風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

ザザ

2005年09月30日 | チンゲル亭裏日記

昨日、生後半年くらいの雌猫のザザがうちに来ました。

もっぱら、ハエが遊び相手です。
あの、ハエの動きについていって、捕まえ、果ては食べてしまう敏捷さに感心します。
次は、ジャガイモを見つけて家中を転がして回ります。
フローリングをとてもよく転がる極小のジャガイモは、遊び相手というより獲物そのものです。
動きが早すぎて、私の腕では動きを追うことが出来ず、写真が撮れません。

レースのカーテンの向こうの出窓に飛び移ろうとして、どてっと落ちたり、フローリングの床を滑りながら急カーブを切っているところ、長い尻尾のしなやかな表情のある動きなど、見ていて飽きません。

餌はソーセージをメインに、サヨリの干物(韓国食材店に大体は置いてあるのですが、私たちにとってもごちそう)を小さく切って、ご褒美にしました。
鼓太郎にご褒美の煮干をあげるように、サヨリは小さなプラスチック容器に入れ、カシャカシャと音を立ててから、名前を呼び「おいでー」といってから、食べさせます。

名前をつけてもらってなかったので、私たちでザザと勝手に名づけました。
サヨリが大好物と分かってから、上の方法を取ると、一回で名前を覚えました。

そして、何よりも、急いで居場所を探さねばならないとき、とても助かるからです。
名前を呼ばれて振り返るという動作は、飼い猫ならではのことです。
そして、私たちは振り返ってくれると、可愛さが増すのです。

娘の小さい頃の写真を見て、いとおしさという感情をを思い出したように、ザザの幼い動きや、眠っているときのおなかの動きを見て、いとおしさとはこんな感じだったなぁとまた、さらに思い出すのです。

この小さな命が、モンゴルという過酷な環境に産み落とされ、運良く日本人に拾われて、飼われることになったことは、奇跡とも言える千載一遇のチャンスだったのです。
どのような親から生まれ、その親の境遇はどのようなものだったのだろうと、不思議な思いを持って想像します。

親は、もしかしたら人に飼われていたのかもしれません。
というのは、ザザはあまりに人懐っこく、穏やかで、優しいくあどけないものですから。

縁があって、頼まれて1ヶ月ほど預かるのですが、情を移さないように、可愛がり過ぎないように、冷静にがんばっています。
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鼓太郎似のザザ

2005年09月29日 | チンゲル亭


 ザザでーす。
 一ヶ月間、お邪魔しまーす。
 よろしくね。



 尻尾が長いのです。



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キャンセル2回目、おかげでボーズの夕食

2005年09月28日 | チンゲル亭裏日記

すごいすごい、ちゃんと事前に連絡が来た。
オルティンドーの先生、2回目のキャンセルが来た。
しかも、約束時間の1時間余り前。
社長の交代があり、その会議があるため約束の時間には終わりそうも無い。
といって、チョカさんに練習中止の連絡が来た。
去年だったら、待ちぼうけのパターンだからだ。
すごい進歩だ。キャンセルされて、喜んでいる私。

次は、あさっての金曜日に練習の予定が入りました。
3度目の正直となりますように。

そんなわけで、ボーズを作ることになる。
気まぐれで買った馬肉が、チョカさんのおかげで古くならないうちに料理されることになった。

日本人のことを良く知っているチョカさんは、ちゃんと脂身を取り除いて、赤みだけを刻んで準備してくれました。
たまねぎとキャベツをほんの少し混ぜて、塩、コショーで味付け。
例のごとく蛇口から直接水を入れてこねるものだから、どのくらいの水が入ったのか分からない。
小学生から手伝っているというチョカさんの手際は、流れるようにスムーズ。
結婚してからやっとご飯を作り出した私とは比べ物にならない。
ふんふん、あの堅さに粉を練るのね。
あっという間に、餃子の皮を作って、ちょちょいと肉を包む。
アー、またしてもだ。
こんなにスムーズに、あっという間につくられると、日本語の練習にも何にもなりはしない。
私も、後で読んでもちっとも分からない料理メモが出来上がった。

