ようやく終わったわけだけど。
正直、完全に熱が冷めてしまったところでの、完結編だったので、最初はだいぶ戸惑った。
でも、それでも途中まで見ていくと、最後まで勢いで見れてしまったのだから、やっぱり『進撃』はよくできた作品だったんだな、って思った。
あと、今回の映像化で、終盤のエレンとアルミンのやり取りがだいぶ増量されたわけだけど、その中で新規にエレンの口から出た
「自由の奴隷」
という表現は、原作が終わってから今日までの世相の変化まで踏まえたものだったのだろうなと思った。
端的にいえば、現実の世界で、ウクライナとイスラエルのように、複数の戦争が起こるようになってしまったから。
『進撃』が始まった頃は、まだファンタジーの世界での争いとして解釈できていたことが、この数年でリアルになってしまったから。
そうなると、エレンのいう「自由の奴隷」という言葉は重い。
自由だけを求めても世界は破綻する、ということだし、
だからこそ、最初に「自由」という概念の存在をエレンに教えてしまったアルミンがエレンの罪の源であると自覚するのも理解できる。
要するに、自由という価値観に基づくイデオロギー戦争という解釈。
そういう意味では『進撃の巨人』という作品は、2010年代の世相の変化に翻弄された作品だったんだなと思う。
当初こそ、世界を先取りしていたけれど、途中で現実の世界に追い抜かれてしまった。
つまり、「時代」に翻弄されたわけだけど、終盤ではさらにこれに同時代の「世界」の重みも加わった。
始まったときは日本人向けのマンガだったのが、いつの間にか、ワールドコンテントになってしまい、日本人ファーストの構成だけではすまなくなった。
その結果が、今回の「自由の奴隷」という言葉の追加だったと思うのだよね。
ネトウヨ的自由の暴走に対する牽制。
ただ、ウクライナならまだしも、イスラエルとハマスの戦争まで起こると、もはやただのマンガと言い続けるわけには行かないよね。
マーレとパラディ島の争いを考えれば。
それにエレンによるホロコーストを考えれば。
とまれ、かようにこの『進撃の巨人』という作品は、時代と寝ただけでなく、世界とも寝てしまった、類まれな日本のマンガとして記憶されていくのだろうな。
その意味でも、唯一無二の作品になってしまった。
ちょっと驚いている。
正直、完全に熱が冷めてしまったところでの、完結編だったので、最初はだいぶ戸惑った。
でも、それでも途中まで見ていくと、最後まで勢いで見れてしまったのだから、やっぱり『進撃』はよくできた作品だったんだな、って思った。
あと、今回の映像化で、終盤のエレンとアルミンのやり取りがだいぶ増量されたわけだけど、その中で新規にエレンの口から出た
「自由の奴隷」
という表現は、原作が終わってから今日までの世相の変化まで踏まえたものだったのだろうなと思った。
端的にいえば、現実の世界で、ウクライナとイスラエルのように、複数の戦争が起こるようになってしまったから。
『進撃』が始まった頃は、まだファンタジーの世界での争いとして解釈できていたことが、この数年でリアルになってしまったから。
そうなると、エレンのいう「自由の奴隷」という言葉は重い。
自由だけを求めても世界は破綻する、ということだし、
だからこそ、最初に「自由」という概念の存在をエレンに教えてしまったアルミンがエレンの罪の源であると自覚するのも理解できる。
要するに、自由という価値観に基づくイデオロギー戦争という解釈。
そういう意味では『進撃の巨人』という作品は、2010年代の世相の変化に翻弄された作品だったんだなと思う。
当初こそ、世界を先取りしていたけれど、途中で現実の世界に追い抜かれてしまった。
つまり、「時代」に翻弄されたわけだけど、終盤ではさらにこれに同時代の「世界」の重みも加わった。
始まったときは日本人向けのマンガだったのが、いつの間にか、ワールドコンテントになってしまい、日本人ファーストの構成だけではすまなくなった。
その結果が、今回の「自由の奴隷」という言葉の追加だったと思うのだよね。
ネトウヨ的自由の暴走に対する牽制。
ただ、ウクライナならまだしも、イスラエルとハマスの戦争まで起こると、もはやただのマンガと言い続けるわけには行かないよね。
マーレとパラディ島の争いを考えれば。
それにエレンによるホロコーストを考えれば。
とまれ、かようにこの『進撃の巨人』という作品は、時代と寝ただけでなく、世界とも寝てしまった、類まれな日本のマンガとして記憶されていくのだろうな。
その意味でも、唯一無二の作品になってしまった。
ちょっと驚いている。