詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇406)Obra, Joaquín Llorens

2023-11-12 23:21:48 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

   

 "Cuando voy a ese lugar, puedo escuchar voces de sombra brillante  y sombra oscura hablando entre sí. No puedo oír nada más". Me dijiste en tu carta. "Entonces no podía escuchar nada más que el silencio. Porque todavía no estaba acostumbrado a voces tan silenciosas".
 Aquel lugar. Donde las sombras brillantes y oscuras se encontraban y se separaban. Siempre vas a ese lugar a una hora determinada.
 Y mientras escuchas las voces de la sombras brillante y oscura hablando entre sí, voces que nadie puede escuchar, te conviertes en otra sombra profunda y fuerte, ni brillante ni oscura, y escuchas el silencio.

 あの場所へ行くと、明るい影と暗い影が語り合っている声が聞こえる。ほかには何も聞こえない。あのとき、私は、まだ、その沈黙の会話、ことばをつかわない会話に慣れていないので、その沈黙以外は、何も聞こえなかった、と、きみは手紙で教えてくれた。
 あの場所。明るい影と暗い影が、会って、別れた、あの場所。きみは、いつも決まった時間に、あの場所へ行っているんだね。
 明るい影でも、暗い影の語り合っている声、誰にも聞こえない声を聞きながら、明るい影でも暗い影でもない、もう一つの影になって、沈黙を聞いているんだね。だれも見たことのない深い影になって。

 Algo extraño sucede en la salón de la exposición.
 La obra comienza a interactuar con la atmósfera, la luz y la sombra del lugar. A medida que cambian el lugar y la hora, el diálogo también cambia. Nos contará una historia secreta que solo sucederá en ese momento.
 Por eso quiero ver la obra en ese lugar y en ese momento.
 En ese momento, pienso que en lugar de mirar la obra, me convierto en la obra y veo el mundo. Creo que estoy mirando el mundo en el que la obra tuvo que nacer.
 Quizás sería mejor decirlo al revés. Creo que no es la obra la que se crea, sino la obra la que crea el mundo mismo.

 Joaquín no crea obras. Crea el mundo a través de sus obras. Si no estuviera la obra de Joaquín, no podría escuchar la música tranquila de las sombras creadas por los cristales de las ventanas.

 展覧会の会場では、不思議なことが起きる。
 作品が、会場の空気、光や影と対話し始める。場所や時間が変わると、その対話も変わる。そのときだけの、秘密の話を聞かせてくれる。
 だからこそ、私は、その場所、その時間に、その作品を見たい。
 たぶん、そのとき私は、作品を見ているのではなく、作品になって、世界を見ているのだと思う。作品が生まれなければならなかった世界を見ているのだと思う。
 それはたぶん、逆に言った方がいいのかもしれない。作品が生まれるのではない、作品が世界そのものを生み出すのだ、と思う。

 ホアキンは作品をつくるのではない。作品を通して、世界をつくるのだ。ホアキンの作品がそこになかったら、ガラスの窓がつくりだす影の静かな音楽は聞こえないだろう。

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Estoy Loco por España(番外篇405)Obra, Kawada Yoshiki 川田良樹

2023-11-04 15:52:04 | estoy loco por espana

Obra, Kawada Yoshiki 川田良樹
湯上がりに 180×55×36

 スペインの友人の作品ではなく、私の高校時代の友人の作品。富山県在住。
 川田は着衣の作品を手がけている。素肌とバスロブの布の感触の違いがおもしろい。布の起伏が素肌のなめらかさ、湯上がり特有の湿気を含んだ肌の艶やかさを引き立てている。
 肉体の左右の非対称と、バスロブの非対称が作品に動きを与えている。
 頭部を含め上半身のきっちりした印象と、バスロブの裾の、少し緩んだ感じ、腰のリボンの左右の非対称もおもしろい。
 肉体のラインが表現されているわけではないが、バスロブの変化から、肉体のあり方が自然に浮かび上がってくる。

 Un trabajo de un amigo mío del bachillerato. Vive en la prefectura de Toyama.
 Es interesante ver la diferencia de sensación entre la piel de mujer y la tela de la bata de baño. Las ondulaciones de la tela resaltan la suavidad de la piel joven y el brillo de la piel hidratada después del baño.
 La asimetría entre los lados izquierdo y derecho del cuerpo y la asimetría de la bata de baño dan movimiento a la obra.
 La parte superior del cuerpo, incluida la cabeza, se ve ajustada, el dobladillo de la bata de baño parece un poco suelto y la asimetría de la cinta en la cintura también es interesante.
 Aunque las líneas del cuerpo no se expresan, el estado del cuerpo surge naturalmente de los cambios en la bata de baño.