おっかなびっくりの馬肉初体験は、夫もさっぱりとしているねぇと大喜び。
しかし、モンゴル人には、物足りない味だねぇ。
皮が残ったので、具を作り足すときにたっぷり脂身を入れたものをつくり、チョカさんに食べてもらった。
肉だけでは片寄るからと、キャベツのサラダがつけられた。
きゅうり、トマトを切り終えたとき、垂謔閭}ヨネーズが合いますね。とチョカさんの一言。
切る間中、私たちはマヨネーズと垂フ話をし続けていました。
その、マヨネーズと結論したのは、私たちの議論からではなく、包丁と野菜と彼女の白いきれいな指が会話して決まったように感じました。

6人きょうだいの末っ子のチョカさんと、5人きょうだいの末っ子の私との、なんとも、のんびりとした料理風景でした。
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SAVE THE CHILDREN

2005年09月27日 | チンゲル亭裏日記

ーボディーガードをつけるかどうかについてー
来年日本に留学する息子のため、日本語を教えてくれる人を探していました。同僚の夫に誰か居ないかと依頼が来たのです。
ちょうど、ゲル地区に行くことについて、私の気持ちを傷つけずに誰かモンゴル人をつけることを提案したかった夫にとっては、渡りに船でした。
彼は、机に向かっての勉強や文法には興味がないらしいのが分かって、余計うってつけと考えたのです。
今、彼が答えを出すのを待っているところです。

ーゲル地区についてー
ゲル地区に、出向くについては、私は軽く考えていたのです。
物騒な地区とは聞いていましたが、その施設に入ってしまえば何の問題も無いと思っていたのです。
明るい時間にしか出かけませんから、自力でタクシーで行きます、と答えたのです。
日本センターの方は、信頼できるタクシーを捜したほうが良いとおっしゃり、夫は、彼に日常会話を覚えさせるために、私に貼り付けようと考えているし。
ゲル地区に足を踏み入れるについては、緊張が走るらしいのです。
そういえば、施設の職員のモギーさんが、はじめのうちは迎えに行きますとおっしゃったのは、そういうことだったのか。

ー日本語を子供たちとはなすことについてー
「日本語を話せることが特殊技能」とおっしゃっていた村上さんも、つらい事もあるかもとさりげなくおっしゃっていたし。。。
子供たちの手助けをするという私にとっては甘いキャンディーの中に、唐辛子かわさびが入っているのだろうなあと気づいたのでした。
子供たちといっても12~13才といえば、大人への入り口に居る子たちと、幼児の世話をしたことはあるんだけど、という私が彼らに迎え入れられるだろうか。
「乗りかかった船」という感じになってきました。
そういえば、英国人のスタッフ二人は、今まで会った外国人とはちがうそっけない挨拶の仕方で、ちょっと驚いたのです。
きっと、大げさに迎えることでプレッシャーをかけないように、あるいは、冷たくお手並み拝見という姿勢だったのかなぁと思うのです。

いつも私はケ・セラ・セラ!
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近代美術館に行ったいきさつ

2005年09月26日 | モンゴルについて
今日は、オルティンドー練習初日になるはずでした。
約束の時間に、チョカさんと二人で行ったのですが、先生は期待通り(笑)先生の姿はありません。
警備員さんにたずねると、どうやら4時に来るらしい。
約束は2時なのに。
あたって欲しくない予感が当たった。

せっかく空いた時間だから近代美術館に行ってみました。
前回には無かった作品が展示されたりして、楽しんでいると、ぱちんと照明が消されて、オイ、オイ。

しょうがないから見ていると、小学生の一団(4年生くらい)が吹き抜けの廊下から見えました。
先生が入場券を人数分受け取ったら、小学生が手に握り締めていたお札を受け取り代わりに入場券を握らせています。
先生は、受け取ったお札を手に握り締めて、箱とか袋とかの準備は無いようです。
ウーン、日本では考えられない光景だ。

