100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ヨルダン、シリア、レバノン」編 現地ガイド2 シリア

2006年05月15日 08時47分33秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

  シリアの現地ガイドはニダールさんでした。(写真)ヨルダンのジャミールさんとは違って肌色は白人と同じで白色でした。写真は少し黒く写っていますが白人特有の赤色の日焼けです。

 肌の色といえば、ペトラ遺跡の売店で働くかなり肌の色の黒い人にヨルダン人ですかと尋ねると、そうだと答えた後、エジプト人ではないと付け加えました。

 元に戻り、ムスリムですか、との質問にニダールさんは、ハーフ(半分)と答えてくれました。その意味するところは二つあったようです。ひとつは仕事の関係もあってきちんとしたお祈りなどができないことでした。そして”moderate” なムスリムだということでした。彼が本当に言いたかったのは”moderate” (穏健な)というコトバに象徴されることだったようです。彼の説明に”moderate” という言葉が盛んに出てきました。イスラームを皆さんはすべて過激派と考えているようだが、そうではなく大多数は”moderate” なんだということをハーフというコトバで説明したのだと私は理解しました。 彼は出来るだけ客観的にものを考えようとしているように感じました。パルミラの最後の女王ゼノビアの末路について彼は私の質問に答えて、アラブではこう考え、ヨーロッパではこう考えられているという説明をしてくれました。(注) 彼にもローレンスついて尋ねました。他の外国の観光客がいたためか、声を潜めて私の耳元でスパイ、” faker “(詐欺師)とささやいてくれました。サラディーンについても勿論尊敬の返事でしたが、同時に彼よりもfavourite(好きな)な人物がアサド大統領と言ったのには少し驚きました。大統領は自転車で買い物に出かけるような気さくな人物だと話してくれました。

  (注) パルミラはシルクロードの要地として特にBC2世紀からAD3世紀にかけ て 繁栄しましたが、クレオパトラの末裔と称した女王ゼノビアは属領でありながらローマ帝国に反旗を翻しAD272年ついに滅ぼされます。その後パルミラは廃墟と化し現在巨大な遺跡として繁栄の跡がしのばれるだけです。(次回の写真)敗れたゼノビアは捕虜になりましたがローマに送られる途中で毒を飲み死んだという説(アラブ側説)とローマにまで連れて行かれ余生を平穏に過ごしたという説(ヨーロッパ側説)があります。塩野七生氏は「ローマ人物語ⅩⅡ」で「ヨーロッパ側説」よって説明していますが、牟田口義郎氏は「物語 中東の歴史」で両方の説(アラブ側説については断食餓死説)を紹介しています。なお、18世紀のイギリスの歴史家ギボンはその著「ローマ帝国衰亡史」で「ゼノビアは黒い肌、真珠のような白い歯を持ち、大きな黒い瞳は火のように輝いており、その男性的な知性は学習によっていっそう強化されていた」(lonely planet “Syria” p258からの孫引き)と叙述しています。


「ヨルダン、シリア、レバノン」編 現地ガイド1 ヨルダン

2006年05月13日 09時48分50秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

 ヨルダンのガイド、ジャミールさんは浅黒い肌の典型的な?中東の人でした。写真の後ろの旗はヨルダン国旗です。 彼は豚肉を食べないし、ラマダンも行う敬虔なムスリム(イスラム教徒)でした。奥さんは1人だそうです。彼にローレンス(アラビアのローレンス)を尊敬しているかと尋ねてみました。彼はスパイでcheater(ペテン師)だとの返事でした。サラディーン(注1)について同じ質問をしてみました。勿論尊敬しているとの返事なので次の質問をしてみました。バイバルス(注2)についてはどうかと。この質問は牟田口義郎の「バイバルスはサラディーン**より今でも庶民の間で人気があり」(物語 中東の歴史 p221)を確認したかったからです。ところが期待したような強い返事が無く牟田口氏の説を確認できませんでした。これはシリアのガイドの場合も同じでした。

  (注1) 十字軍と戦い勝利したイスラム軍の将軍で後にエジプトのアユーブ  朝の建設者。アメリカのブッシュ大統領がイラク侵略戦争をする時に十字軍を引き合いに出し、これに対して当時のイラクのフセイン大統領がサラディーンの名前で対抗したしたので一躍有名になりました。ところがサラディーンはフセインが抑圧したクルド人出身であったことは皮肉でした。(1138年~1193)

  (注2) 最終的に十字軍をこの地方から追い出し、またモンゴル軍にも勝利した奴隷上がりの将軍でマムルーク朝のスルタンになりました。トルコ系遊牧民クマン人出身。(1228年頃~1277年)クマン人は現在、他民族に同化し殆ど消滅しましたが、ハンガリーの傭兵として現在のハンガリーに定住した人たちがマイノリティーとして残っています。ブタペストの北東100kmにある木造建築(世界文化遺産)で有名なホローケー村がそうです。(前年NHKのスペシャル番組「ドナウ河紀行」でここが紹介されましたが、クマン人の末裔の住む村であることに触れられなかったのは残念でした)


