礼拝堂の近くにあるカテドラーレに行きました。そこにはこのノルマン・シチリア王国の事実上の最後の王、フリードリヒ2世(ドイツ語読み、イタリア語読みではフェデリーコ王)の石棺があります。
彼についは2006年1月28日のブログで以下のように紹介しています。
「写真はないのですがなぜか10年以前にもかかわらず脳裏から消え去らないシチリアのパレルモで見たフェデリコ皇帝(神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒⅡ世 1194年~1250年)のお墓について少しだけ。 パラティーナ礼拝堂の彼の棺の前には絶えることのないドイツ人観光客からの花束が手向けられていました。このことが彼の棺を忘却の彼方に追いやらない理由のようです。 彼はドイツ人でしたがイタリアで生まれ育ちその殆どの生涯をイタリアで過ごしたイタリア語を話すノルマン・イタリア国王でもありました。アラビア語その他数ヵ国語も話す彼は度重なる教皇の十字軍遠征の要請に対しても返事を延ばし、いざ出兵となると、事前にスルタンと交渉して無血でエルサレム王国の支配権を確保し、自らエルサレム王位につきました。 このノルマン・シチリア王国は異文化共存の国家で近年注目をされています」
今回は写真を撮ることができました。花束もありますね。1996年と同じでした。
以上の文章について3点注を入れておきます。10年以上前とありますが1996年5月の旅行の時でした。「パラティーナ礼拝堂」とありますが、これは私の記憶違いでその近くにある「カテドラーレ」でした。彼をドイツ人と記していますがこれは正確ではありません。ノルマン王朝の初代の王ルッジェ-ロの末娘コンスタンティアがドイツの神聖ローマ皇帝であったドイツ王ヘンリクスⅥ世の后になってできた子がフリードリヒⅡ世です。
高山博氏はその著「中世シチリア王国」(p194)で以下のように述べています。
「しかし、複数の文化の交差点としてのシチリア王国は、すでにフレデリクスⅡ世の治世半ばで終わっていた。それを象徴的に示すのは、1220年代にシチリア島在住のイスラム教徒約2万人が彼の命令で(イタリア)半島部アプーリア地方のルチェーラに強制的に移住させられたことである。***王国の特徴であるイスラム教徒とキリスト教徒の併存は、このようにすでに13世紀初頭に終り、イスラム教徒の灌漑技術や農業技術が支えていたシチリア島の多様で実り豊かな農業も失われることになった」