それでも、照明は点けられずに、子供たちは意外と静かに鑑賞しています。モンゴルの人たちは、目がいいから、こんなものかと思ってみているのでしょうね。

しばらくの後、照明がつけられたのには、わけがあります。
その日、特設展示場でドンゴンという作家の遺作展のお披露目前夜祭だったのです。
先ほど、照明が消されたのは、その展覧会の準備が終わったからだったのです。ナンダカネー


見ると、いつの間にかお客が増えていて、いつの間にかスピーチが始まり、テーブルの上にジュース、アルヒ、お菓子が並べられ、そのテーブルの端にパンフレットがありました。
パンフレットを眺めていると、ご婦人が作品のはがきを配りに来てくれました。

ジュースとお菓子を頂いて、暗い中で一通り鑑賞し終わっていたその作家の絵を明るい照明の下で再度鑑賞しました。
人を描いた絵が多いのですが、従軍の兵士から演奏家、宇宙飛行士、女性、子供、遊牧民、馬など興味を持ったものすべてを写真を写すような感覚で絵を描いているように見受けられました。

わたしたち、ちゃんと2,000トグルクの入場券を払ったのに。
受付の仕事と照明の仕事と何の連携もなく、受付は受付で、照明係
は照明係で、勝手に仕事をしているらしい。
一人や二人のお客のためには、照明をつける気にもならないのかと思ったら、小学生の一団に対してもそうなのだからなぁ。

モンゴルも二度目になると、ありがちなことと怒る気にもならないのでした。

こんな展覧会を開いても、お客は何人かが花束を送るくらいで、ご祝儀とかの習慣は無いらしい。
主催者が、飲みものとつまみを用意してもてなすことになっているらしい。
お客さんの中で、この作品を購入する人は居るのだろうか。
もちろん、売約済みの札なども当然無くて、会期中はどんなお客が来るのだろう。
その後のことが、気になることでした。


パンフレットを写したもので画像が良くありません、悪しからず。


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であった二人

2005年09月25日 | チンゲル亭
秋のトーラ川に沿って、ドライブしました。

木々の葉が黄色に色づいて、空の雲が力を失い滲んでいます。

こちらでは、鉄道は有刺鉄線の柵に覆われています。
牛や馬が鉄路に入り込まないためです。車を見届けると閉じた踏切の扉をよっこらしょと空けてくれるのです。
今日は、誰のお手伝いなのでしょうか、可愛い少女が空けてくれました。

河原で、カラオケにあわせて歌を歌いながら撮影をしていました。
川の向こう側には、誰に運んでもらったのか、それともドレスをたくし上げて自ら渡ったのか?







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日本語学科の学生さんと

2005年09月23日 | チンゲル亭裏日記

日本語科4年生の女性を紹介されました。
オルティンドーのお稽古のときに通訳をお願いする人です。

モンゴル語を習っているのに通訳?といわれそうですが。
まだまだ、意思の疎通をするには足りないのです。
その上、たった40日の帰国で、すっかり習ったモンゴル語を忘れてしまって、先生に何と言って会おうかと思っています。

早速、冷たいものを飲みながら、(今日は、乾燥していて暑いのです)相談をしました。
そして、ビャンバジャルガル先生に連絡を取ってもらい、早速、来週月曜日に練習をしてもらえることになりました。

アルバイト料は、要らないというのです。自分の勉強になるからといって。
はぁー、どうしましょう。
夫と相談せねばなりません。

今日は、一日授業の無い日でたっぷり時間が有るというので、さらに付き合ってもらうことにしました。
寒くなってから着るコートが気になっていたので、皮のコート屋さんに付き合ってもらって、注文の手伝いをしてもらいました。
友達が、遊びに来たときにお連れした仕立て屋さんです。
顔を覚えてくれていて、最初から和やかな雰囲気でデザインが決められました。
寒くなってもきられるように、取り外しの出来るライナー付きのものにしました。
今からでは、皮の一重のものは、ほんのわずかの期間しか着られないので、
当初予定していたスリムラインは止めて、ゆとりのあるすその少し広がった型にしました。

仮縫いは、ちょうど月曜日ということなので、オルティンドーの練習の帰りに一緒に来てくれるそうです。
さて、オルティンドーの練習より、コートの仮縫いのほうが気になる私でした。

