「韓国」編 鎮海の帝皇山公園には日本の植民地時代(韓国では日帝時代)に「日本海海戦記念館」がありました。もちろん8月15日以降取り壊されました。そこに日本語と韓国語で説明した次のような内容の掲示板を建ててはいかがかと「ある日韓歴史の旅」の著者竹国友康氏はこの本の締めくくりというような意味で提案しています。
「1904・5年の日露戦争期に、日本海軍は鎮海湾一帯を制圧下におき、当湾に結集した連合艦隊は海戦演習を重ねたのち、バルチック艦隊との決戦に出撃した。この戦争での日本の勝利は、しかし、韓国に対する日本の支配のいっそうの強化をもたらした。ここ鎮海では1910年から日本海軍が軍港都市の建設を開始し、建設用地に住んでいた韓国人は市街地からへだたった慶和洞地区へ集団移住させられた。この階段は、1929年に日本海軍が日本海海戦記念館を帝皇山山頂に建てた際、『明治37・8年戦役』(日露戦争)あわせて、下部が37段、上部が38段となるように作られた当時のものである」
ついでに、ちょっと余談噺を。日本の日露戦争での軍事行動の始まりは1904年の2月8日の仁川上陸からからとされていますが、実際は2月6日の鎮海占領からです。和田春樹氏は近著「日本と朝鮮の100年史」(2010年)でどの本にもそのことを書いていないと述べていますが、竹国氏はすでにそのことに触れています。(1999年)
3 37・38段の階段はすでに無くなっていました。このことを含めて現地ガイドからはこれらのことについて一切の説明はありませんでした。全体の階段が365あるという話だけはありました。現地ガイドは37・8段の階段の話を知らなかったのでこの竹国氏の文章のコピーを渡しておきました。余計なお節介だったかな。
写真は公園に登る365段の階段です。