風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

空が青い

2016年07月31日 | 徒然に日々のことを








      いちばん大人時間の流れるところ。

今日は鴨の夫婦も母子もみえないなぁ。





子供時間の流れるはずの場所も、静か。








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狩りのシーズン

2016年07月30日 | こたろう
セミの声とともに、こたろうの狩猟本能が駆り立てられる時が来ました。

ちょっとしたコタロウ御用達のベランダに下りて来る総ての人生を終えたセミが、もう一仕事、こたろうのためにお付き合いしてくれるのです。
















こたろうも少し賢くなって、羽までは食しません。
柔らかいところだけ、食するようになりました。


そのあとは、涼しい場所を探して、お昼寝。





























今日の僕は、イケメンだと、母さんがシャッターを切りながら言ってたよ。
とても、人間でいえば80才とは思えないってね。ニャァ😺






今年は、こたろうさんは、夏バテ知らずで、食欲も旺盛で、助かります。
去年、ちょっと、元気がないときがありましたが、今年は大丈夫みたい。

閉め切った部屋での、お留守番が減ったことにも、理由があるのかもねぇ...





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夢松風7月2回目

2016年07月27日 | 詩吟
教室幹事の白一点さんが、珍しくお休みです。
女性ばかりの、夢青葉状態。なのですが、同じ女性ばかりの練習でも、雰囲気は違うものですねぇ。

男性だから、女性だからとの思い込みをやめようと思いました。
(あれ?なんだか前にも言った気がするけど、、、習い性と言うのは、変えられないって鼓太郎かなぁ。永遠のテーマだ。)


今日のお稽古は、今まで習った吟の復習を兼ねて、順番に出だしをして、全員合吟を続けました。

後輩さんは、習ってない吟が多かったので、ご苦労だったと思います。
参加人数と有資格者の多い教室では、連続吟詠も、支える側の人数が多いので、後輩さんにとっては、少しは楽なのではないでしょうか。

少人数で、のんびりの練習をしている小さい教室は、もしかしたら、無理を強いているのかもしれませんね。
教室で取り上げた吟詠のすべてを連続合吟と言うのは、毎回ではなく、何かの節目に行っているので、ちょっとした刺激として、受け止めていただくことにいたしましょう。


合吟の効用は、計り知れないものがあり、模範吟詠との音源を使っての合吟モドキでさえ、学ぶことがたくさんあります。
ただ、聞いているだけでは、わかったつもりになりがちですが、一緒に吟詠をして見ると、出来ると思っていたことができなかったり、間の取り方が全然間違っていたりします。
音源の毎回同じタイミングで、間の取り方を練習すると、自分との違いと思いこみがよくわかります。
仲間との合吟は、意識せずとも、合わせようとする気持ちになるので、自分の姿が見えてないところもあるように思えます。

どちらも、体験してみると面白いと思いました。

                            (7月30日加筆)



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公園のかも夫婦と猫

2016年07月26日 | 徒然に日々のことを
 


公園のかも夫婦、奥さんがエサをついばんでいる間は、旦那さんは、首を高くあげて、周りを警戒している。









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新越谷論語素読の会

2016年07月25日 | 論語と





中江藤樹が、伝えようとした「明徳」と言う最高の宝は、この詩にある堯帝の治世にあった。

今日の論語の素読は、「堯日第二十」です。
 今月の吟詠として、中江藤樹が思いをはせた堯民を題材した、この詩を選んで、下さいました。

今日は、尺八の先生も参加していらっしゃるので、論語仲間の吟友が尺八の伴奏で、「戊子の夏諸生と月を見て偶成る」を吟じてくださいました。

須藤先生の、論語の素読と解説に、こよなく愛する吟詠とを組み合わせた今日の講座です。


諸生たちは、清々しい風に吹かれ、月の輝く世俗を離れたこの場に、仲間とひざを交えて時も忘れて語り合う様子を、堯帝の安泰な治世のように思われた。


私たちも、どんなところにいても、平和な世の中のおかげで、朋友とともに、膝を交え、時に酒を酌み交わして、語り合うことがあります。

また、須藤先生とも、講座の始まる前の一時を、先生の言葉に耳を傾け、目を輝かせる。

平和で安泰な世であってこその、この楽しみが、損なわれることのないように。



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東京芦孝会7月中央会

2016年07月24日 | 詩吟
会員さんの昇段申請書を携えて、中央会へ。

今日のトピックは、学生吟出身者の若い男性の来会です。

野田 芦孝先生と東京芦孝会のウエルカム精神である、「どなたもこだわらず、いらっしゃい」「喜んで、お迎えいたします」「お気にめすまま、お気に召すまで、共に精進いたしましょう」のシステムで、こちらに籍を移さないまま、自由に関吟の会員であることを謳歌できます。