オルティンドーの練習が決まったので、それを中心に、ボランティアやモン語の日程が決まっていきます。

出戻ったUBでの生活の第一歩が始まります。
寒いよーといって、閉じこもってはいられなくなりました。
羊を柵に追い込むように、私も自分を追い込んでいきます。(笑)

今日の外気温は、何度だったのでしょう。
タートルネックの半そでTシャツにカーデガンでも暑いくらいです。
室温は、めでたく24℃に上がりました。これで一安心。

暖かいと物事がちゃっちゃと決められます。良かったぁー。
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中秋の日について、訂正です

2005年09月22日 | チンゲル亭
モンゴルの満月は、どうやら日本とは一日ずれていて、19日だったそうです。
この日は、中秋の日とバルジンヤムウドゥル、ダシニャムウドゥルというおめでたい日が三つ重なる日だったそうです。
(詳しい意味は、後日調べてみます。)
この日は、モンゴルでは結婚式が一番多い日だそうです。

そういえば、深夜に花火が上がっていたのはそういうことだったのですね。
結婚宮殿では、何組のカップルが式を挙げたのでしょう。
去年、友人の結婚式に出席して、結婚宮殿の中の様子を見たし、娘の結婚式も終えたばかりで、感じるところが深いものではありました。

       どうか末永くおしあわせに!


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今日の温度

2005年09月21日 | チンゲル亭裏日記

朝6時半 マイナス5℃(日の上がる前)
現在10時 10℃   (青空の良い天気)
室温   20℃強  (少しずつレンガが温かみを保ってきて室温が上がってきた)

人間の体はよく出来ているものだ。
室温はほとんど変わっていないのに、寒さを感じる度合いがどんどん少なくなってきた。
寒さに慣れてきたというか、気持ちのほうがあきらめてきたというか。
今日は、湯たんぽの必要がなくなりました。

無理にでも外に出て、「心頭滅却。。。」などという無理をしなくても大丈夫そうです。
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寒いぞ!チンゲル亭~

2005年09月20日 | チンゲル亭裏日記

17日、5時間遅れでボヤント・オハー空港に着きました。
幸い、暗くなってからの到着で、山が真っ白になっているのを見えなかったので、寒さをそれほど感じなくて済みました。

28度で、涼しくなったねぇーと喜んでいた日本から、マイナス1℃のUBにたった5時間で到着したのですから、体がなれないのは当然のことです。

何ヶ月も前から覚悟をしてやってきて、3ヶ月でまた日本に、そして40日の滞在でまたチンゲル亭へと短時間であちらこちらと移動したのですから、若くは無い心と体が揺さぶられ続けていました。

これで、当分落ち着いた生活が始まるはずなのですが、この寒さに体が慣れてくれるだろうか、それとも、心のほうがついていけないのではないだろうかと、ちょっと後ろ向きの気分です。

二度目のモンゴルとはいっても、だからこその難しさを抱えての仕事をする夫を支えつつ、自分の心と体をどう前向きに持っていったらいいのか、思案中。

しかし、去年の10ヶ月は、ナンダカ自分でも迫力があったなぁ。
そうそう、去年の日記を読み返したりして、思い出してみよう。

初めてで何も知らないということほど強いことは無い。
なまじ,少し知ってしまったので、気持ちが萎えてしまう事も有るのです。

今日、やっと午後になってからパール(暖房機)が暖かくなり始めました。
それまでは、外気温1℃、室内15度でした。

今は、室温20℃に上がってきて、気持ちが落ち着いてきました。
しかし、「24℃に上がらないと引っ越してやるー」と、思わず叫んでいました。
16日に雪が降って、その前の日から暖房が入って、半そでで暑いといっている地区があるというのに、しかも、私の到着した日とその次はお湯が出なくて、どうやって体を温めたらいいの!と、ヒステリー気味。

娘と鼓太郎に別れてきた寂しさの上、苦手の寒さに襲われて、最悪の気分でした。

明日になって、部屋の温度が上がらなかったら、どこに八つ当たりするんだろう。
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