詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

バリー・ジェンキンス監督「ムーンライト」(★★★★★)

2017-04-03 10:25:33 | 映画
監督 バリー・ジェンキンス 出演 トレバンテ・ローズシャロン、アシュトン・サンダース、ジャハール・ジェローム、アンドレ・ホランド、マハーシャラ・アリ

 「ラビング」を見たとき、あまりに静かな映画で驚いたが、この「ムーンライト」もとても静かな映画だ。カーステレオから流れる音楽は大音響だが。
 この映画の驚きはいくつもあるが、何といっても驚いたのは、主人公を助けるドラッグの売人が最初の三分の一でさっと消えてしまうことだ。いじめられている主人公を見つけ、そっと助ける。話を聞き、話をし、それから水泳を教える。主人公の母親に説教もする。主人公をほんとうに大切にしている。それがぱっと消えてしまう。葬式の話がちょっと出るだけで、そのあとはストーリーには登場しない。ところが、とても印象に残る。忘れられない。何といえばいいのかわからないが、きちんとしている。ドラッグの売人なのだが、何かを信じている。それを守っている。守るは、持ち続けているといった方がいか。「ムーンライト」というタイトルそのものも、彼が「おばあちゃん」から聞いたことばだ。月の光を浴びると、黒人は「青い」。それを覚えている。
 うーん、でも、その意味は? 何の「暗喩」? 考え始めるといろいろ思うけれど、ここは何も考えてはいけない。ただ月の光を浴びて「青く」輝く人間を感じればいい。肌の黒さが「青」をさらに静かに、つややかにしている。そんな姿をただ思い浮かべればいいのだと思う。それを忘れずにいるということを思えばいいのだと思う。
 それにしても。
 私は思いついたまま感想を書くので、話が前後してしまうのだが、この売人が主人公に水泳を教えるシーンが美しい。最初、海は、生々しく少年に触れてくる。海の深さがわからない。いまにも少年をのみこんでしまいそうだ。少年はのみこまれる不安のなかにいる。ところが売人に導かれ、泳ぎを覚える。そして、少年が自分の力で広い海を泳ぎ始めると、泳げるという「自信」が海を静かにしてしまう。海は、もう少年をのみこむ海ではなくなっている少年といっしょに海も変わっていく。
 売人は少年に、生きるとはそういうことだと教えたのかもしれない。もっとも、こういうことはすぐにはわからない。私があとからくっつけた「意味」であって、実際に泳ぎを覚えるときはそんなことを考えないだろう。
 人間の肉体というのは不思議なもので、泳ぎのように一度覚えたものは忘れない。
 少年は、このとき泳ぎといっしょに、自分を支えてくれる誰かがいるということを「肉体」で覚えたかもしれない。自分が変わると世界が変わるという感覚を身につけたのかもしれない。自覚はしていないけれど。そして泳ぎのように、その覚えたことは忘れることができないものとして残る。あるとき、それが生きる力そのものになる。覚えていて、その覚えていることが「肉体」を自然に動かす。
 まあ、そんな面倒くさい「理屈」をこの映画は言っているわけではないけれど、売人のぱっと消えていく消え方と、その売人をいつでも思い出せるということが、泳ぎを覚えるということと同じような感じで、私のなかに残っている。
 ときどき、台詞にもはっとさせられる。
 少年が友人から「泣いたことはないのか」と聞かれ、「泣きすぎて、泣いた涙の一滴になってしまいそうだ」というようなことを言う。そばに海がある。海は少年の涙を集めたもののように思えてくる。この瞬間にも、ある売人がよみがえってくる。涙の海を泳いでいくことを教えてくれた、泳いでいけると教えてくれたような感じ。
 ラストシーンの、売人になった主人公が友人に出会い、「自分の体に触れたのはおまえだけだ。他は誰も触れていない」というのも印象的だ。「純愛」を語っているのだが、このときの「体」は「こころ」と言い換えられるものだと思う。「こころ」は「ほんとうのこころ」。「自分のほんとうのこころに触れたのはおまえだけだ」と主人公は言っている。そしていま「私はおまえのこころに触れたい」と声に出さずに胸のなかで大声で叫んでいる。
 でも。
 それが「ほんとうのこころ」ということなら、ある売人こそ、主人公のほんとうのこころに触れていた。また、水泳を教えるとき、その「肉体」にも触れていた。だから「自分の体に触れたのはおまえだけだ。他は誰も触れていない」ことを、「ほんとうのこころ」というような抽象的なところまで押し広げてはいけないのだけれど。「触れる」の意味も、「体」の意味も違うのだけれど。
 「純愛」にもどって、感想を締めくくった方がいいのだけれど。
 思わず、そういうふうに「意味」を押し広げたところに、またあの売人がふっとよみがえってくる。それも、ほんの少し、ちらりとだけよみがえってくる。この感じが、とても不思議。
 この映画は、あの売人がいなかったら成り立たない、というと間違いなるけれど。なんとなく、そういうことを言ってみたい気になる。出てきたけれど、役目がおわるとさっときえていく。「脇役」としか言いようのない人間なのだが、「脇役」というのはそういうものなのかもしれない。消えてしまったあと、忘れられて、忘れられているのだけれど、「水泳」のように「肉体」が覚えていて、思い出してしまう。その思い出したものが、「肉体」を生きる方向へ動かしてくれる。
 あんなふうにして、誰かの遠くで、ほんとうに遠い遠いところで、誰かを支えることができたら、どんなにすばらしいだろうと思う。もちろんそれは支えたくて支えているわけではないのだけれど。売人に月の光のことを話してくれたおばあちゃんのように、もうそれが誰なのかもわからない。ただ教えてくれたことを「肉体」がかってに覚えているだけなのだけれど。そういう「勝手に覚えられてしまう存在」といえばいいのかなあ。これは、美しいなあと思う。
 というようなことは、まあ、私があの売人から「勝手に覚えたこと」なんだけれどね。
                        (中洲大洋1、2017年04月02日)


