公州から百済最後の都、扶余へ向かいました。
日本の飛鳥寺のモデルになった定林寺の跡を訪れました。この建築の物差しが百済尺でそれがなまって鯨尺になったという説があります。(新版 日本文化と朝鮮p72)
残念ながらこのお寺は百済の滅亡(660年)と共に破壊され現在残っているのは写真の五層石塔と石仏だけです。この石塔に「大唐平百済国銘碑」の文字が刻まれています。(残念ながら私は現認できませんでした)唐が百済を平定したという記念碑というわけです。これを崔碩義氏は韓国の二つの国辱遺跡碑の一つと慨嘆しています。(韓国歴史紀行p118)
それに対して、司馬遼太郎氏は「朝鮮人の人の好さを示す証拠かもしれない。破壊するか、碑文を欠き落としてしまうというほどの乱暴者が、***一人でも出てよさそうなものだと思うが、***その後の朝鮮史における中国の重みと中国への遠慮を物語る機微といえるかもしれない」と評しています。(韓のくに紀行p257)
なお、写真は私のは肝心の上部が写っていなかったので韓国観光公社のホームページからの借用です。
Fengdanさんいつもコメント有難うございます