風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

モンゴルの話

2024年05月16日 | モンゴルについて
茶飲み話に久しぶりでモンゴルの話をする。
その周辺に旅行した人は,やはりトイレ問題に悩んだらしく,なぜか話題が
そちらに向いた。
私のその問題は,ぶっ飛びすぎていて,悩むことなどなかった。
中途半端だから,悩むのよね。
草原に行くと,何もないのだから。
隠してくれるのは,大地の起伏だけ。
草原といえど,体を隠してくれるほどの草むらは,いっさいない。
かえって爽快ですらあった。

テレビでモンゴルの映像を見ていたから,私の話がよくわかったと言う。

そして、フロントガラスに大粒の雨が叩きつけられたのに、ドアを開けて外に
出たら,帽子に雨は降ったけど,肩先からは,雨が空中にとけこんでなくなっていくので濡れなかった話は理解してもらえなかった。

コメント

あの事件

2014年12月28日 | モンゴルについて
あの事件について、北海道の内田さんが、北海道民放クラブのHPに、書いていました。

あの事件とは、『 会員寄稿文 「草原の放送局」 内田 昭憲2011年5月~2014年8月掲載 』に掲載されています。


これを知ったのは、年賀状を読み返していたら、内田ご夫妻から来た賀状を手にして知ったのです。
忘れていたというより、知らなかったことにしたかったというのが、その時の私の心模様だと思います。

今日になって、文字をちゃんと感知し、さっそくHP検索をして、記事もすんなりと読み通せたので、私のモンゴルとの格闘は終わったなぁと、大げさでなく感じました。


そして、今日、ウランバートルで、その時もご一緒だった方が、再び日本語教師として、再訪されたニュースが届きました。
さらにダメ押しで、キーワードに対する忌避感がなくて、ごく普通な反応をしていました。

内田さんの記事をきっかけに、さらに明るく軽やかになっているのを発見。

そして、不思議なことに、この8年間、オルティンドーへの忌避感がなかったことに、気づきました。なんでだろうねぇ。

忌避感を抱いていたのは、幻だったのか、はたまた、ほかの理由だったのか。
いずれにしても、負の感情が一掃されたことに、乾杯だ。


チンゲル亭は、いま、こんな様子なんだろうなぁ。マイナス15度からマイナス20度くらいだろう。
歩くのは、15分くらいまで、口で息をすると肺が凍るので、マフラーでぐるぐる巻きにして、必ず鼻で呼吸をしたよねぇ。雪が積もらないから、道路はアイスバーンだ。
歩くとペンギン歩きになったよねぇ。
懐かしく思いだすことができた。


コメント

オルティンドー

2010年04月06日 | モンゴルについて
3日は、映画とライブとモンゴルの友のモンゴルデーでした。

その、オルティンドーとほーみーと馬頭琴の生演奏は、オルティンドーの女性歌手二人はマイク無し、馬頭琴とホーミーはマイクありという珍しいくみあわせですが、マイク有り無しが、感じられないほどでした。

小さな会場で、マイクは無しでもOKの広さでしたが、そのような組み合わせにしたのは、細かい考えはわかりませんが、それでよかったのです。

詩吟と同じで、地声ですから、マイク無しでも基本的にはなんら遜色は無いのです。

特にわが師、三枝綾子のこえは、たっぷりの清涼と豊かな響きがあって、マイク無しの選択はまったく持って正しいと思いました。

モンゴル民族の伝統券\と、日本民族の伝統券\と、その長く声を引く発声は、会い通じるところがあって、聴いていて楽しい。
詩吟のよさを再確認もする。
コメント

チャンドマニ

2010年04月03日 | モンゴルについて
ホーミーの故郷

映画チャンドマニ〜モンゴル ホーミーの源流へ〜


渋谷駅で待ち合わせたのはTさん。
先日このブログがあったおかげで、音信不通だったモンゴルの女性と連絡が取れたのはつい最近のこと。

整理券を受け取り、始まるまでその建物の中のレストランでお昼を食べながら、積もる話をしました。
そして、1時「チャンドマニ」のスタート。

モンゴルの懐かしい景色が、奥行きも広さもよく撮ってあり、言ったことの無い人にも創造できそう。

オルティンドーを習っていたトメン・エヒの懐かしい赤い扉、薄暗い客席、古いピアノ、先生だった歌手のビャンバジャルガルのオーハエ(発声練習のことば)が聞こえ、別のシーンでも、オルティンドーの歌声がきこえた。
残念ながら、映像には出てこなかったけど。

