風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

趣味

2020年10月18日 | ことば
スマホ情報で、 「趣味」を表すロシア語は、直訳すると「魂のために」となるそうだ。

う~~~ん。奥深い。

そこから連想したことは、オルティンドーを習っていた時の経験です。

10年以上前の情報で、しかも再登場で恐縮ですが、ウランバートルで、日本語科の生徒さんに「趣味」の意味を説明することができなかったことがありました。

お金を払って、何かを習うということは、それを生業とするための先行投資であって、何倍にもなって、戻ってくるものでなくてはならないのです。
その時、意気揚々と「趣味ってた」私と、彼女との意識の差はどれほどだったのか。

習っている時に、オルティンドーの先生(プロの舞台歌手)の友人が訪ねてきたことがある。
その友人もプロの女性オルティンドー歌手でしたが、最後に放った言葉が、「この年では歌手になれない」であった。
私としては、大笑いだったのだが、その歌手は、どんな気持ちだったのだろう。
大真面目に、むしろ心配してくれた言葉っだったかなと、思います。
そして、私に教えてくださっていた、プロの歌手は、日々、どういう思いで、私に教えていたのだろう。
無駄にお金を使ってるけど、私は、収入になればよいのよ。だろうか。。。

その時の気持ちのギャップは、年と共に広がっています。

その中に含まれるたくさんの意識の違いは、文化の違いと総称されるのでしょう。

プロがプロを養成する⇒プロがプロにならない人も教える⇒プロにならなかった人が興味のある人に教える⇒素人があるいは、プロが、ボランティアで教える

高度な技術を支えるためのお金を当然のこととして、お支払する時代から始まって、有償で得た技術を無償で、伝えるというところまでには、社会の成熟が欠かせない。

いや、待てよ、高度な伝統技術を教え伝えていくためには、徒弟制度というものもあったね。ここには、どういう形で、お金がかかわっていたのだろうか。
弟子は、「家」にかかわるすべての仕事から雑事まで無償で提供する時代もあり、その時は、技を盗んでいたわけで、そこには、お金は、介在していないね。
それをボランティアという?

そもそも、ボランティアって、何?

その頃のウランバートルでは、「ボランティア」という言葉も、おそらく理解されなかったことでしょう。
けれど、過酷な気候の中で、相互扶助というのは、驚くほど行われていましたが、そこには、「命」がかかわっていました。

それは、私のイメージするボランティアという言葉では、太刀打ちできない深い包容力と強いパワーを持つ営みがありました。



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慈しめば

2020年10月05日 | ことば



    慈しめば 叱るときける 寒さかな
             松根東洋城(まつねとうようじょう)


夏井いつきとローゼン千津とのオモシロイ鰍ッ合いと、深い知識と、感覚で、話が進みます。
二人の姉妹の愛情とで、醸し出される空気を、存分に楽しみました。

最近、見つけたYouTubeでの、息子さんとの鰍ッ合いも、いいなぁ、そうよねぇと、つくづく思います。

これほどの人でも、この句に思うことがあるのか、「寒い」と思う経験をしているのかと思う。


   秋立つや 何におどろく 陰陽師
                  与謝蕪村

目には見えぬはずの秋、だから陰陽師は驚くのかな。えっ、でも、陰陽師なのに?
是非、本書をを読んで、夏井先生と妹のローゼンさんとの鰍ッ合いをお楽しみあれ。
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通訳さん

2007年01月12日 | ことば
夫の新しい通訳さんに会いました。
モンゴル国立大学で勉強し、日本にも行ったことがあるそうです。
その時、日本で買った辞書が、露和と和露の辞書。
蒙和と和蒙の辞書は、持っているのかいないのか分かりませんが、彼女は仕事にロシア語の辞書を持参していました。

よく聞く話ですが、和蒙、蒙和の辞書の良いのがない、だから、英語やロシア語の辞書を持って、一旦第三番目の国の言葉に訳してから、日本語に訳して勉強する人が多いのだそうです。
二度のずれを修正しながら、末オていくことは、技術用語ならまだしも、文学や会話を通訳するに付いて、どんなひずみが起きているのだろう。