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服部誕『祭りの夜に六地蔵』

2023-11-04 11:52:09 | 詩集

 

服部誕『祭りの夜に六地蔵』(思潮社、2023年10月10日発行)

 服部誕『祭りの夜に六地蔵』に「風の石」という作品がある。「酒船石異聞」というサブタイトルからわかるように、石造りの遺構を訪ねたときのことを書いている。

遅れている
時の到着を待つあいだ
わたしは
石の冷たさに
しばし倚りかかる

  これに類似したことばが、そのあと出てくる。

おおきく
伸びをしたわたしは
軽いめまいを
石に預けた
背でささえる

  第三者から見れば、石と「わたし」の関係は、どちらも同じ姿に見えるだろう。しかし、服部は書き分けている。「倚りかかる」と「石に預けた/背でささえる」とに書き分けている。この変化に詩がある。これは、この後の連を読むと、さらにはっきりするのだが、それは後で書くことにして……。
 石と「わたし」の関係は、後者の場合、正確には(文法的には?)、背で支えているのは「軽いめまい」なのだが、そしてそれは「わたし」が石に支えられていることになるのだが、私は一瞬、私が「石」を支えているように感じてしまう。めまいのとき、世界が揺れる。石も揺れる。その揺れ動く石を、「わたし」が背で支える。石と「わたし」の関係が入れ代わる。私は、そう「誤読」してしまう。石と「わたし」が一体になり、そこに新しく生まれてきている。「新しい世界」がそこに出現している。
 この「新しい世界の出現」という感じは、前者の引用にはない。そこには詩はなく、散文としてのことばの運動がある。
 しかし、後者では何かが動いている。「肉体」の動きが、「ことば」を刺戟して、「ことばの肉体」を動かしている。「軽いめまいを感じ、石に背中を預けて、わたしは倒れるのを防いだ」と書くこともできるのに、「ささえる」という動詞をつかったたために、「肉体」の動きが克明になった。「倒れそうになった姿勢をささえた」ではなく「軽いめまいを/背中でささえた」。「肉体」のなかから「めまい」を引き出して、それを「ささえ」ている。あ、まだ、めまいが軽くつづいている。
 めまい、その酔ったような感覚のなかで、私は石と「背中」の関係を見失うというか、ふたつの渾然一体のものとして感じる。
 この渾然一体の感覚の後、次の三行がある。

思いがけなく
あたたかな
石のあかるみ

 ここ、いいなあ、と思う。
 自分をささえてくれる石の「あたたかな/あかるみ」。「あたたか」と「あかるみ」が一体になって、背中に伝わる。
 と、書いて、
 不思議に思わない人もいるかもしれないけれど、私は、ちょっと不思議に思う。「あたたか(さ)」は皮膚感覚(触覚)だから、背中で感じることはできる。しかし「あかるみ」は視覚が判断するもの。それなのに背中で感じている。触覚と視覚が融合している。つまり、人間の感じる何かを触覚/視覚に分離し、固定化して、(そういう定型化した方法を採用して)、書いているのではなく、それは触覚なのか、視覚なのかという批判(?)を恐れずに、渾然一体のものとして書いている。
 私たちの「肉体」には「あたたか」と「あかるい」を共通のものとして感じる触覚と視覚が融合した「いのち」があるのだ。こういう学校文法で定型化(固定化)した表現を破壊し、「いのち」そのものが感じているものをつかみとり、言語化することを、私は詩と定義している。だから、それは詩だけではなく、さまざまな散文でもおこなわれている。
 きのう書いた野沢の「隠喩論」の批判のつづきとして書き加えれば、「軽いめまいを/石に預けた/背でささえる」から「あたたかな/石のあかるみ」への変化のなかに「隠喩」の「いのち」がある。
 服部は書いてはいないが(隠喩だから、書く必要がないのだが)、最後に引用した三行は、学校文法で書き直せば

思いがけなく
あたたかな
石のあかるみ
感じた

 である。「感じた」が省かれている。それは、服部の「肉体のことば」であり、それが無意識的に「ことばの肉体」に反映して、「感じた」が隠れてしまっているのである。「感じた」は、ことばにする必要がないもの、「無意識」であり、それは書かれていないから存在しないのではなく、書く必要がないくらいしっかりと服部の「肉体/ことば」になってしまっている。
 あらゆる「隠喩」は、そういう「いのち」の動きとしてあらわれる。
 「隠喩」とは(あるいは、比喩全部といってもいいが)、「対象」の「言い換え」ではない。そういう「比喩」は、いわば「記号」である。1+2=3をA+B=C、C-A=Bというときの「記号」のようなものである。
 「隠喩」とは「記号」ではなく、「いのち」の運動である。いつでも、それが「どう動いているか」ということでしか語ることのできないものである。

 

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(50)