彼の大阪での指導者に当たる先生も、そのシステムで、東京で参加なさったことがあり、その二代目と言っていいのでしょうか。

なるべく長く、こちらにいて、存分に暴れてくださいませ。


私の詩吟へのモチベーションは、「学生吟」と言うキーワードで、否が応でも上がりっぱなし。

おかげで、私自身が、納得できる吟詠ができました。
五言絶句で、初見の吟詠が、あれくらいできたら、申し分ないなぁ。
一人悦に入り、並み居る猛者連の、絶品の吟詠にも拘わらず、「今日の吟はよかったでしょう。」と、厚顔にも言ってしまいました。


この自信たるや、どこから来るのか。学生の時の、女子、短大というハンデと蔑視に堪えつつ、四大男子のお兄さんがたの、迫力ある吟詠に、感動をうけ、まぁ、この扱いも仕方ないねぇとため息をつき続けていたことによるものかもしれません。

熊に立ち向かう白いキャンキャンスピッツではなく、せめて、勇敢な黒柴くらいにはねぇ。。。
なりたいねぇ。。。


なんだかいろんなものが、解消された今日の、吟詠でした。

此のモチベーションがいつでも出せるなら、いつでもどこでも、独吟をするのだけど。
意気地なしの怠け者ここにあり。


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アロマ

2016年07月23日 | 体を整える
7月5日から、アロマペンダントにパルブランを入れて使い始めて、今日で、19日経過しました。



破裂音のしない頭ではありましたが、何か重い感じがあったのですが、今朝は、爽快です。
ふと気が付くと、ペンダントをするのも忘れています。

きょう1日、無しで、過ごせるでしょうか。


先日、通りすがりのアロマのお店に入ってみました。
単一のローズマリーカンファーの香りは、どんなものか、嗅がせてもらいました。

ちょっと、これを一日あるいは、最小でも二時間、嗅ぎ続けているのは、少々つらいなぁと思える香りでした。

愛用のパルファンは、ローズマリーのほかのアロマを調合してあり、おしゃれ心をくすぐる心地よい香りになっているだなぁと、知る。

それでも、愛用化粧品会社が子のパルファンを発売したばかりの時、瓶からプッシュして直接香りをかいだ時は、5種類の香りの中で、好きな順の5番手の香りでした。

それ以来、その香りの好感度の位置づけは変わりませんが、今回、使用してみて、後立ちの香りが、とても良いことに気が付いて、気を良くしています。

このアロマは、一般的には、気持ちを穏やかにしてくれるとの説明でした。

ローズマリーカンファーは、健康番組では痴呆の予防に聞くとの説明で、脳の活性化をすると受け取ってしまいましたが、本当のところは、どうなのでしょう。

パルブランは、脳のとげとげを取って穏やかにしてくれるものだったのですねぇ。


治療目的ではなく、心地よさを追求して化粧品の会社が製造しているこのパルファンは、こだわりなく自由に、能書きではなく自身の感性で、使えばよいのですね。

おかげで、今朝の夏を忘れたような爽やかな日に、何の手助けもなく、心地よくしていられる幸せを満喫ています。

この心地よさは、こだわりを捨て去る効果があります。

特にこの数か月の間は、「パン!パン!」により、かなり、いらついていたのかもしれません。
もし、音が帰ってきたら、アロマペンダントに入れたパルブランに頼みましょう。

あ、そういえば、一瞬意識が遠のくような感覚も、無くなっているなぁ。

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青葉その2

2016年07月22日 | 詩吟
新しい目玉につづいて、もう一つ、試みたことは、白文をお渡しして、聞いた吟の譜をメモして、そのメモを見て吟じられるかどうかを想像しながら、書いてもらいました。
今日は、吟じてもらうところまでは、行いませんでしたが、如何に、いい加減に聞いていたかがわかりましたとの、コメントをもらいました。



昔は、立派なテキストもなく、ガリ版刷りあるいは青焼きのこぴーで、詩吟を習っていました。

その紙には、一般的な譜が書いてあるだけで、「レ点」「一 二」などはなく〈と、思う)三角印もないものでした。

指導の先生の吟詠を聞いて、必至で、自分なりのテキストを作り上げたものです。

それが、今では、とても良い訓練となったと思っています。

先生の、特徴の色濃く出た、私にしかわからない書き込み、ときには、自身でさえ何の意味だったのか分からない書き込みもありました。
次週のお稽古まで、確かめるのはお預けです。
なにしろ、音を、紙の上に、狭い行間に覚えが気をするのですから、書きすぎても、省略しても、いけません。

