とうさんの、叔母さんが亡くなった。
日曜日は、友引だから月曜日になるだろうと考えて、土曜日にゆっくり準備をするつもりだったんだけど、土曜日お通夜、日曜日告別式と土曜日の昼近くに連絡があった。
かあさんは、外出中。とうさんは袋に名前を書いておこうとしたときだった。
泡食って、父さんは一人でいろいろと連絡やら何やらやって、やっと飛行機に間に合ったらしい。
とうさん、えらいねぇ。かあさんにたよらないで、準備をしてでかけるなんて。
もっとも、前日にお金と包紙は準備してあったし、喪服はセットしてきまったところにかけてあるからね。
かあさんは、出先で携帯をチェックできる状態になったとき、留守電とメールと不在着信の表示を見て、早まったのを悟ったみたい。
留守電は、かあさんへのメッセージではなく、一緒に行くおじさんとのやり取りがすべて録音されてました。
きっと、かあさんに電話をかけようとしたときに、おじさんから電話があったんじゃないかな。良く携帯をオフにするのを忘れるとうさんだからね。
とうさんからのメールよりもそのおじさんへ語りかける言葉のほうが情報がたっぷり入っていて良くわかったみたい。(笑)
かあさんは、それから帰っても、とうさんは機上の人だから、ついでに後日の予定だった要件を済ませて、帰って来た。
かあさんの、この落ち着きぶりは、モンゴルに行く前との反応とはとっても違っている。
ウランバートルで、とうさんの同僚が殺された事件以来、人が亡くなるってことに対する反応を遮断するようになった。
だから、懐かしがったり泣いたり落ち込んだりしない。
年を重ねると、死を冷静に受け止められるようになるらしいけれど、その事件の後遺症とのダブルで感じなくなっているのなら、問題だ。
とうさんは、かあさんのこの反応をどう捕らえているのかな。
とうさんの方の親戚だから、もう少し何らかの感情があってもいいのじゃないかと感じているのかもしれないなぁ。
先月、近所の知り合いが亡くなったとき故人の友人と立ち話をしたときも、友人は泣きそうになっているのに、かあさんはちがったはんのうだったようだ。
人との感情の表現に落差があるって、誤解を生じるよね。
まして、喜びの感情ではないときはね。
そのほかの感情は、孫の誕生で復活したみたいで、今までと変わらなくみえるけどね。
かあさんは、不自由を感じていないだろうけど、周りの人のかあさんへの判断がかなり変わってくるよね。
ぼくは、外には一緒に行かないから、わからないけれど、時々心配になって母さんに寄り添ったりするんだけど。
(この写真は、おねえちゃんに寄り添っている写真だけど、かあさんに寄り添うときは、なぜか両手はこんな風にそろえてなくて左手が上で右手が5センチ以上下にずれてる。かあさんは、何故お姉ちゃんと手の位置が違うのか不思議がってる。僕だって良くわからないけど、自然とそうなるんだよ。)
多分、明るいかあさんのことだから、その辺、うまくやっているだろうけどね。
日曜日は、友引だから月曜日になるだろうと考えて、土曜日にゆっくり準備をするつもりだったんだけど、土曜日お通夜、日曜日告別式と土曜日の昼近くに連絡があった。
かあさんは、外出中。とうさんは袋に名前を書いておこうとしたときだった。
泡食って、父さんは一人でいろいろと連絡やら何やらやって、やっと飛行機に間に合ったらしい。
とうさん、えらいねぇ。かあさんにたよらないで、準備をしてでかけるなんて。
もっとも、前日にお金と包紙は準備してあったし、喪服はセットしてきまったところにかけてあるからね。
かあさんは、出先で携帯をチェックできる状態になったとき、留守電とメールと不在着信の表示を見て、早まったのを悟ったみたい。
留守電は、かあさんへのメッセージではなく、一緒に行くおじさんとのやり取りがすべて録音されてました。
きっと、かあさんに電話をかけようとしたときに、おじさんから電話があったんじゃないかな。良く携帯をオフにするのを忘れるとうさんだからね。
とうさんからのメールよりもそのおじさんへ語りかける言葉のほうが情報がたっぷり入っていて良くわかったみたい。(笑)
かあさんは、それから帰っても、とうさんは機上の人だから、ついでに後日の予定だった要件を済ませて、帰って来た。
かあさんの、この落ち着きぶりは、モンゴルに行く前との反応とはとっても違っている。
ウランバートルで、とうさんの同僚が殺された事件以来、人が亡くなるってことに対する反応を遮断するようになった。
だから、懐かしがったり泣いたり落ち込んだりしない。
年を重ねると、死を冷静に受け止められるようになるらしいけれど、その事件の後遺症とのダブルで感じなくなっているのなら、問題だ。
とうさんは、かあさんのこの反応をどう捕らえているのかな。
とうさんの方の親戚だから、もう少し何らかの感情があってもいいのじゃないかと感じているのかもしれないなぁ。
先月、近所の知り合いが亡くなったとき故人の友人と立ち話をしたときも、友人は泣きそうになっているのに、かあさんはちがったはんのうだったようだ。
人との感情の表現に落差があるって、誤解を生じるよね。
まして、喜びの感情ではないときはね。
そのほかの感情は、孫の誕生で復活したみたいで、今までと変わらなくみえるけどね。
かあさんは、不自由を感じていないだろうけど、周りの人のかあさんへの判断がかなり変わってくるよね。
ぼくは、外には一緒に行かないから、わからないけれど、時々心配になって母さんに寄り添ったりするんだけど。
(この写真は、おねえちゃんに寄り添っている写真だけど、かあさんに寄り添うときは、なぜか両手はこんな風にそろえてなくて左手が上で右手が5センチ以上下にずれてる。かあさんは、何故お姉ちゃんと手の位置が違うのか不思議がってる。僕だって良くわからないけど、自然とそうなるんだよ。)
多分、明るいかあさんのことだから、その辺、うまくやっているだろうけどね。