日本語を学ぶモンゴル人がどんどん増えていると言うのに、ちゃんとした辞書がなくて、二度辞書を引かねばならないのは、まどろっこしいことです。

どなたか、辞書をつくろうという学者さんはいらっしゃいませんか。
シンさんが書き込んでくださったので、辞書について、もう少し夫の苦労話を書いてみましょう。

辞書に関して、いろんな方面からいろんな話を聞きます。
私自身は、日常生活では、10個ほどのモンゴル語と、ボディランゲイジで済ませています。
ボランティアとオルティンドーの練習には、TISの4年生のトゥールさんに、日本語の会話の勉強として通訳をしてもらっています。

私が持っている、蒙和辞書を使うときは、我が家に遊びに来たほとんど日本語の出来ない学生さんとのコミュニケーションのとき、学生さんに辞書を引いてもらって私がその日本語を読み、私は和蒙辞書を引いて、そのモンゴル語を学生さんが読むと言うことをしています。

それでも、日本語とモンゴル語との表現方法の違い、モンゴル語に日本語に相当する言葉がない、あるいは辞書自体の語彙がすくないと言う問題があって、微妙な表現は伝わらなくて、単純な会話を続けるしかありません。

夫は、専門の仕事で通訳さんを雇っています。
夫の携わる分野の専門書は英語のものが多いため、前回は英語のできるモンゴル人通訳さん(大学院生がたまたまいました)でした。
その場合は、辞書を持たずに何とか仕事がこなせました。ほんとは、辞書を持ってきてくれたほうがずっと良い仕事が出来たのですが、彼女が自信過剰だったのか、持っていないかだったのです。(何しろ辞書は高いので、夫も、持ってきなさいとか、持ってないの?と聞けなかったようで。。。)

いろいろ事情があって、新しい通訳さんに代わりました。
彼女は、日本語の通訳です。
専門分野の通訳としてでなく教授との相互理解に重点を置いて今度は方針転換です。
それでも、専門についての会話も出てくるわけで、そうなると、夫は英蒙の辞書、通訳さんは露蒙、教授はモンゴル語とロシア語を話すという組み合わせになります。

専門分野についての、日蒙、蒙日の辞書は有りませんから、夫の言葉⇒英蒙⇒蒙露(通訳さん)⇒ロシア語で教授に伝わると言う経路をたどります。
日蒙の専門の辞書があれば、夫の言葉⇒通訳(ここで必要であれば日蒙辞書)⇒教授
 と伝わり通常の通訳のスピードで行われます。

彼女は、夫の専門分野については、これから勉強ですから、辞書を多用して仕事に臨みますから、(最初から辞書持参でした!)ページを繰る音が多くなります。
ロシア語の辞書は薄くて丈夫ですから、早く引けるのですが、日蒙の辞書は、雑誌のような厚さの紙を使っていますから、引くのがちょっと時間がかかります。

そのような、苦労を日々重ねているようです。
すべて、夫からの伝聞です。

《社会主義時代は、モンゴルではロシア語を小学校から学びます。そして、大学はロシアへ留学しました。ですから、日本での英語のように、知識階級ではロシア語を理解するのが当たり前です。
その時代が終わってからは、英語や日本語を教える学校が増えてきました。
今は、日本語と英語に人気が集まっているようです。
通訳さんは、30代ですから、ロシア語を習って育っていますから、日本で辞書を求めたときに、日露、露日を選んだのだと思います。》


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短いことば

2006年06月25日 | ことば
ゲルの二日間は、アメリカ人の女性と私以外はすべて英語に堪能な方ばかりでした。
何を話しているか、大体は分かるので、同じタイミングで笑うことは出来たのですが、短い言葉で、話しかけられると却って分からないのでした。

