詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-17 14:00:24 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」はハイデガーの「存在と時間」への批判として書かれたもの。空間性に排除した時間性は真の時間性ではない。ハイデガーのいう存在は個人にすぎない、という視点から「空間」を含めた「人間存在」を描こうとしたもの。このとき「空間」というのは「社会(生活)」を含む。人間は個人であると同時に社会的存在(他人といっしょに生きている)ということ。
 15ページに、ベルグソンに通じることばがある。

人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と統合とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし主体的な身体なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその根源的な姿において捕らえられ、しかも空間と時間との相即不離が明らかにせられる。

 ベルグソンの「時間=と=空間」を、私は「時間=肉体=空間」と言いなおした。「肉体」は「運動」の言い直しなのだが、和辻は「肉体」を「身体」、「運動」を「実践」と言っていると私は「直観/誤読」する。つまり、読み替える。
 和辻もまた「身体(肉体)と「実践(運動)」は切り離せないものと考えているから、人間が生きていることを「主体的な身体」よる「主体的実践」と読んでいると「誤読/解釈」する。
 こう読むと、あらゆる哲学者は、それぞれ「個人語」で同じことを言っているように感じられる。
 実際に、そうなのだと思う。どんな思想家が目指しているのも「人間はどうしたらみんなが幸福になれるか(幸福であることが人間の理想)」という問題への「答え」探しだからである。
 もし、そうだとしたら。
 問題は、こういうことである。
 私はいま和辻を読み、きのうはベルグソンを読んだが、「思想」は、彼らだけのものではない。あらゆる人間が「どうしたらみんなが幸福になれるか」と考えている。
 私の両親は、和辻もベルグソンも読まなかった(そもそも私の家には、学校の教科書以外の本はなかった)が、両親はそれでは「思想」を持たずに死んでいったと、私は考えることができない。何も話さなかったし、何も書き残さなかったが、ふたりが「思想」を持たずに、幸福になりたいと考えずに、何十年も生きられるはずがない。いったい何を考えていたのか。
 たとえば母は、何か困ったことがあると、必ず仏壇の前で「南無阿弥陀仏」を繰り返していたが、「念仏を唱えれば幸福になれる(問題が解決する)」という考えが、和辻やベルグソンの「思想」に比べて劣っているとは思えない。生きて、死ぬまで、それで生きて行くことができたのだから。
 私は、母や父の「思想」を私自身のことばで「取り戻す」ということができない。あるいは「回復」できない。ここには、なんとも言えず、不思議な「問題」がある。私はそんなに余命があるとは考えていないが、死んでいくためには、それを知る必要があると思う。わからないならわからないで、「私には何もわからない」ということを知った上で、死にたいと思う。

 脱線したが。
 「回復」と書いて、私は、ふたたび和辻に戻る。
 和辻の書いている問題は、時間、空間を考えるとき、あるいは「人間存在」を考えるとき、人間はどうやって生きているかを考えるとき、「個人/肉体」というものが、どんなふうに実現されるか。「個人/肉体」をどう「回復」するかということなのだろう。
 「個人/肉体」を「回復」できたとき(取り戻すことができたとき)、人間は幸福になることができる。(正しく生きることができる。)

 私の書いている「世界に存在するのは私の肉体だけ」という考えは、「人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する」と矛盾するか。
 傍から見れば「矛盾」に見えるかもしれない。
 しかし、私は「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えるけれど、その私が出会った肉体(他人)が同様に「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えることを拒まない。誰かと出会う(これも運動である)とき、「世界」はそのつど「新しくなる」。「世界」とは「時間と空間」であり、その「時間と空間」は「私の肉体」が「動く」とき、それまでとは違った「時間と空間」になって「出現」する。そうした「変化」のさなかにあって、存在していると確信できるのは「私の肉体」という存在だけである、と言いなおせばいいのかもしれないが。

 

 

 

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