柏木静『囲む』(ふらんす堂、2010年09月29日発行)
私はわからない詩が好きである。たとえば、柏木静『囲む』の「石ころ」がわからない。
冒頭の1行を次の1行が破っていく。「破っていく」というのは「意味」をつなぎそうになりながら、そうしないこと、逆に1行目が「意味」になるのを破壊する運動を指すのに、私がでっちあげたことばである。
3行目は2行目を、4行目は3行目を破る。
ますます「意味」から遠ざかるのだが、それでもどんどん熱くなる真夏の太陽の光を感じる。それが石の彫刻の肌を、マイヨールの彫刻のような肌に絡みついている感じがする。
なんだかよくわからないのだから、これは「誤読」である。勝手に私が考えた(感じた)ことばの世界である。融けるくらいにつやつやに光をあびて、その光が太陽に向かって逆襲している。そんな真夏の時間を感じる。
ぜんぜんわからないのだが、「まがったやさしい群れ」ということば、とくに「まがったやさしい」ということばのつながり具合は、お、つかってみたい、という気持ちにさせる。何かを見たとき、(その何かを私はうまくいえないけれど)、たとえば巨大な石の彫刻を見たとき(これは、前に書かれていた「彫刻」から引き出された感覚だ)、その曲線に「まがったやさしい」何かを感じたからかもしれない。「まがったやさしい」ということばには、「正確な意味」はまだないのだが、その「まだない」ことの「意味」が、私の肉体のなかで何かをつきうごかしている。
こういう感じが好きなのだ。
「都会の興奮」という興ざめするようなことばの一方、「建築の裏手には手ざわりを教える」という不思議な肉体感覚がある。「建築の裏手」「手ざわり」。この組み合わせも、詩を誘う。
柏木がどんな建築と裏手を想定しているかわからないが、柏木の想定を無視して、私は私なりに「建築の裏手」を思い、そこに「手触り」を感じる。ひとの見ていない部分の、荒々しく強靱な力--それが一方にあり、他方に光の氾濫と戦う「彫刻」がある、のだと想像している。
つかってみたいと感じることばが、かってに結びついて、かってな「世界」を作り上げるのだ。
この1行は、この詩のなかでは、屈折している。1行ではなく、それ以上のことばが「改行」のタイミングを見失って1行に封じこめられている。その1行のなかで、「意味」を破る力がきちんと動かず絡み合い、ねじくれて、悲鳴を上げている。
というのは次の行である。
「この」は「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」の長いリズムのあとで息継ぎをかねて、ふっと書かれた1行だ。「意味」はない。「意味」がないばかりか、それまでの「意味」を破る1行という働きもここでは中断している。
ことばの運動は、こういう理不尽なこともする。
けれど、この空白というか、息継ぎによって、ことばはまた復活するのである。こういう1行、そしてそれを挟んだことばの運動を見ると、ことばは「肉体」だと思わずにはいられない。
「ことばの肉体」という表現を私はさまざまにつかっているが、「この」にも、そのうちのひとつの「性質」を感じる。「リズム」と関係する肉体がここにある。
だが、どういうことだろう。「この」の転換のあと、そこにはつかってみたいと思うことばがない。ぐいと引きこまれることばがない。
「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」までで、柏木はことばを使い果たしてしまったのかもしれない。
私はわからない詩が好きである。たとえば、柏木静『囲む』の「石ころ」がわからない。
朝からつづいている時間は
とけゆく彫刻のたまり場で
にもつにもたれかかった太陽のひとみに
とがった爪をながしこもうとしている
冒頭の1行を次の1行が破っていく。「破っていく」というのは「意味」をつなぎそうになりながら、そうしないこと、逆に1行目が「意味」になるのを破壊する運動を指すのに、私がでっちあげたことばである。
3行目は2行目を、4行目は3行目を破る。
ますます「意味」から遠ざかるのだが、それでもどんどん熱くなる真夏の太陽の光を感じる。それが石の彫刻の肌を、マイヨールの彫刻のような肌に絡みついている感じがする。
なんだかよくわからないのだから、これは「誤読」である。勝手に私が考えた(感じた)ことばの世界である。融けるくらいにつやつやに光をあびて、その光が太陽に向かって逆襲している。そんな真夏の時間を感じる。
まがったやさしい群れは
まるで鉄柵を愛撫する大地のようで
その黒いぬまは
重たらしい消滅なのだ
おしよせる医者に
わたしから皺をさしだす
すぐにでも必要となる海水に
悲惨の証である創造をあたえる
ぜんぜんわからないのだが、「まがったやさしい群れ」ということば、とくに「まがったやさしい」ということばのつながり具合は、お、つかってみたい、という気持ちにさせる。何かを見たとき、(その何かを私はうまくいえないけれど)、たとえば巨大な石の彫刻を見たとき(これは、前に書かれていた「彫刻」から引き出された感覚だ)、その曲線に「まがったやさしい」何かを感じたからかもしれない。「まがったやさしい」ということばには、「正確な意味」はまだないのだが、その「まだない」ことの「意味」が、私の肉体のなかで何かをつきうごかしている。
こういう感じが好きなのだ。
都会の興奮から
泣きまねを圧迫される
建築の裏手には手ざわりを教える
「都会の興奮」という興ざめするようなことばの一方、「建築の裏手には手ざわりを教える」という不思議な肉体感覚がある。「建築の裏手」「手ざわり」。この組み合わせも、詩を誘う。
柏木がどんな建築と裏手を想定しているかわからないが、柏木の想定を無視して、私は私なりに「建築の裏手」を思い、そこに「手触り」を感じる。ひとの見ていない部分の、荒々しく強靱な力--それが一方にあり、他方に光の氾濫と戦う「彫刻」がある、のだと想像している。
つかってみたいと感じることばが、かってに結びついて、かってな「世界」を作り上げるのだ。
だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい
この1行は、この詩のなかでは、屈折している。1行ではなく、それ以上のことばが「改行」のタイミングを見失って1行に封じこめられている。その1行のなかで、「意味」を破る力がきちんと動かず絡み合い、ねじくれて、悲鳴を上げている。
この
というのは次の行である。
「この」は「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」の長いリズムのあとで息継ぎをかねて、ふっと書かれた1行だ。「意味」はない。「意味」がないばかりか、それまでの「意味」を破る1行という働きもここでは中断している。
ことばの運動は、こういう理不尽なこともする。
けれど、この空白というか、息継ぎによって、ことばはまた復活するのである。こういう1行、そしてそれを挟んだことばの運動を見ると、ことばは「肉体」だと思わずにはいられない。
「ことばの肉体」という表現を私はさまざまにつかっているが、「この」にも、そのうちのひとつの「性質」を感じる。「リズム」と関係する肉体がここにある。
ふてぶてしいインクの色が悲鳴をあげて
向こう脛に予知すると
わたしの胸から紐がぬける
はじめから憐れみがしたたり
ぽたぽたと太陽の意識に染みるのだ
風よけにいちど血のついた傷を軽く
拭いておいたらいい
雨の色、腐蝕された石ころ
だが、どういうことだろう。「この」の転換のあと、そこにはつかってみたいと思うことばがない。ぐいと引きこまれることばがない。
「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」までで、柏木はことばを使い果たしてしまったのかもしれない。