このようなプレートを見ました。イタリア語は分かりませんが、ラテン語、ギリシア語、アラブ語が公用語であったとの説明のようです。なお、公文書にはヘブライ語で記されていたものもあります。(「NHK人間講座 文明共存の道を求めて 高山博著」 p60) 小森谷慶子、小森谷賢二氏はこの礼拝堂を「壁面には金地モザイクで聖書の物が描かれ、木彫りのイスラム風袼間天井は細密画埋め尽くされている。それはラテン、ビザンツ、アラブの文化が折衷統合された唯一無比の空間、この王の融通無碍と寛容を物語る空間であった」(「シチリアへ行きたい」p57)と紹介しています。
多くのビザンツからのギリシア人やアラブ人がこの礼拝堂建設に従事しました。