100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「北インド周遊15日の旅」ヴァーラーナスィー(バナーラス、ベナレス)2

2020年02月11日 08時04分45秒 | インド


 ガートの観光はチャーターした小舟からでした。子供たちの売り子たちが群がってきました。
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「北インド周遊15日の旅」ヴァーラーナスィー(バナーラス、ベナレス)1ガートと男根

2020年02月11日 07時56分41秒 | インド


 前回紹介したサルナートから10km離れたヒンズー教の聖地ヴァーラーナスィー(バナーラス、ベナレス)を訪れました。日本では「ベナレス」と呼ばれることが普通ですが、これは日本にだけ通用する呼び方のようです。オーストリアの首都ウィーンという呼び方もそうですね。インドではヴァーラーナスィーかバナーラスです。その違いについての説明は省略し、以後「ヴァーラーナスィー」で統一します。
 ヴァーラーナスィーはガンジス河中流域にある人口120万(2011年)寺院1500、年間巡礼者100万人の宗教都市です。
 写真(右)はガンジス河にある沐浴場(ガート)です。その数は文献によっていろいろのようで私の見た範囲での最大100です。
 このヴァーラーナスィーを詣でた人はこの沐浴場で日の出を拝みながらここでガンジス河の水で身を浄め、その後寺院で男根(リンガ)(写真左)を拝しその頂点にガンジスの水を注ぎます。なお、リンガはここヴァーラーナスィーでは見ることができなく写真は後日紹介予定のエローラの寺院で見たものです。リンガはヒンズー教のシバ神の象徴です。
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「北インド周遊15日間の旅」サルナート2 、野生司香雪のフレスコ画

2020年02月08日 08時05分22秒 | インド


 この地には世界各国の仏教徒によって多数の寺院が建てられています。そのうちの一つスリランカの仏教団体の建てたムーラガンダ・クティー寺院に日本人画家、野生司香雪(1885~1973)の描いたブッダの生涯を描いたフレスコ画がありました。
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「北インド周遊15日間の旅」サルナート1

2020年02月08日 07時56分08秒 | インド


 デリーの次の観光地はサルナートでした。ここはブッダ(釈迦)が初説教をしたところとして知られている聖地です。写真の右後方にある建物はブッダの骨を収めた仏塔ダメーク・ストゥーバです。
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「北インド周遊15日間の旅」デリー フマユーン廟。

2020年02月05日 08時09分16秒 | インド



 1567年ムガル王朝2代目の皇帝フマユーンの死を偲んで彼の妃が建てた碑です。世界的に有名な後のタージ・マハル(後日紹介)に影響を与えたといわれています。似ていますね
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「北インド周遊15日間の旅」デリー クトゥプミナールとクワトウルイスラーム・モスク

2020年02月05日 08時05分17秒 | インド


 元奴隷であったクトゥプッデイン・アイバク(イスラーム教徒)が1193年にヒンドゥー教徒のこの地を征服し王朝を開きその勝利記念に建てたのがクトゥプミナール(写真左)です.高さ72.5mで、5層からなり、第1層はヒンドゥー様式、第2・3層はイスラーム様式のデザインです。
 右側の写真はクトゥプミナールに隣接する、インド最古のイスラーム礼拝堂クワトウルイスラーム・モスクです。
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「北インド周遊15日間の旅」デリー デリー城

2020年02月05日 08時01分08秒 | インド


 デリー市内の歴史的建築物を以下四つ紹介します。最初はデリー城です。ムガル王朝5代皇帝シャー・ジャハーンによって、1639~48年に建てられたお城です。赤い砂岩で築かれていて「赤い城」を意味する「ラール・キラー」と呼ばれています。
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「北インド周遊15日間の旅」 アンベードカルと不可触民

2020年02月02日 07時59分52秒 | インド


 (30日はPC故障のため休みました。心身の故障ではありません)
 ガンディーと並んで忘れてはならない人物がアンベードカルです。日本では比較的馴染みが薄いようですが、わたくしにはガンディーと同等な人物です。(以下 2006年6月22日に紹介したものに一部修正)
インドムンバイ(旧称ボンベイ)の街中をバスで走っていると銅像が見えたので現地ガイドのセチさんに尋ねるとアンベードカルという人でインド独立後初代の法務大臣という説明でした。慌ててバスの中から写真を撮りました。私が写真を撮った理由は彼が法務大臣であったからではありません。彼は不可触民出身でその解放に一身を捧げその方法について、かのガンディーと鋭く対立しヒンドゥー教を捨て、最晩年に仏教徒へ改宗しました。それが理由でした。
 不可触民についてはご承知の方が多いと思いますので簡単に説明しておきます。ヒンディー語でアチュート(触ってはいけない)が英語のuntouchable になりそれが日本語訳で「不可触民」になったようです。ガンディーが名づけたハリジャン(神の子)は当該の人たちには不評のようです。彼らはインド独特のカーストの最下層というよりはアウトカーストと呼ばれるように制度の外に存在し「穢れ」て、いるとされ差別を受けてきました。現在は法的には差別はなくなりましたが社会的には強く残っています。数は全人口の約15%で1億5000万人になるとされ、日本の被差別民に比べて非常に多いのです。
 15日間通じての現地ガイド、セチさんはこの存在について最後まで言及しませんでした。彼は最上層のバラモン(ブラーフマン)の出身でした。余談ですが彼の毎日読むのはヒンディー語新聞ではなく英字新聞だそうです。
 アンベードカルとガンディーとの対立について少し紹介しておきます。「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書)というアンベードカルの著書に寄せた山崎元一氏の解説(p397)に次のような簡潔な文章があります。
  「ガンディーが不可触民制はヒンドゥー教そのものとは関係なく、その廃絶はカースト=ヒンドゥーの懺悔・改心を通じてもたらせると主張したのに対し、アンベードカルは、不可触民制の廃絶はカースト制度とヒンドゥー教を打倒することによって、また不可触民自身の自覚と向上によって得られると唱える」
このようにしてアンベードカルは早くからヒンドゥー教から決別していましたが正式に仏教徒への改宗宣言は1956年のブッダ生誕2500年祭でのことでした。その年12月に享年65歳で「ブッダとダンマ」の最終稿に目を通しつつ世を去りました。この著書で彼は仏教が神と霊魂の存在を否定する宗教であることなど主張しています。
この本以外に彼の業績とカースト制について興味のある方は少し古くなりますが(1979年)「インド社会と新仏教」(山崎元一著 刀水書房)が参考になると思います。
また、日本からインドへ国籍を移し彼の衣鉢を継ぎ彼のこの新仏教の布教に奮闘している佐々井秀嶺氏が以前TBS系テレビの「不思議発見」で紹介されました。その後、彼の著書「必生 闘う仏教」が集英社新書で出版されました。

 (以下は2006年6月24日紹介の修正版)下部の写真は洗濯村の洗濯場です。
「洗濯」は不可触民の典型的な職業の1つです。(インドでは職業と身分とが密接不可分です)
 余談になりますが、インドは長期間ヨーロッパの植民地であったにもかかわらず現在に至るまでキリスト教徒が少ない理由は、最初に不可触民がキリスト教徒に改宗したのでそれを上層のカーストが嫌ったからだという説があります(「アジアの聖と賎」野間宏、沖浦和光共著p74)
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