この写真は1980年代当時のままの様子を残した売店です。この「連帯」のプレートの近くにありました。写真が下手でよくわかりませんが、この売店には殆ど商品はなく、在るのはなぜか「酢」の入ったビンだけです。当時の物資の欠乏を象徴するものとして残されていました。
この写真のプレートは2004年にポーランドのグダニスクで見たものです。このプレートの送り主を「JRU」の文字をヒントに探したところ現JR総連副委員長・国際委員長の四茂野修氏に出会うことができました。そこで以下のような文章を寄稿していただきました。心から氏に感謝申し上げます。
なお、この文章の最後のある「久米美術館」は四茂野氏の追伸にもあったのですが、前回のこのブログで紹介した久米邦武、その息子の画家桂一郎の業績の記念館で、館長はその孫ということです。
「あの場所にはいくつもの思い出があります。1980年夏、当時はレーニン造船所と言っていた造船所でストライキが起き、たちまちグダニスク中の工場にそれが波及し、ついに独立自主管理労組「連帯」の誕生に至りました。81年のはじめに私は動労という国鉄の組合の代表団の一人として造船所を訪れました。そのとき、私たちを案内してくれたのはアンナ・ヴァレンチノビッチという女性です。彼女の解雇が前年8月のストライキのきっかけでした。 その年の暮、ポーランドには戒厳令が布告され、「連帯」労組の主要な指導者たちは逮捕されました。南部の炭鉱地帯では抵抗する労働者に軍隊が発砲し多くの死者が出ました。動労は全国で列車の汽笛を鳴らして弾圧に抗議しました。 それから8年後、不屈の抵抗はついに民主選挙を実現し、「連帯」派が圧勝します。それは東欧各国に波及し、ついにソ連の崩壊に至りました。1990年、国鉄の民営化で生まれたJR総連に所属していた私は再びポーランドを訪れ、「連帯」の仲間との交流を再開しました。そんななか、グディニアでは1970年に起きた12月事件の犠牲者のための慰霊碑建設への協力を、カトビツェでは戒厳令の際に9人の犠牲者を出したブエク炭鉱労働者の慰霊碑建設への協力を求められ、それぞれ立派な慰霊碑が完成しました。また、「連帯」の結成を描いた映画『鉄の男』をつくったワイダ監督と知り合い、クラクフに日本美術・技術センターを建設する計画にも協力しました。 1995年にJR総連はこれらの地とアウシュビッツを訪れて20世紀の歴史を学ぶツアーを募集し、2000人の組合員が自費で参加しました。その際、「連帯」の仲間たちと協力してグダニスクの造船所前に設置したのがあの銘板です。錨と十字架をかたどった巨大な慰霊碑の立つあの広場は、これまで何度となく訪れた忘れられない場所です。 なお、ワイダ監督からセンター建設などへの協力へのお礼にJR総連に贈られた映画・演劇の絵コンテを展示する展覧会が3月31日から5月13日まで東京・目黒の久米美術館で開かれます。」
coloさんコメントありがとうございました。幕末の人たちは私が考える以上に開明的だったのですね。