ホーミー、民族舞踊、オルティンドーの劇場の練習風景が移され、毎週通っていたあの場所ではあんなことが行われていたのかと、今頃になって映像で見せてもらった。

ホーミーの歌手をしている男性と、親がホーミーの歌手だった男性が、くしくも同じマイクロバス(モンゴルではミクロという)にのりこんで、2日がかりで、ウランバートルからチャンドマニへと向かう。
その社中での、見知らぬもの同士の心の交流が、うんうんそうだろうなぁと描かれていた。

私たちは、ミクロでの長旅はしなかったから、でも、大学のバスの日帰り旅で、同じような事が行われ交流があったから。

二人の男性は、ミクロで乗り合わせたけれど、お互いホーミーのことは会話に出さな買ったのだが、きっとホーミーをしに帰ってきたと感じているところが、モンゴルなのかなぁ。

あちらに住んでいる間は、よく「モンゴルには、守り神が身近にいて、望みをかなえる力を与えてくれている」と、感じることがよくあった。

それがかなえられてみると、日ごろ一番やりたいことと思っていたことではなく、一番やりたかったけど、思いの表面に浮かんでいなかったことだったりするのだった。
でも、実現してみると、これが一番だったのかもと、実感するのだった。


そんな守り神の援助を、日本では、受け取る力を失っている人がいっぱい居る。
モンゴルは、そんな不思議な思いを、確信するようなことが起こった。


去年から留学していたTさんは、何かの調べ物をしていて「風のこたろう」にであったそうだ。
続けていてよかったなぁ。

きっと彼女は、半分は退屈だっただろうけれど、コンサート最後の昇る朝日は、口ずさんでいたようだった。




馬頭琴のバトオチルさんの力はすごいなぁ。
馬頭琴で、いつもおどろくのは、独奏者としても腕があるのに、オルティンドーの伴奏をすることだ。
そして、暖かく強く包み込みながら、オルティンドーの邪魔を決してしないこと。
歌手の気持ちをほぐし、最大の力を発揮させることが出来る。

そして、他の共演者に対しても、競いながら競わず、暖かく見守る。
まるで、理想の父親像そのままだ。


モンゴルでも若者は、伝統券\から心が離れがちですが、こんなちゃんすにモンゴルのことを思い返し、大切に思う気持ちが芽生えたら、とってもよいなぁ。

しかし、会場を見回してもモンゴル人らしい人は居なかった。
おなじモンゴロイドをしているから、モンゴル人の彼女にも東京ですんでいるモンゴル人の見分けはつかないことが多いというから、居たのかもしれない。

主演の男性は、彼女の同級生だということだった。なんという偶然。

土曜の午後半日を、モンゴル色一色ですごしたのでした。

コメント

馬頭琴奏者

2006年11月20日 | モンゴルについて



18日に、近くのゲルレストランへ行きました。
食事をしながら、モンゴルの伝統的なコンサートをしてくれるとのことで、楽しみにしていました。

食事は、モンゴル料理のコースで、オードブル、スープ、肉料理はボーズ、ホーショール、バンシが盛り合わせになっていました。
肉は、外人向けに羊ではなく牛肉でした。最後にデザート。
ホーショールは、脂べたべたではなくて、さっぱりとした仕上がりでした。

何度か演奏会やトメンエヘで見たことの有るモンゴルの演奏風景ですが、小さい部屋で私たちだけのために演奏してもらうのは、とても落ち着いて音楽に溶け込めました。

ほどほどにおいしい料理と、楽しい会話と音楽を楽しんだ後、ほんの数十歩で家に帰り着ける安心感と満足感がありました。

今日になって、写真を整理していて、またうれしいことを見つけました。

馬頭琴の奏者の真剣なまなざしです。
オルティンドーやホーミーを聞いているときは、歌手に目と耳が集中して気がつかなかったことです。

馬頭琴の奏者は、優秀な伴奏者でなくてはなりません。
始めて聞いた曲でも即興で伴奏がつけられるのがプロです。
外国人向けのいつもの曲でいつものように弾いているはずの今日のような日でも、これだけ真剣なまなざしで、歌手の歌を聞いているとは思いもよりませんでした。

そういえば、先生に聞いたことが有りました。
オルティンドーは、同じ曲でもその日の気分や体調で長くなったり短くしたりがあると聞きました。おそらくホーミーも同じなのでしょう。
主導権は、当然歌手にありますから、その変化をよく聞き分けて、唄を引き立てる伴奏をするのが馬頭琴奏者の務めです。