2023-11-03 23:02:39 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「一九〇三年十二月」は「一九〇三年九月」のつづき。だから「一九〇三年九月」ということばも出てくる。つまり、あれから三か月。 

よしんばきみの黒髪を、くちびるを、眼をうたえぬとしても、

 カヴァフィスは、ひとつの恋をあきらめたのだ。そして、そのとき「よしんば」ということばをつかっている。なぜ、「たとえ/かりに」ではなく「よしんば」なのか。「たとえ/かりに」では言いあらわせないことが、そこに含まれている。「強い」感情が含まれている。
 語りたいのだ。歌いたいのだ。黒髪を、くちびるを、眼を。だからこそ、黒髪、くちびる、眼ということばを書いている。「うたえぬ」といいながら、すでに語っている。つまり、これは「撞着語」というか「撞着文体」なのである。それを「よしんば」ということばが強調している。
 もし、この一行にことばを補うとしたら。「隠れていることば」を引っ張りだすとしたら……。
 思いっきり、思いのままに、ほしいままに、だろう。

よしんばきみの黒髪を、くちびるを、「ほしいままに」眼をうたえぬとしても、

 なぜ、「ほしいままに」を書かなかったか。それは「よしんば(縦しんば)」の「縦」という文字の中に「ほしいまま、こころのままに」という意味が含まれているからである。「縦」という文字には「はなつ」とか「ゆるす」「ゆるめる」という意味もある。
 したがって、この「よしんば」は、この詩の、実はキーワード(思想)なのである。書かれていない「ほしいまま」を読み取らなければ、そうせずに「要約」してしまえば、これは多くの「恋をあきらめた詩」になってしまう。
 書かれなかったことば、書かれたことばの肉体の内部に動いている「いのち」を読み取り、それを暗示させる。中井の訳詩は、そういうことをしている。

 余談だが。(この項、「藤井貞和の書評」と関連しているので、この文章の前の文章を参照してください。)
 野沢啓という詩人・評論家が『言語隠喩論』という本のなかで、「隠喩」と詩の関係、あるいはことばの発生について様々なことを書いているが、私がいま指摘したような「隠喩(「よしんば」が「ほしいまま」を隠している)というような具体例は書いていない(ように、私は読んだ)。
 かわりに何やら古今の哲学者、評論家の文章を引用し、詩を隠喩と結びつけ「特権化」している。
 「ことばの肉体」に注目すれば、「隠喩」は、さまざまな形をとって、いのちそのものに触れている動きだとわかる。人間の肉体の運動が矛盾を含んでいるように、「ことばの肉体」も矛盾を隠して動いている。そこに、あらゆる表現(詩だけではない)の、人を引きつけてやまない魅力がある。

 

 


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藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」

2023-11-03 16:27:38 | 読売新聞を読む

藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)

 藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」は、野沢啓の『言語隠喩論』への書評。とても気になる文章があったので、そのことについて書く。

 日/欧で言語学の用語が分かれていては、不都合だということもあって、野沢にしろ、私(藤井)にしろ、欧米の言語学を絶えず鏡のように映し出す参照項目にして、日本語のそれを考察しようとしてきた、という経緯はある。(略)
 日本語から立ち上げることに、かりに成功したとして、そこを理解しようとすると、またもや西洋言語学に拠るほかなくなる。つまり理解過程を含めて、言語学そのものを最初からやり直す覚悟をしなければ。
 だから、一旦は日本語から離れることが必要なのだろう。しかも欧米的な言語哲学に舞い戻るのでない、そこを切り開くことを目標とするのである。詩的言語の可能性は人類史とともにそこに胚胎するのだろう。

 藤井は、野沢の論を「言語学」、あるいは「言語哲学」と把握して論を進めているのだが、ふーん、そうなのか、としか私にはことばが出てこない。しかも、その「言語学」(言語哲学)が欧米を意識しているというのだから、欧米の言語そのものをほとんど知らない(当然のことだけれど、そのことばをもとにした「言語哲学」は完全に知らない)私には、まあ、理解を超えた次元のことが書かれているのだなと思うだけである。