 *

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藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(2)

2017-04-02 20:57:18 | 詩集
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(2)(七月堂、2017年04月01日発行)

 藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』の「その友人」という詩の全行。

 十何年ぶりかで自宅にやって来た友人が、酒を飲みながら萩原朔太郎の「沼沢地方」
を朗読した。友人は聞いたこともないような訛りで、あるいは節でもつけているのか、
それを朗読した。するとぼくは、無性に泣けて涙が出てしまった。その抑揚は、その
友人や萩原朔太郎の出身地の言葉でもなさそうなのに。しかし、ぼくはどこの訛りか
も尋ねなかった。友人も何も言わなかった。友人はただ不思議そうに、泣いているぼ
くを見ていた。あの時、あの詩を「ぬまざわちほう」と友人が読んでいたのをぼくは
思い出した。それともあれは「ぬまざわ」という、彼が作った架空の土地の訛りだっ
たのか。それにしても、なぜぼくはあの時泣いたりしたのだ。友人は今、その「ぬま
ざわ」痴呆にいるのだろうか。そして友人がぼくを忘れてしまって悲しくなったのだ
ろうか。
 こいつとはこれで終わりだ。

 最後の一行は、「いま」の思いなのか。それとも友人が「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読んだときの思いなのか。
 私は、「いま」ではなく「あのとき」の思いと思って読んだ。
 萩原朔太郎の「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むなんて、許せない。それが悲しくて涙を流した。「こいつとはこれで終わりだ」と思った。それほど朔太郎に、あるいは詩にどっぷりとつかっている、ということだろう。「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むのは、どこかの「訛り」なのだ、と思うこともできるかもしれないが、やっぱり、そんなことはできない、と。
 で。
 「こいつとはこれで終わりだ」と思ったはずなのに、「いま」、

あの時、あの詩を「ぬまざわちほう」と友人が読んでいたのをぼくは思い出した。

 これが、なんともおもしろい。
 きのう読んだ詩のなかには、

 あなたにはもう二度と会うことはないだろう。しかし、それでいいのだ。私だって
もう二度とこの私ではないのだから。

 という行があった。もう会わない(これで終わりだ)はずが、思い出して、思い出のなかで出会ってしまう。それは、どういうことだろう。「これで終わりだ」と思った私ではなくなって、思い出してしまう私になってしまったということか。「これで終わりだ」と思った私のままではいられない。ひとは、日々、かわっていく。だから、こういうこともありうる?
 というふうに、「理屈」を重ねていくと、なんだかややこしくなるのだけれど。詩から遠ざかってしまうのだけれど。

 ここで思い出されているのは何だろう。
 友人が朔太郎の詩を「ぬまざわちほう」と読んだこと。それを聞いて私が泣いたこと。それだけではなく「こいつとはこれで終わりだ」と思ったことまで思い出してしまう。思い出すとき、その「思い出」は遠くにあるのではなく、藤井の「肉体」のなかにある。「いま」、「肉体」と切り離せないものとして、ある。
 それも含めて「私だってもう二度とこの私ではない」ということか。つまり、「あの時の私」は、こういうことを「思い出す私」ではなく、リアルタイムで「思う私」だった。微妙な「ずれ」がある。
 そうだとすると。
 何かを思うこと、そしてそれをことばにすることは、「いまの私」が「いまの私ではなくなる」ということである。「思っている」ままに書く(ことばにする)ことは、書いた瞬間(ことばにした瞬間)「思ったこと」になってしまう。「思ったこと」を「確認している私」が生まれてきてしまう。

 そういう「理屈」を藤井は書いているわけではないのだが。

 どうことばにすればいいのかわからないのだけれど、藤井の詩を読むと、「私だってもう二度とこの私ではない」という感じが、ことばといっしょに生まれている感じがする。「私ではなくなった私」がことばといっしょに生まれてきて、それが「生きている」感じがする。次々に「私だってもう二度とこの私ではない」のだから、それが「死んで行く」なら、「生まれてくる私」だけが生きていることになるが、どうもそうではなく、死なずにどんどん生きていく。「どんどん生きていく」というのは正しい日本語ではないのだが、「生まれ方」が生々しいので「どんどん」ということばで強調したくなる。
 そして、この「生々しさ」は「理屈」ではなく、「肉体」で「実感」する感じとしか言いようがない。