HOT COLA?
私が頼んだ、コーラを指差して彼女はこう言いました。
モンゴルでは、飲み物が良く冷えてないことが、ツーリストの間では問題になります。そして、彼女たちの頼んだビールが、生ぬるかったので、彼女は、私の飲み物が冷たいかどうかとジョークでこう言ったのです。
HOTはホットと思っている私には、聞き取ることが出来なかったのです。

せっかく、私にジョークを言って、もう一歩親しくなるチャンスだったんだけどなぁ。。。

Fly Swat
スワットは、アメリカの狙撃部隊と言う認識しかなかったのですが、意味は「ハエたたき」でした。

翌日、ザハでフライ スワットを200トグルクで、買いました。(^^♪

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モンゴル・ロシア共同学校

2006年04月22日 | ことば
      モンゴル・ロシア共同学校 第2回 日本語祭り








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モンゴル教育大学日本語祭り

2006年04月20日 | ことば
20日(前日


         21日本番








     楽しい一時をありがとう


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日本語教師

2006年04月14日 | ことば
 日本語教師の専門家のM 先生の帰国報告会でした。
日本語の授業開始が1975年モンゴル国立大学で始まりました。
1990年には副専攻だったのが主専攻になり、学ぶ人が66人になりました。その頃学んだ人が、今モンゴルの日本語教育を担っている人たちです。そのころは、人口1万人に対して日本語を学ぶ人が66人。
2003年には、9080人にもなっているそうです。
2005年には、その人数が韓国を抜いて世界1位になりました。


日本語教育の始まりは、学術的、文化交流が主なものでしたが、今では経済交流に変わってきています。
たとえば、ITエンジニアなどの専門家が日本語を学び始めています。
そして、首都UBだけでなく全土に向けた、ラジオ講座、あるいは、地方への日本語教師の進出が始まっています。

そんな中で大きな課題は、日本人の日本語教師が少ない。
モンゴル人の日本語教師の待遇が悪い(小中学校の日本語教師の月給は60ドル)ため人材の流出が続きしたがって勤続年数が短いということです。
そして、教条主義的な教授法がいまだに続けられている。

日本人の日本語教師が一人でも増えることが望まれています。
団塊の世代のボランティアを希望する中高年富裕層に期待を寄せるところです。
そして、モンゴル人教師への給与助成の充実が望まれています。

教条的ではない教育とは。
鮮烈・緻密・自由と言う目標を掲げておられました。
視聴覚教材を使い学習に結びつけること。
一人一人の学生のデータを収集し分析する、クラス全員の名前を覚える。
コニュニカティブな授業を目指す。
と言うことです。

その他、日本モンゴルセンターで行なわれている各年齢層にあわせたたくさんの講座や、去年始まったラジオ講座について、話されました。
ラジオ講座の本は、4,000冊も売れたそうです。
現在モンゴル語を習っている人のほぼ半数に昇ります。
ラジオ講座も、地方へ向けて再放送が始まり、インターネットですでに放送されたものを聴くことが出来ます。
若い人向けに、アイャbトのような装置で繰り返し聞けたり更新したり出来るように思案中だそうです。

最後に、SAVE THE CHILDRENへのボランティアについて、とても感謝されているので、これからも考えて行きたいとおっしゃっていました。
細々と続いているボランティアですが、教師陣が充実したら、このような末端部分にもちゃんとした教師が派遣され、私はその教師のお手伝いを心楽しく続けられたらほんとに良いのにと心から思います。

日本人の日本語教師がたくさんモンゴルに来ること、そして、モンゴル人の教師が日本語教育検定試験に合格する人を一人でも増やす(現在ゼロ)ことが急務です。

建国800年のイベントにたくさんの日本人が来ることになるでしょう。
その中の一人でも、モンゴルの現状を知り、ボランティアをしたい人が生まれてくれるといいなぁ。

専門家のこのような報告会を傍聴するのは、初めてです。
SAVE THE CHILDRENのご縁で、出席しても失礼ではないだろうと判断し、来週手助けにきてくださることになった、友だちの留学生を伴って行きました。
とてもよい話に、彼女は「私たちって団塊の世代よね」と言っていました。彼女のような人が日本語教師になったら良いのにと思うのですが、少しは気持ちが動いたのかしら?それは、私の勝手な考えです。
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第23番中学校の外国語祭り