 藤井はさらに、野沢の「フィールドワーク」についても書いているのだが、これも、私にはなんのことかさっぱりわからない。

 野沢の論のいちばんの問題点を、私は次のように考えている。
 野沢は、詩(隠喩的言語)に出合ったとき、野沢自身のことばの肉体がどう変化し(解体し)、どう動いたかを書かないことである。野沢は、詩(隠喩的言語)に出合ったとき、彼自身のことばが解体し、自己統制力を失なったと書くかわりに、(藤井のことばを借用して言えば)、外国の誰それの翻訳されたことば、あるいは日本の誰それでもいいのだが、だれかのことばをつかって「説明」することである。
 その説明(解説?)のなかには、詩(隠喩的言語)が生まれる瞬間の興奮がない。私(野沢)は、誰それのことば(翻訳されたことば)を読み、それを知っていると言っているだけである。私には、そうとしか思えない。なぜなら、その誰それのことばは、野沢が取り上げている日本語の詩(隠喩的言語)を読んで考えたことばではないからだ。野沢が問題にしている詩(隠喩的言語)を誰それが読み、その結果として、誰それ自身の築き上げてきた言語体系が解体し、再構築しなければならなかった、そして、その結果として生まれた「言及」ではないからだ。
 こういう、なんというか、「知識のひけらかし」に対しては、誰それがしているように、野沢の博識をほめたたえ、感動しましたと書くのが、いちばん合理的な対処方法なのだと思う。しかし、私は、どんなときでも「合理的対処方法」というものを信じていない(それが大嫌い)ので、そんなことはしない。
 野沢はさすがに本屋さん(出版屋さん)だけあって、陳列して売ることが上手である。私は貧乏な買い手ににすぎないから、どれだけ豪華な陳列を見ても変えもしないものには関心が湧かない。ほしいものだけを選んで買う。他の人も同じかもしれない。多くの人が「陳列がすばらしい」と称賛したらしいが、その称賛した人のいったい誰が(何人が)、野沢の陳列していたものを利用し、その人自身の思考を展開し、その人自身は(そのひとのことば/哲学)は、どうかわったのか。そういうことを、私はまだ見聞きしていない。「商品」は買った人が、こんなに便利だった、こんなに役立ったと他の人に勧めるなり、その人自身の「暮らし」を変えるのに役立たない限り、「売れた」だけにすぎない。まあ、「売れれば」それで企業はもうかるから、あとは知らない、でもいいのかもしれないけれどね。

 ところで。
 私が「その隠喩(だけではなく、あらゆる比喩)が、現実には何を指し示しているか」と問うとき、たとえば「世界一美しい薔薇」が「ナスターシャ・キンスキー」を指し示しているというようなことではない。形式的な「内容」ではない。
 「世界一美しい薔薇」くらいの比喩では、そんなものに触れたところで野沢のことばの肉体はどんな衝撃も受けないだろうけれど、野沢が「隠喩(詩)」と呼んでいるものに出合ったら、彼のことばの肉体は大きく揺らぐだろうと思う。
 少なくとも、私の場合、詩に出合ったとき、私のことばの肉体は揺らぎ、私の肉体のことばも揺らぐ。そこから立ち直るのは、とても難しい。そこから、私は私のことばの肉体をどう見直したか、それを「感想」という形でいつも書いている。
 私が読みたいのは、そういう野沢の隠喩(詩)に出合ったときの、彼自身のことばの肉体の変化である。欧米(?)の、誰それの、野沢が問題にしている詩とは無関係の翻訳言語なんかを読みたいとは思わない。
 野沢のことばの肉体は、どんなふうに動き、そのことばの肉体の奥から、それまで意識していなかったどんなことばの肉体が動いたのか。衝撃を受け、崩れたとしても、それは「無」にならない。消えてしまわない。「肉体」だからね。最後の最後に、無になりきれずに残った「肉体」、その「ことば」はいままで何をしていたのか、何をしていたと気づいたのか、野沢自身のことばで語ってほしい。
 野沢はいつでも「知識」の範囲内で書いている。さらに言えば、知識の範囲がいかに広いかを誇示するために書いている。この方法は「隠喩」からもっとも遠い表現形式ではないだろうか。

 比喩(隠喩かどうかは問題にしない)は、直接、そのままの形でやってくる。
 比喩が指し示す(あるいは暗示する?)その対象(内容/意味)は他のことばで言いあらわせるなら、その比喩は必要ないだろう。他のことばでいいあらわせないからこそ、比喩になる。こんなことは日本も欧米も、さらには「グローバルサウス」のことばも同じだろう。(グローバルサウスにも「言語哲学」や「言語論」はあるだろう。)
 そして、比喩は、それが善か悪か(とりえあず、そう呼んでおく)を問わず、それまでの「知識」を解体し、不思議な「陶酔」を暗示し、そこに読者を導きいれる。
 これは、詩だけにかぎらない。
 哲学であれ、美術であれ、音楽であれ、あるいはスポーツにもそういうものがあるだろう。
 詩を特権化してもはじまらないし、「隠喩」は詩というジャンルにだけ存在するのではない。「ことばの肉体」と「肉体のことば」が、いのちの運動に触れるとき(運動は、つねに肉体を伴う)、「意味」を破壊して動くものである。
 それを明示しようとするなら、誰それの(西洋の?)「用語」を使うのではなく、野沢自身の、あるいは藤井自身の「ことばの肉体」をつかうべきだろう。

 

 

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