 詩集のなかに「生々しく死んでいった」という作品がある。「死んでいった」なら死んだ人(もの)忘れられるのだが、この世に存在しないのだから忘れられてしまっても何も問題はないのだが、「生々しく」という感覚は死なない。「生々しく」だけは、人が生きている限りいつでも「肉体」を揺さぶる。「生々しい」ものしか、人間は感じ取ることができないからだろう。その死なずに生き残る「生々しさ」、あるいは「生々しく」が強烈なのである。
 で。
 私は「生々しさ」と最初に書き、あとで藤井の「生々しく」ということばで、私の考えたことを修正しつつあるのだが。
 書いてきて気づくのだが、やはり藤井は作者だけあって、ことばを正しくつかっている。ほんとうは「生々しく」ということばで、私は感想を書き直さなければならないのだけれど、長い間パソコンに向かっていることができないので、書き直さずに「補則修正」する。
 「生々しさ」は「名詞」であるのに対し「生々しく」は「副詞」、「副詞」は「動詞」に結びつく。「動詞」のあり方を説明する。「動詞」というのは、変化をあらわす。「私だってもう二度とこの私ではない」というのは「状態」の説明、つまり「名詞」ではなく、「動詞」そのものなのだ。
 「動詞」を藤井は書いているのだ。人間は「動詞である」ということを、藤井は書いている。「生々しい」感じがするのは、人間を「名詞」ではなく「動詞」として描いている、とらえているからだ。

 きょうの感想は、走りすぎて乱暴かもしれない。
 でも、書き直すと違ったものになる。だから、書き直さない。走りながらでないと書けない感想もある。

破綻論理詩集
藤井晴美
七月堂
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藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』

2017-04-01 10:21:48 | 詩集
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(七月堂、2017年04月01日発行)

 藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』に限らず、藤井の詩の感想を書くのはむずかしい。「意味」を書いてもしようがないのだが……。
 詩集の最後の詩「夜の日常」の最後の方に、

 あなたとはもう二度と会うことはないだろう。しかし、それでいいのだ。私だってもう二度とこの私ではないのだから。

 ということばがある。
 まさにこの通りなのだと思う。ことばを読みながら、私は藤井に会う。しかし、それはそのことばを読んでいる瞬間だけである。もう二度と会わない。
 「意味」というのは、この「二度と会わない」を否定するものだ。前に会ったことがある、いま会っている、これから会うという「時間」をつくりだし、その舞台のなかで「人間」をつないでみせる。これは強引な錯覚。人間というのは、非連続の連続。自己否定しながら動いている。生まれ変わりつづける。けっして「同じ人物」ではない。再び会うことは絶対にない。
 同じように、この私も非連続の連続なのだから、たとえことばを繰り返し読んだしろ、繰り返し誰かに会ったにしろ、それは、その瞬間瞬間のことであって、どこにも「同一」はないのである。
 藤井は、この非連続の連続、あるいは連続の非連続と言ってもいいのかもしれないけれど、時間を分断した場をしっかりとつかんでいる。「意味」を捏造することは簡単だが、その「意味」をたたき壊しながら「いま」を噴出させる。--と書いてしまうと、これもまた「意味」になるのだが。

 ことばは「意味」(論理)になってしまう、という欠点を持っている。プラトンの時代から、「論理」という「どうすることもできない間違い」から逃げ出せない。

 それでも、その「論理の間違い」をなんとかしなくてはならない。
 藤井の詩は、その闘いである。「論理」ではなく、「論理」を破壊するものとしての詩。
 こういう詩をどう読むべきなのか。
 わからない。
 でも、たとえば、「腹話術」のなかの、

 あれから何か考えた? 私は考えた。

 という一行に傍線を引きながら、「この一行を剽窃したい。誤読して、書き換えたい」という欲望に、私は突き動かされる。たぶん、こういう「瞬間」が詩との出会いなのだ。そこに書かれている一行、そのなかにいる藤井を瞬間的に認識し、同時に否定する。藤井に出会ったのだけれど、その出会った藤井を否定して、かってに藤井を捏造し、動かす。捏造された藤井は私である。その捏造された私(藤井)のなかで、私はそれまでの私を否定する。そして、

 あれから私は何を考えたかを考えた。

 と、ことばを読み直す(誤読する)。その誤読のなかで、こういうことはたしかにあると思い出す。藤井のことなど考えていない。私のことしか考えていない。
 ことばとは考えるためのものなのだから、たぶん、こういうつかい方でいいのだろう。こういうつかい方しかできないのだろうと、私は私に言い聞かせているが、これは私の言い分であって、書いた藤井は違ったことを言いたかったかもしれない。

 書いていることがだんだん袋小路に入ってきた。「その友人」という詩について書きたいのだが、一呼吸おく。あす、書くことにする。(つもり)
 きょう(いま)考えていることとは違ったことになるかもしれない。きょう書いたこととはつながらないかもしれない。つながらない方が、きっといいのだとも思う。そのための一呼吸なのだから。
グロッキー―藤井晴美詩集
藤井晴美
七月堂
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