カスバ街道とは10月7日の地図でエルフード~ワルザザートの路を言います。この街道沿いに城塞で囲まれた要塞(カスバ)が数多く残っていることから名づけられました。昔は南のブラックアフリカと北アフリカを繋ぐ重要な通商路でした。今は風光明媚な自然、カスバ、オアシス農村風景が連なる街道です。 最初にトドラ渓谷を紹介します。
なぜかこの砂漠には風紋が描かれているところが少なかったような気がします。この写真はその少ない風紋です。生き物の足跡です。表面の砂を触ると少し湿っていました。それが風紋を描かれていない原因かもしれません。
というわけでラクダで出発です。写真を見るとちょっと奇妙なことに気付きませんか。そうなんです。水です。砂漠に水です。ちょうどこの時期雨期だったようです。異常気象なのか? 以前2007年5月31日に砂漠と沙漠について紹介したことがありましたが、ここは水の少ない沙漠でなく石が少ない砂の砂漠でした。
砂丘の見学の後、近くの遊牧ベルベル人のテントでミントティーをご馳走になりました。ご馳走になった少し大きめのテントの近くに写真のような小さなテント?がありました。自転車があるのがなんとなくおかしいですね。
今回の旅行の目玉の一つが世界最大のサハラ砂漠でした。前日砂漠観光の拠点エルフード(10月7日地図)に泊まり翌日4時半に砂漠の日の出を見るため4輪駆動に分乗して出発です。メルズーガというところで4輪駆動を降り徒歩またはラクダに乗り砂丘を目指します。ところが残念なことに曇天で日の出を見ることはできませんでした。
タンジェ(10月7日地図)の紹介は四方田犬彦の文章(「モロッコ流謫」p24~25)を借用します。
「この邑は他のモロッコの都市とは比較にならないほど古くから存在し、さ ながら海千山千の年増女のようにさまざまに宗主国と言語とを替えて、したたかに現在まで生き延びている*****地中海の終点を示すこの港は、交易のうえからも、軍事的見地からも古来から重要な拠点と見なされ、紀元前からすでにフェニキア人、ベルベル人、そしてローマ人の争うところであった。*******『三大大陸周遊記』を著したイブン・バトゥータの生地******大航海時代になるとスペインとポルトガルが代わる代わるタンジェを領地とし、短い期間だがイギリスが要塞を築いて、それに続いた。20世紀に至って、植民地争奪競争に出遅れたドイツがそれに反発し、1923年についにこの邑は列強8カ国の共同管理のもとに、政治的にも軍事的にも中立の国際都市として再出発することになった。******」
このようにタンジェはアフリカで最もヨーロッパと関係が深くモロッコそのものの歴史もこのタンジェが象徴しています。 このヨーロッパと結びつけているのがジブラルタル海峡です。このジブラルタル海峡でヨーロッパに一番近いところがタンジェ西郊外15kmにあるスパルテル岬(写真)で天候がよければ対岸のイベリア半島(スペイン)が見えるのですが今回は天候が悪く見えません。残念!
最後の観光も王室関連建造物でした。前国王ハッサンⅡ世の60歳の誕生を記念して1986年から8年がかりで1993年に完成したハッサンⅡ世モスクです。世界で3番目に大きいモスです。全敷地に8万人、内部に2万5千人収容可能だそうです。総工費5億ドル以上(約500億円以上)です。ちなみに国民一人(総人口約3000万人)あたり所得は1900ドル(19万円)です。(外務省ホームページ)日本の自公政府は一人当たり1万5千円で国民を買収しようとしていますが、モロッコでは国民一人あたり1万7千円でモスクを作りました。
もともとこの地は海岸線に面したスラム街でありました。lonely planet によればこの地を何ら保障なくして追い出されたスラム住人の恨みはまだ続いているそうです。(p91) イスラームの戒律が厳しい、たとえばイラン、パキスタンなどでもモスクは非イスラーム教徒にも公開されていますが、ここモロッコでは非イスラーム教徒の入場は禁止されています。ただこのモスだけは例外的に英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語のガイドつきで公開されています。そのことからこのモスクの建設・存在の意味がなんとなく分かるような気がしました。