3階建てになっています。
ゲオギリスは12の教会のなかで最後に作られたとされています。そこで以下のような伝説が残されています。教会群建設が終わりに近づいたころエチオピアの守護聖人ゲオギリスが白馬に乗り武装してラリベラ王のもとに現れ何故私の教会がないのかと不機嫌そうに詰問しました。そこでラリベラ王はすべての教会のなかで最も美しい教会を建てることを約束しました。
11世紀から12世紀にかけて当時のアクスム王朝のラリベラ王の名前を取りラリベラと名付けられた土地に巨大な一枚岩をくり抜いた12の教会が作られました。ラリベラ王は当時聖地エルサレムへの巡礼が困難となったためこの地にエルサレムを建設するという目的から始まったとされています。
1978年に世界遺産に登録されました。
この12の岩窟教会群は第一グループ、第二グループ、ゲオギリス教会に分けられます。
そこで最初に岩窟の特徴がよくわかるゲオギリス教会から紹介します。ご覧のように上から岩をくりぬいて作っています。したがって教会そのものも本来、岩です。高さ12m。奥行き12m、幅12mで「ノアの箱舟」を象徴していると言われています。
この村のシナゴーグ(教会、祈禱所)跡です。ユダヤ人の象徴であるダヴィデの星の印が見えますね。
アリアー後のイスラエルでのこの人たちの境遇は必ずしも幸せではないようです。文化の違いなどによる差別があり日本のマスコミでも差別に対する反対運動などが報ぜられたこともありました。エチオピアに帰りたい人たちもいるとの話も聞きます。
また現在もエチオピアにはキリスト教に改宗したユダヤ人もいます。ファシュムラと呼ばれています。彼らは純粋のキリスト教徒でもなくまた当然ユダヤ教徒でもないという中途半端な立場であるようです。現地ガイドのダニエルさん尋ねたところ正確な数字は分からないが5000人程度いるのではないかとのことでした。
余談噺。ファラシャのイスラエルでの境遇を考えていた時、気がついたことがありました。このようにイスラエルは各々異なる文化背景を持つ者の集まりです。もちろんユダヤ教という強い共通点はありますが。しかしファラシャのように文化的な違いが国家統一的イデオロギーを壊す可能性もあります。そこで政治的支配者がとる常套手段が過度に対外的危機を煽り国内矛盾から国民の眼を逸らす政策です。それが現在の必要以上のパレスチナ刺激政策ではないかということです。
エチオピアには以前10万人を越すユダヤ教徒がいました。彼らはファラシャと呼ばれていましたがその意味が「よそ者」「流浪人」であることから当人たちはその言葉を忌避していてベター・イスラエルと呼ぶ場合があります。その起源には種々な説があり不明ですが1975年イスラエル政府がユダヤ教徒(人)と認定してイスラエルへのアリヤー(帰還)が始まりました。最終的には1991年のソロモン作戦(興味のある方は当時のイスラエル大使の筆になる「エチオピアのユダヤ人」をご覧ください)でほぼ全員のイスラエルへのアリアーが終わりました。
したがって今ではエチオピアにはユダヤ教徒はいないのですが、私は世界各地のユダヤ人跡を訪ねる趣味?があるので、あらかじめ添乗員の安原さんに頼んでおきました。(もちろん観光予定地には入っていません)彼女は現地ガイドにその件をたのんで見ますとの返事でした。
その私の希望がかないゴンダール近くで旧ファラシャの村に行くことができました。
この書物はpsaln と呼ばれている教会で毎日読みあげられる祈祷書です。これも聖書そのものでなく聖人たちの物語のようです。赤い字は聖人の名前です。文字はゲエズ文字で言語はゲエズ語です。ゲエズ語とは古代エチオピアで使用されていた言語で現在は一般には使用されていません。ヨーロッパでいえばラテン語のような位置にあります。ゲエズ文字そのものは現在エチオピアの各民族の言語表記に用いられています。したがってこのようにゲエズ文字で書かれたゲエズ語の書物は修道僧や司祭などだけが読むことができます。
同じ場所に少年(青年?)が小冊子をもって立っていました。どうやらこの小冊子は聖書ではなく聖人の物語のようです。今回各地の教会などでゲエズ文字(エチオピアで使用されている文字)で書かれた古文書など沢山見ましたが、なぜか聖書そのものは見る機会がありませんでした。どうもこれは私の勝手な推測かもしれませんがエチオピアでは聖書そのよりは聖人たちの物語の方がより多く読まれそれが信仰の基盤になっているような気がしました。
写真は首都アディスアベバにある聖ゲオリギス教会です。良く見てください。柱がつやつやしているでしょう。敬虔なキリスト教徒のキスの痕です。無神論のわたくしから、いや大多数の日本人から見て気持ちが悪いような気がするのですが。
くろいぬさんコメントありがとうございました。本年もよろしく。