新しい目玉につづいて、もう一つ、試みたことは、白文をお渡しして、聞いた吟の譜をメモして、そのメモを見て吟じられるかどうかを想像しながら、書いてもらいました。
今日は、吟じてもらうところまでは、行いませんでしたが、如何に、いい加減に聞いていたかがわかりましたとの、コメントをもらいました。
昔は、立派なテキストもなく、ガリ版刷りあるいは青焼きのこぴーで、詩吟を習っていました。
その紙には、一般的な譜が書いてあるだけで、「レ点」「一 二」などはなく〈と、思う)三角印もないものでした。
指導の先生の吟詠を聞いて、必至で、自分なりのテキストを作り上げたものです。
それが、今では、とても良い訓練となったと思っています。
先生の、特徴の色濃く出た、私にしかわからない書き込み、ときには、自身でさえ何の意味だったのか分からない書き込みもありました。
次週のお稽古まで、確かめるのはお預けです。
なにしろ、音を、紙の上に、狭い行間に覚えが気をするのですから、書きすぎても、省略しても、いけません。
そして、次週のお稽古で、再確認したら、とんでもない書き込みになっていたり、、、
初心者の頃は、てんやわんや。
ただ、その前の学生の時は、習ったらすぐに先輩と合吟を何十回となくかさねましたから、メモは頼らず、先輩の声を頼りに体で動物的に覚えていました。
卒業後、鷺照先生の教場へ行くようになったら、先輩との重ねての合吟がないのですから、上に書いたような作業が必要になるのです。
よく頑張ったねぇ。テキストもレコーダーもないころの話。
副読本出現によって、その動物的な感が失われてしまったように思う。
そして、先生の吟を色濃く残した吟詠が、なかなか、聞けないねぇ。
今日のこの試みは、ただの郷愁だったのかしら。