100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「南イタリア・シチリア・マルタ」編 多文化 モンレアーレ3

2014年06月13日 08時31分42秒 | イタリア

 

 この大聖堂の隣には修道院があり、その回廊の円柱の文様が多様で趣があります。

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「南イタリア・シチリア・マルタ」編 多文化 モンレアーレ2

2014年06月13日 08時28分34秒 | イタリア

 

 壁の文様もアラブですね。

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「南イタリア・シチリア・マルタ」編 多文化 モンレアーレ1

2014年06月13日 08時25分40秒 | イタリア

 

 パレルモへ行ってモンレアーレを見ないのは驢馬(馬鹿)のごとしといわれることがあるそうです。

 モンレアーレはパレルモの8km南東にあります。グリエルモⅡ世(ウィレムスⅡ世  1166~89)が大司教と張り合って建立したモンレアーレ大聖堂があります。キリストのモザイク画の構図はパレルモやチェファルーと同じですね。

 

 

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ7 フリードリヒ2世2

2014年06月10日 10時07分50秒 | イタリア

1996年のこととしてフリードリヒⅡ世の棺に多くのドイツ人が花束を下げていたと書きましたが、今回もこの棺の前で多くのドイツ人を見かけました。ドイツ人の確認をするため「グーテンターク(今日は)」と挨拶をしました。すると「シュプレッヘン ジ ドイチ(ドイツ語を話すのか)」と返ってきたので、ちょっと戸惑い「アイン ビシェン(ちょっとだけ)」と返すと笑いがありました。同行の人が心配げに「山田さん 何と言ったの!」と気遣ってくれました

 最近塩野七生氏が「皇帝フリードリッヒ2世の生涯」という本を出されました。上下2冊の大冊ですが、楽しく読ませていただきました。

コメント (4)
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南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ7 フリードリヒ2世1

2014年06月10日 10時03分34秒 | イタリア

 礼拝堂の近くにあるカテドラーレに行きました。そこにはこのノルマン・シチリア王国の事実上の最後の王、フリードリヒ2世(ドイツ語読み、イタリア語読みではフェデリーコ王)の石棺があります。

 彼についは2006年1月28日のブログで以下のように紹介しています。

「写真はないのですがなぜか10年以前にもかかわらず脳裏から消え去らないシチリアのパレルモで見たフェデリコ皇帝(神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒⅡ世 1194年~1250年)のお墓について少しだけ。 パラティーナ礼拝堂の彼の棺の前には絶えることのないドイツ人観光客からの花束が手向けられていました。このことが彼の棺を忘却の彼方に追いやらない理由のようです。 彼はドイツ人でしたがイタリアで生まれ育ちその殆どの生涯をイタリアで過ごしたイタリア語を話すノルマン・イタリア国王でもありました。アラビア語その他数ヵ国語も話す彼は度重なる教皇の十字軍遠征の要請に対しても返事を延ばし、いざ出兵となると、事前にスルタンと交渉して無血でエルサレム王国の支配権を確保し、自らエルサレム王位につきました。 このノルマン・シチリア王国は異文化共存の国家で近年注目をされています」 

今回は写真を撮ることができました。花束もありますね。1996年と同じでした。

 以上の文章について3点注を入れておきます。10年以上前とありますが1996年5月の旅行の時でした。「パラティーナ礼拝堂」とありますが、これは私の記憶違いでその近くにある「カテドラーレ」でした。彼をドイツ人と記していますがこれは正確ではありません。ノルマン王朝の初代の王ルッジェ-ロの末娘コンスタンティアがドイツの神聖ローマ皇帝であったドイツ王ヘンリクスⅥ世の后になってできた子がフリードリヒⅡ世です。

 高山博氏はその著「中世シチリア王国」(p194)で以下のように述べています。

「しかし、複数の文化の交差点としてのシチリア王国は、すでにフレデリクスⅡ世の治世半ばで終わっていた。それを象徴的に示すのは、1220年代にシチリア島在住のイスラム教徒約2万人が彼の命令で(イタリア)半島部アプーリア地方のルチェーラに強制的に移住させられたことである。***王国の特徴であるイスラム教徒とキリスト教徒の併存は、このようにすでに13世紀初頭に終り、イスラム教徒の灌漑技術や農業技術が支えていたシチリア島の多様で実り豊かな農業も失われることになった」

