問題のバニ川をフェリーで渡りジェンネからドゴン人の集落へ向かいました。次々回からドゴン人を紹介する予定ですが、間が悪いこと?に昨夜NHKTVの「探検ロマン西アフリカ」でドゴン人が紹介されました。
次回はジェンネのようです。その次はトンブクトウですか?
写真はバニ川渡河のフェリーから撮影したものです。
最初に紹介した大モスクは勿論世界遺産ですが、一般の住居も世界遺産に1988年指定されています。
ナショナルジオグラフィック(日本版2001年7月号)にかなり詳しくこのジェンネについて書かれているので、その一部を抜粋紹介しておきます。
「ジェンネの美しい建物はもろく、はかないのが難点。定期的に補修をしないと,雨期には雨で流され崩れてしまう。大干ばつに見舞われた1970年代と80年代には、多くの住宅が見捨てられてしまった。*****現在、オランダ政府から50万ドルの資金援助を受け全家屋の約8分の1にあたる168軒の修復に取り組んでいる。*****職人たちは、グリグリと呼ばれる呪文を唱え、家とその住人、そして自分たち自身から災いを守る。古いレンガを壊して再利用をする時は、同じ家の修復に使う。さもないと、レンガにかけた呪文の効力が失われると信じられているからだ。」
ジェンネにはもう一つ問題がおきています。この地に恵をもたらしてきたバニ川に灌漑用のダム建設計画です。ナショナルジオグラフィックはこれに対する住民の反対運動をルポしています。私がこの地を訪れたのは2002年2月ですが、当時この計画は一時中断しているように聞きましたが、はっきりたことは分かりませんでした。
写真は世界遺産の住宅です。
ビストロというとパリとかの食堂を連想していたんだけど今回訪れたサンクトペテルブルグで面白い話をガイドのアレクサンドルさんから聞いた。
彼は50代のいかにもロシア人って感じの大男で大学でも非常勤の講師をやっている人でとても知的な人だった。
アレクサンドルさんいわく、ナポレオンのロシア遠征を挫いたのがアレクサンドル1世、ロシアではこの戦争を祖国戦争と呼んでいる。 ナポレオンがロシアから撤退したあとロシア、英国、ハプスブルグオーストリアを中心とする反ナポレオンの包囲網ができてナポレオンは退位してエルバ島に流される。 このあとしばらくロシアを含む連合軍がパリに進駐したことがあったんだけどそのときにできたフランス語の新しい言葉がビストロなんだって。
ロシア語で「速く!」または「急いで!」はビストロ!っていうんだって。パリに進駐したロシア軍の将校はパリのちっちゃい食堂に入ると腹が減っているし忙しいしでロシア語で「ビストロ、ビストロ」叫んでいたらしい。 ロシア人がいなくなったあともこの“ビストロ”という言葉だけはパリに居座っていて、主にパリのちっちゃい食堂(日本の定食やみないなところ)の代名詞になったんだって。
写真はサンクトペテルブルクのネフスキー通りの夜景です。
前回紹介した大モスクの前はご覧の通り人々でごった返していました。この日は月曜市の日でした。
14~16世紀にかけてトンブクトウ(2007年6月22日~7月2日に紹介)と並んで「双子の姉妹」と呼ばれ繁栄してきました。トンブクトウの方は寂れましたがジェンネは今も重要な交易都市です。その象徴がこの月曜市です。女性たちは正装してこの市場に出かけるそうです。
写真はこの大モスクの前で開かれている市場の様子です。 干し魚のようですね。
写真は「100年後には見られない可能性が一番高い世界遺産」とされているジェンネの大モスクです。「泥モスク」などと日本語では言われていますが余り品の良い言葉でないので「日乾しレンガモスク」と呼びたいと思います。またそのほうが実態にも合います。
この壁から突き出ている棒(トロン)は修理の時の足場です。毎年、年に一回の雨季の後代々技術を受け継いだ約90人の専門の職人とともに4000人のボランティアが参加して修理をします。この仕事は単なる補修作業ではなく、信仰心を表す神聖な宗教行事で、一種のお祭的現象を呈するそうです。
26代目ジェンネ王コイ・コンボロがイスラーム教に改宗した記念に1280年創建されました。その後1819年イスラーム原理主義者(lonely planet による)によって破壊されました。その後1907年に再建されました。
屋根は100本の柱で支えられ奥行き75m、高さ20mで1000人の信徒が収容できます。非イスラーム教徒は現在中には入れません。以前、色々トラブルがあったようです。