そして、次週のお稽古で、再確認したら、とんでもない書き込みになっていたり、、、


初心者の頃は、てんやわんや。


ただ、その前の学生の時は、習ったらすぐに先輩と合吟を何十回となくかさねましたから、メモは頼らず、先輩の声を頼りに体で動物的に覚えていました。


卒業後、鷺照先生の教場へ行くようになったら、先輩との重ねての合吟がないのですから、上に書いたような作業が必要になるのです。

よく頑張ったねぇ。テキストもレコーダーもないころの話。

副読本出現によって、その動物的な感が失われてしまったように思う。

そして、先生の吟を色濃く残した吟詠が、なかなか、聞けないねぇ。

今日のこの試みは、ただの郷愁だったのかしら。



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夢青葉7月2回目

2016年07月22日 | 詩吟
4人参加、一人は体調の悪いのを押して、参加です。


発声練習は、コンダクターのみで、先導の私の声無で、こころみました。

肉声の先導がないのは、ちょっと苦労したのですが、だんだんに慣れてきて、自分の音を出してきました。
先導の肉声があると、出だしは、楽ですねぇ。

そして、今日は、わたしも生徒になって、新しい詩を習うことになりました。
その立場になってみて、先生の模範の後の最初のことばの音程を捕えて一声を出すのに、苦労をしたことを思いだしました。

音程の取り方について、一考を要することに気づき、今まで問題のなかったのに、気になることが出てきたのは、他に頼りすぎていたことに、気づきました。それぞれが、それぞれの個性でよいのですが、それぞれの自信を持つには、どのようにすればよいか、テーマが加わりました。


発声練習で、気になる「お」と「う」に着目しました。
特に「お」の口の形、そして、口の中の形を、良き先輩がアドバイスしてくれました。

具体的なアドバイスに、たちまち、クリアな「お」が発声されて、今日は、「これができただけで、もう十分練習終了!」などと言う、下手な冗談を繰り出してしまいました。



今日の目玉は、新しい課題を、指導資格のある先輩の指導のもとに、おこないました。
事前のメールで詩の意味をまず伝えたのは、好評で、詩に入りやすかったとの意見があり、好スタートを切りました。


新しい刺激が、加わって、また、後輩会員さんの昇格への意識づけになったか、重荷になったか。
どちらでしょう。


今までの流れを変えずに、淡々と練習を続けるのが良いのか、昇格について、意識づけをした方が良いのか、散々迷いましたが、おなじ、足取りで進んでいる少人数のメンバーですから、却って、淡々と同じ練習を続けることのほうが、私には、難しいように思えます。


その、きっかけに、年は若くても、指導資格のある先輩に、指導してもらいました。
このことは、去年から、考えていたことですが、やっと、実現しました。

6年目の年上の後輩さんは、こんな試みを違和感なく受け入れてくださいました。
私には、無いところを駆使し、後輩さんへのよい刺激ともなったと思います。

青葉のメンバーのすごいところは、詩吟の先輩、人生の先輩というところをきっちりとわきまえて、軋轢がないところです。


先日、東大島教室へ参加した時も、三人のとても良い雰囲気が、好感をもって受け入れられたと、その場に参加していた会員さんから、お聞きしました。
そして、野田 芦孝先生はじめ諸先輩方からも、厚遇していただいたことも聞きおよび、ありがたいことと思います。
これは、三人そろって、青葉から初めての練習参加だったからでもあると思います。

このことに関しては、私は、どのように、思いを伝えて良いやら、その日の教室にいらっしゃったと思われる方々に、おりにふれ、「ありがとうございました」と、申し上げることしか、思いつかないのです。

三人とも、愛されキャラであることは確かなので、どこに行っても、それぞれの個性で、可愛がって引き立ててもらえそうです。

みんながんばれ!そして、今後とも、よろしくお願いいたします。



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論語講座

2016年07月21日 | 論語と
楽学の会主宰の論語講座三日目

「辞はたっするのみ」

相手に届くことが一番大事なことなのだけれど、どうしても、伝えたいことを言葉にし、伝わらないともがいてしまう。

相手に届くためには、相手をよく知ること、私を知ってもらうことではない。

私を知ってもらいたいと思っているわけではないと思いつつ、私を、私の言葉を押し付けているわけで、毎回、どこまで届いたのか、届かなかったのかが、気になる。

届いたと思っても、また、するりと抜け落ちていて、ちゃんと受け取ってよと、咎めたくなるのを、あ、いやいや、届け方が間違っていたのだと思いなおす。

そして、やはり、届け方を考える前に、相手をよく知ってその方法を考えることと、反省。


反省が、着実に実っているかと言うと、同じところで、間違いを犯してしまうのは、おそらく相手のことを知るための、ベースとなるものが、私でしかないから、また、同じ間違いを犯しているのだ。


        「辞はたっするのみ」


孔子の言葉は、短いなぁ。その言葉の深淵は計り知れず、その淵にやっと届こうとしている私には、単語が、頭の中で、踊るだけだ。
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