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ6

2014年06月07日 08時28分43秒 | イタリア

 このようなプレートを見ました。イタリア語は分かりませんが、ラテン語、ギリシア語、アラブ語が公用語であったとの説明のようです。なお、公文書にはヘブライ語で記されていたものもあります。(「NHK人間講座 文明共存の道を求めて 高山博著」 p60) 小森谷慶子、小森谷賢二氏はこの礼拝堂を「壁面には金地モザイクで聖書の物が描かれ、木彫りのイスラム風袼間天井は細密画埋め尽くされている。それはラテン、ビザンツ、アラブの文化が折衷統合された唯一無比の空間、この王の融通無碍と寛容を物語る空間であった」(「シチリアへ行きたい」p57)と紹介しています。

 多くのビザンツからのギリシア人やアラブ人がこの礼拝堂建設に従事しました。

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ5

2014年06月07日 08時25分45秒 | イタリア

 こちらはラテン、ビザンツ、アラブの総出演ですね。

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ4

2014年06月07日 08時22分23秒 | イタリア

 礼拝堂の内部は多文化のオンパレードでした。写真はアラブ模様です.

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ3

2014年06月04日 09時02分33秒 | イタリア

 

 やはり礼拝堂にはチェファルー と同じ構図のキリストがありました

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ2

2014年06月04日 08時59分13秒 | イタリア

 

 そのノルマン・シチリア王国の面影を最もよく残しているのがノルマン王宮とその2階にあるパラティーナ礼拝堂です・

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 パレルモ1

2014年06月04日 08時54分53秒 | イタリア

 

 パレルモは現在シチリア州都で70万人の人口です。12世紀にはヨーロッパ最大の人口を有していました。前回紹介した初代シチリア王国の国王ルッジェリオ2世の父ルッジェリオ1世が1072年にそれまでイスラーム教徒たちの首都パレルモを陥落させました。以後パレルモはノルマン王朝の首都となります。

 そのためパレルモには多くノルマン・シチリア王国の面影が遺されています。

 写真はパレルモのマルトラーナ教会にあるビザンツ風王衣のルッジェーロ2世がキリストから加冠される(王になる)図です。

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 チェファルー 3

2014年06月01日 08時39分06秒 | イタリア

 

 この海岸でこのような幸せいっぱいのカップルと赤ちゃんに出会いました。

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 チェファルー 2

2014年06月01日 08時36分54秒 | イタリア

 

 チェファルーの町の遠景です。

 

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「南イタリア・シチリア島・マルタ島」編 多文化 チェファルー1

2014年06月01日 08時31分44秒 | イタリア

 

 476年ローマ帝国崩壊後南イタリア、シチリアはラテン・キリスト教文化圏、ギリシア・ビザンツ文化圏、アラブ・イスラーム文化圏の鼎立時代に入ります。それを政治的に統一したのがノルマン人でした。ノルマン人の祖先を遠くたどれば8世紀ヨーロッパを荒らしまわった北欧のヴァイキングにまでさかのぼりますが、その一部が北フランスのノルマン地方に定住します。彼らの1066年のノルマン・コンクェストで知られるイギリス征服は有名です。

 ほぼ同じころ、彼らの一部がここ南イタリア・シチリアに最初は傭兵として入ってき、次第に力をつけ地域の「侯」(大名)となり、ついにはこの地の王になります。(1130)この王国は上記の3大文化を融合した独特の国家を作り上げます。初代の王位を名乗ったルッジェーロ2世(ロゲリウス)は多言語を操り多民族を治めた東方的専制君主でした。彼が王になった直後1130年当時イタリア最強の海洋都市国家アマルフィ(後紹介)へ遠征し従えたが、首都パレルモに帰途嵐に逢い無事に陸に漂着できたらその地に聖堂を献じると神に約束しました。(伝承)(5月6日地図)そして漂着できた地がチェファルーで約束をした聖堂が造られました。アラブ・ノルマン様式の傑作とされています。

 写真は聖堂の後陣です。そこにはビザンチンモザイクでキリストが左手にギリシア語とラテン語で書かれた聖書を持ち、右手は3本の指での三位一体を描いています。この図柄は後日紹介予定のパレルモやモンレアーレと同じです。

 

 

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