自分たちの楽器だけの演奏のときの伸びやかな表情と打って変わった真剣な顔を、夫は良くぞ撮っていてくれていました。
暗い場所の撮影は、私のカメラではできないので、その日は夫のカメラの出番でしたから。
モンゴル人もこんな真剣な表情をすることがあるのだと、失礼ながら思ってしまいました。

今日の、オルティンドー歌手はちょっと気取りすぎ。
馬頭琴奏者は、写真のほうがハンサム。(^^♪
コメント

専業主婦

2006年10月19日 | モンゴルについて
モンゴルに居て、主婦の習い事は、とても贅沢なことです。
健康で普通に能力が有れば、何かの形で働いているか学生をしているのです。

自己紹介をして、「夫がUBで仕事をしています。」と言うと、日本ではそれで、完了ですが、こちらでは、「それで、あなたは何の仕事をしていますか?何が専門ですか?」と必ず聞かれます。
主婦ですと言うと、何だと言う顔をされます。
次に、オルティンドーを習っていますと言うと、「日本で歌手をしていた」のですかと尋ねられます。

夫に養われ、かつ、オルティンドーを習っているが、歌手ではないと言う私の生活は、UBの知識人にとって、わけの分からないもののようです。

モンゴル滞在合計3年になろうとしているこのごろ、自己紹介のとき、とても楽しそうに、誇らしげに「ゲリンエゼグテイ(主婦)」と言うことにしました。
そして、夫の顔を見て笑顔を見せる。
それは、夫の印象を「仕事のできない無能な女を妻にしている○○さん」であるとさせないためです。
夫の、仕事場は大学ですから、ご夫妻とも教授、あるいは片や研究者という方が多く、それがステイタスのように見受けられます。
夫は、何も頑張る必要は無いと言ってくれるのですが、私はちょっと悔しいので、紆余曲折の結果、普通の顔で主婦ですと言うと、がっかりされるので、誇らしげ(と私が思う顔、相手はどううけとっているかわかりません)にしていると、ほぅ!と言うのです。
これで、夫の株が上がったと思う私は、単純かなぁ。。。(^^♪
要するに、ええかっこしいの私でありました。



コメント

毎回いくこと

2006年06月03日 | モンゴルについて
先週、乗馬用の馬を借りているゲルの牧民さんが、新品のオートバイを買って街から乗って帰ってきました。
その噂を聞いて、近くの若い牧民さんがいつもに無く集まって、うらやましげに眺めていました。

オートバイの持ち主は、それは得意げで、子どものように喜んで、日ごろは浮「くらいの人も、うきうき気分が伝わってくるくらいでした。
さしずめ、日本人がボルシェを買った気分とでも言えば良いのでしょうか。

春さんの説明によれば、春さんが毎週のように連れてくるお客さんの馬の使用料を賢いおかみさんが貯めていて、買ったはずだと。

1回にすれば、安いと思われる使用料も毎回そして通年続けられると莫大なお金になるということを彼は学んだはずだ。
そして、周りの牧民さんも、新品のオートバイの出現によって、それを学んだはずと言いました。

長い長い、だまされてきた歴史が牧民さんに染み付いていて、来週も来るから、続けてくるからと言う約束は端から信じなかったそうです。

モンゴルの観光シーズンは、3ヶ月。その期間に、思いっきり馬を痛めつけながら、可能な限りの収入を得るか。
それとも、通年通ってくる人に、馬をいたわりながら安い使用料で貸すか。

両方を、上手に選べば、収入も上がるし、馬も痛めつけずにすむのになぁと、馬の好きな彼はため息。。。


コメント

chingeltei

2006年05月22日 | モンゴルについて
 半年の休憩期間を置いて2年近くの間親しんできた「チ○○ル亭」の名前がなくなることは、考えたら、そうなんですねぇ。
自分勝手に書き散らしてきたことを、気持ちを込めて読んでいただいていたことを知り、そして、最初のページから「チ○○ル亭」の文字がなくなることで寂しいと感じてくださる方がいらっしゃったことに、喜ぶと言うより驚いています。

チ○○ルテイ地区に住んでいるから、チ○○ル亭と名づけたのですが、2年も使い続けていると《私の住んでいるチ○○ル亭》になっていたのかなぁと、お友だちのメールから感じました。
それで、今頃になって、止めることはなかったかなぁとちらりと思ったことでした。

おと年、HPを始めるにあたって、チ○○ル亭の名前を思いついたとき、なかなかのものだと、一人悦に入っていたのです。(笑)