[ヨルダン、シリア、レバノン」編 多様な人たち3

2006年05月11日 08時53分46秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

  イラク人に出会ったのには少しびっくりしましました。レバノンのベイルート近郊のジェイタ鍾乳石洞窟(今まで見た内で最も繊細で美しいー撮影禁止)で出会ったのはキリスト教徒の一家族でした。イラクには平和が無いので近々アメリカに移住すると話していました。もう一組は同じ洞窟の入口付近にいた2人のムスリム、シーア派(イスラーム教徒)の青年でした。観光に来ているのかと聞くとそうだと答えてくれましたが。(写真)
 ヨルダンのペトラ遺跡ではアラブ系イスラエル人に出会いました。Arabic Hebrew か、と確認したところイエスと答えたのですが。
 前述のようにアメリカ人は殆ど見かけなかったのですが、観光中の一組の子供づれの夫婦をレバノンで見かけました。アメリカのシアトルということなのでイチローを知っているかと尋ねるとにっこり笑ってバットを振るしぐさをしました。城島についてはいまいちの反応でした。
 アルメニア人のディアスポラ(離散民)については以前このブログで紹介したことがありましたが、レバノンのアンジャール遺跡付近にも数多く居住しているということでこの遺跡の受付けで働いていた人に出会いました。(次ページ写真)

 


「ヨルダン、シリア、レバノン」編 多様な人々2

2006年05月09日 08時36分28秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

 観光客の国籍、民族も多様でした。キプロス共和国の人に出会いました。北か南かと尋ねると、憤然とした様子で勿論「南だ!」との返事でした。

 南といえば韓国の人と旅行中始めて親しく言葉を交わし握手までしました。(以前友人のホームページの掲示板(BOOKMARK参照)に韓国の人と旅行中親しく話をしたことがないと書きましたが、ここにそのことを訂正) いつもの私の馬鹿の一つ覚えの“Where are you from?” で始まり “ Korea” (韓国)との返事でしたが、そのあとすぐに” South Korea “と 追加したのが印象深く感じました。(注)彼らは全員クリスチャンでダマスカスの「目からウロコ」で有名なパウロゆかりの聖アナニア教会で賛美歌を歌っていました。どうやらパウロの跡をたどる旅のようでした。

  (注)日本では「北朝鮮」「韓国」ですが英語では"North Korea " "South Korea"   です。  

 バスク人にも出会いました。私の例の質問に「バスク」と答えましたが聞き取りにくかったのでもう一度尋ねると「北スペイン」と答えたのがこれまた印象深く感じました。 次回へ 写真はバスク人。 


「ヨルダン、シリア、レバノン」編 多様な人々1

2006年05月07日 08時26分52秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

 今回の訪問地は多種多様の民族、宗教の人々が暮らし、その対立と共生の国々です。今回ほど多種多様な人たちと出会った旅行はありませんでした。観光に訪れていた人たちもまた多様でした。しかし、いつもは多いアメリカ人だけは一家族に出会っただけでした。圧倒的に多かった観光客はラテン系の人々特にこの地がフランスの委任統治領であったことからフランス人が目立ちました。

 行き返りのエミレーツ航空(アラブ首長国連邦)からして多民族構成でした。客室乗務員14名、コックビット内3名全員の国籍が違うことがあるそうです。

 ちなみに、帰りの飛行機では客室乗務員はイギリス人、インド人、チェコ人、フランス人、南アフリカ人、エジプト人、フィリッピン人、シンガポール人、韓国人、日本人、コックビット内はドバイ人(アラブ首長国連邦)、カナダ人、フランス人でした。

 狭い飛行機の中で民族対立があれば飛行機は墜落ですね。狭い地球も同じですよね。

 帰りの飛行機にエミレーツの客室乗務員で15日の休暇で日本に帰る人がいました。(居住地はドバイ)彼女は「日本路線に乗りたいのですが、ヨーロッパ路線ばかり」と不平を云っていました。 

 写真は帰りの飛行機での客室乗務員で右から日本人、インド人、中国系シンガポール人です。 


ヨルダン・シリア・レバノン編 治安

2006年05月05日 09時34分46秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

 この地域は政治的に不安定であることは良く知られています。警察、軍隊の姿は日常的な風景のようでした。ヨルダンのアンマンのホテルでは機関銃を乗せた装甲車が待機しており中に入るのに荷物検査とボディチェックがありました。散歩で外へ出かけて帰ってきたときもボディチェックがありました。 

 しかし、普通は日本からの添乗員さんがスリ、かっぱらいなどに注意するようにとの話がある、人の混み合う市場(この地域ではスークといいます)などでもそんな話は無くまったく安全でした。夜間外出も自由でした。日常生活では全く平和な国々のような感じでした。

 写真はアンマンのホテル前の兵隊さんです。撮影禁止なのですが盗撮に成功しました。中に入る時にとがめられましたが、「アンタアホイ」(アラビア語で「あなたは私の兄弟」、今回の旅行ではこの言葉を乱発し成功しました)を連発し危うく危機を脱しました。