写真はポンペイの有力一族ファウヌス家で発見された「アレクサンドロス大王の戦い」のモザイクです。有名なマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の戦いを描いたものです。左がアレクサンドロス大王で右がペルシアのダレイオス3世です。BC333年のイッソス戦い、またはBC332年の戦いと思われます。その後、BC324年ダレイオス3世の王女とアレクサンドロス大王は結婚することになりあます。
写真はポンペイの有力一族ファウヌス家で発見された「アレクサンドロス大王の戦い」のモザイクです。有名なマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の戦いを描いたものです。左がアレクサンドロス大王で右がペルシアのダレイオス3世です。BC333年のイッソス戦い、またはBC332年の戦いと思われます。その後、BC324年ダレイオス3世の王女とアレクサンドロス大王は結婚することになりあます。
今回最初の訪問地はナポリでした。「ナポリを見て死ね」という言葉があります。昔からある言葉のようで岩倉使節団の報告書「米欧回覧実記」(注)でも「以国人ノ諺ニ、那不児ヲ一覧シタル後ニ死ナント謂フトナリ」(岩波文庫「米欧回覧実記4」p327)と記せられています。
(注)このブログの2007年3月18日に(注)として紹介していますが、その一部をここに再録します。
「岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。私の偏見?ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。 久米邦武(1893~1931)佐賀藩出身。1881年東京帝国大学史学科初代教授。論文「神道は祭天の古俗」で1892年辞職」
今回の旅行で現地ガイドに確認したところによればこの「ナポリを見て死ね」は18世紀の「グランドツアー」(注)の一人の感嘆の言葉であったようです。
(注) 18世紀、イギリスの支配階級や貴族の子弟たちが、教育の最後の仕上げとして体験することになる、比較的長い期間(数カ月から2年間程度)のイタリア旅行のこと。
この反面、治安の悪さと住民の貧困が指摘されています。たいていのガイドブックはそのことを指摘しています。実際1996年の旅行では治安が悪いという理由で市内見学はバスの中からだけの観光でした。「米欧回覧実記4」(p326)は次のように記しています。「府中ノ人民ハ、多ク無学ニシ、懢惰性ヲナシ、街上ノ塵芥払ハス、車馬狼藉ナリ」
しかし今回はバスを降りての観光でした。最初の観光は国立考古学博物館でした、ここでは主にポンペイの遺跡(後日紹介)からの出土品を見学しました。写真は目玉焼きの道具だそうです。