2006年04月03日 | ことば




ツェレンドルジ像とマンチョク         日本語グループによるお茶席      

 
   書道コーナー






今日は月曜日。マンチョクさんが来て日本語の会話を習っていく日です。
引越しして最初ですから、近くのツェレンドルジの石像の前で待ち合わせしました。
今日は、23番中学校の外国語祭りの案内を、隊員の日本語教師のHさんから頂きました。
23番中学校は、五カ国語(英語、ロシア語、韓国語、中国語、日本語)の特別学校です。それで、五ヶ国の外国語の祭りとして大々的に行なうことになったそうです。
23番学校は、先日、教室に見学に行かせてもらった学校です。
Hさんのサメ[トとして、日本人のK先生が個性的な授業をしていらっしゃったことが記憶に新しいのです。
この23番学校は、高知の学校への留学が長年続けられており、K先生は、そのお世話をしていらっしゃると聞きした。

Hさんは、私たちと同じ時期に来たので、UBに来て任期の半分が過ぎたところです。
学校側の突然の指示で行なうことになったとのことで、ずいぶん大変だったことでしょう。
彼女の授業風景は、私にとってとても参考になりました。
そして、日本語の発表の場として祭りを行なうわけですから、ぜひ、どのようなものなのか見たかったのです。

コンサートの前に各国の文化紹介があって、そのときに日本語グループは茶道を披露すると聞着ました。
間もなく日本に行くであろうマンチョクさんを連れて行くにはうってつけと思い、いつもの時間より30分前に約束をして、行きました。

場所は、学校ではなくて、労働組合中央文化会館でした。
入り口で、両側に生徒が制服、モンゴル、ロシア、韓国、中国、日本の民族衣装を着て並んで迎えてくれました。

会場の2階ロビーで、浴衣を着て生徒がお茶を立てて飲ませてくれまた。その茶道の指導は、SAVE THE CHILDRENに一緒に行っているKさんです。学校の用意したチョコレートのお菓子のほかに、Kさん手作りのきな粉の和菓子が準備されていました。(きな粉は、中国製ですがモンゴルにもありました!)

マンチョクさんも、モンゴル語で説明を受けながらお菓子を頂き、お茶を体験しました。
「お菓子はおいしかったけど、お茶は。。。」だそうです。

2時からのコンサートがいつまでも始まらず、一応ホールの椅子に座って会話の練習をしながら、待っていたのですが、待ちきれずにホールの外に出ました。
マンチョクさんは授業をこの後に控えているので、コンサートをあきらめ家にかえって会話の続きをしました。
「コンサートは見なくていいのか」と尋ねてくれているようでしたが、今日は、彼女との会話の日ですから、漫然と待って居るわけにも行かず、後ろ髪を引かれながら、会場を後にしました。

約束の時間まで、会話の練習をし、会場に聞きに来ていた知り合いにコンサートは?と携帯メールをしたら、「終わりました」とのことでした。
残念でした。

マンチョクさんは、どうやら他のモンゴル人に日本語を習っているといっていました。自分から、来週の時間を尋ねてきたので、私との会話の練習も必要なのだなと分かりました。
こんなとき、資格を持たない私は、気が引けるのです。。。
夫に笑われました。

思いっきり、日本語を浴びせるように聞かせるしか方法がないと思っています。
前回よりも、日本語をしゃべろうとする回数が増えているようですから、無駄ではないのでしょう。
忙しい時間を割いて練習に来る彼女に、効果的な日本語の会話を考えてあげたいのは山々なれど。。。
いかんせん私には、その知恵がなく、ごめんなさいです。

UBで活躍する日本語の教師をしている人たちに、知恵を頂きながら、よちよち歩きをして、子どもたちとマンチョクさんの笑顔とをエネルギーに、毎週毎週止めないで続けることなのですよね。

  ☆ ツェレンドルジは1521年に首相になった人だそうです ☆





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