いてあるけれど、それは「母」を代弁した声だ。
 あ、でも「代弁」とも違うなあ。
 区別がなくなっている。
 「私」と「母」は区別がない。「私」と「母」の区別がない状態が「定まる」なのだろう。
 母は死に私は生きているが、それは遺骨を探し当てたときに初めてそうなったのであって、遺骨を探し当てるまでは母は死なずにいる、死なずに息子を探している。息子が母を探すように、心は息子を探してさまよっている。土のなかから手を伸ばし、生きている息子を探し当てたとき、やっとさまようことをやめることができた。死を受け入れることができた、ということだろう。
 「定まった」は「受け入れること」、事実を、死を受け入れること。
 そして、受け入れながら、それを拒むこと。
 こういう死のかたちを拒むこと。こういう死を繰り返してはならないと誓うこと。
 「定まった」は「誓うこと」でもある。

 かなり、余分なことを書いてしまったかもしれない。
 ただ「定まった」ときの心の「しみじみと」「深々と」を思うだけで、それだけでいいのだとも思う。
木洩陽日蝕
八重洋一郎
土曜美術社出版販売

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中井久夫訳カヴァフィスを読... | トップ | 中井久夫訳カヴァフィスを読... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事