フブスグルの、人っ子一人居ない、物音一つしない風景の中に置かれたとき、却って心豊かに一人ではないと感じられたこと。

チンゲル亭にいて、ボクト山を望み、庭の緑を見つつ、イフトイローからの騒がしい呼び声と車の騒音の中にいて、訳もなく孤独感や焦燥感に襲われたこと。

モンゴル人なんてこんなものと、あきらめて慣れようと努力していた毎日。

そして、環境を変える事によって、そうではない人もいることに気がつき、うれしくなって見たり。

レンガのアパートに取り囲まれ、自然と言えば四つある窓の一つからやっと斜めの方向ににボクト山が少しだけ見える住まいなのに、落ち着いていられることに不思議がりながら満足したり。

思えば、チ○○ル亭便りのHPは、毎回驚きの連続で「!」ばかりでした。
あの、新鮮な感動は、今思い出すと必死の形相でいたにもかかわらず、こっけいで、読み物のように自分でも楽しめます。

今のブログは、内面ははらはらしながらも落ち着いて書こうとしている、ちょっとUB生活の面では成長した(?)自分を見て、笑っています。

これも、読んでくださっている人がいるからなんでしょうね。
          マッシ バヤッララー(超 サンキュー)

コメント

約束

2006年03月27日 | モンゴルについて
アーァ、残念。
自分の不手際でおきたことですが、モンゴルでの約束ごとについては、こうなんだよねぇ。。。

今日は、2時に来客のある日です。

今日から引越し荷物の箱詰めをはじめました。
いつの間にか一生懸命になっていて、気が付いたら、2時10分過ぎ。
マンチョクさんは、時間より早いくらいに来る人です。
15分から30分遅れは許容範囲という中で、きちんと時間を守る人です。

あっと思って、ベランダから下を除いてみましたが、居るはずもありません。ブザーが二つあって、一つは音が小さいのです。
奥の部屋に居たので、聞こえなかったようです。そのときは、もう一つの方を押してくれるかなと思ったのですが。。。
夫の通訳さんに、電話をして尋ねてもらいました。

「ブザーを押しても出てこなかったので、留守だと思って帰ってしまったそうです。今から行きます。」
悪いことをしたなと思って待っていると、折り返し通訳さんから電話がかかって、「3時から授業が入ったので、今日はいけません。」
とのことでした。

モンゴル人は、ブザーを押して出てこなかったら、キャンセルと思う。
キャンセルするほうもされるほうも、仕方がないと思うのです。
ですから、電話番号を教えてあげていても、確認をするということはしないようです。
わざわざ、確認するのは申し訳ないと思うのかもしれません。
これから日本に行こうとしているマンチョクさんですから、日本人は、若し都合が悪くなったら、必ず事前に連絡をするということをわかってもらう必要があると、痛く感じたことでした。
コメント

知らなかった

2006年03月24日 | モンゴルについて
第11回スピーチコンテストがモンゴル日本センターで行なわれたそうです。
日本大使館、日本語教師会、モンゴル・日本センター主催
優勝は科学技術大学4年生のバヤルジャルガルさん
2位 国立大学2年生 オノンさん
3位 科学技術大学4年生 ムンフツェツェグさん

課題テーマは、「歴史と未来とひと」
参加申請者108人中、筆記試験に合格した72人から最終本線に残った10人が5分間のスピーチをして競った。

最初に市橋日本大使が挨拶した。
修了後の講評は、審査委員長の村上日本語教育専門家が行い、「今年はモンゴル建国800年なので、テーマを歴史にしたが少し難しかったようだ。しかし、上位者はテーマを自分に引き寄せ、具体的に語ってりっぱでした。」評した
。    =モンゴル通信 第69号より=

科学技術大学の学生さんがスピーチコンテストに出るということは聞いていたのですが、まだ日程が決まっていないときでした。
日にちが決まったら教えてくださいとお願いしていたのですが、うっかり確認するのを忘れていたら、今日になってモンゴル通信を手にしてはじめて終わってしまっていたことが分かりました。

残念。
こんなこといつも有る。「教えてね」「はい」
それで、安心していてはいけない、何度もその「はい」に裏切られているのだけれど。。。

夫によると、知り得た情報は自分だけのものという考え方なのだそうです。
教授でさえ、会議などに出席した内容を尋ねなければ教えようとしないし、出席したことさえ知らないことが多いと。

しかし、日本語スピーチコンテストについては、日本語教師さえ知らなかったという事実を聞いて、必要な情報の伝わらないことおびただしいと実感します。
なんだかとても残念。



コメント