風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

東京芦孝会中央会

2014年09月28日 | 詩吟
今日の、ビッグニュースは、財団(公益財団法人 日本吟剣詩舞振興会 )
の衣装についての見解が発表されたこと。

主に、コンクールに出場するにあたっての衣装であって、日頃の活動のあるいは、それぞれの会の方針に口を差し挟む者ではないということらしいけれど。

東日本大会からは、男声も女性も着物。
都大会までは、男子は略礼服、女子はそれに相当する言ってみればリクルートスーツに代表されるような上下同じ色素材のスーツ。そして、画期的と思ったのは、パンツスタイルでもよいとされたこと。

パンツは、拒否感が強かったので、まさか認められると思わなかったのですが、全国組織の財団で、こういう発表があるのは、驚きでした。
いわゆるコーラススタイルは、良しとはされなかったようです。
コーラススタイルは、良しとされてこなかったにしては、着物ではない出場者は、コーラススタイルで出場する人がおおかったのです。
この、意見書を受けて、これからの舞台は、変わるのか、変わらないのか。

足首が出なければ、タイトなロングスカートは、着物と同じ形をしているので、悪くはないと思います。
それに合わせるものが、何にすればよいのだろう。

問題解決したかのように、一瞬小躍りしそうになったけれど、女子の衣装は、なかなか、これと決められないなぁ。

さて、芦孝会の今月に迫った十五周年錬成大会では、いかなる衣装が、出てくるのでしょうか。

「それぞれが詩吟にふさわしいと思うものを、着て登壇してください。」との会長のお言葉。
はて、さて。

女子の着るものは、ほんとうに、難しい。
吟詠が始まる前に、視覚で観客に訴えてしまう影響力の大きさは、まことに、御しがたい。
それを逆手にとって、あれこれ楽しむのだねぇ、あれこれ試して、試行錯誤をして、驚いたり笑われたりしながら、自分らしいのを確立していくことだね。

伝統券\には民族衣装なのだろう。
けれど、女子の間で、着物を民族衣装と考える一派と他の付加価値を与えたい一派と、永遠に平行線かもねぇ。

なまじ、トレパンで始めた詩吟は、今も私の中で、暴れたり、なごんだり、興奮したりするのよねぇ。


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女子会

2014年09月27日 | 詩吟
谷中教室の女子会にお招きいただきました。
谷中まつりの準備とその練習をするとのことなので、おけいこには、お邪魔になるので、5時半からの女子会のみに参加させていただきました。

会場から少々歩くので、おけいこの終わる少し前に着いて、ドア越しに声を聴いて待っていました。

ドア越しに詩吟を聞くのは、めったにないことで、いつも感心してお聞きしている方の吟声が、聞こえてきました。やはりドア越しに聞いても、素敵に聞こえて、なるほどねぇと思う。
最近お元気がないので、心配です。

谷中銀座を散策しながら、あっちに引っかかりこっちに引っかかりしながら、今度は通過するだけでなくて、のんびり散策したいなぁと思う。


さて、会場では、ノンアルコールと言いつつ、先生他数名の殿方がいるので、最初の乾杯だけビールを頂くことになりました。

女子会は、飲めない、好きではない人からの要望で、練習の後ノンアルコールの集いをしたいとの要望から、女子会と名付けられて、開かれました。私も、いつも、乾杯にほんの少しのビールとあとはほっとウーロン茶の人だから、こういう女子会は、いいねぇと思う。

谷中まつりのリサーチため、また、その先の会員増強のために、詩吟を始めたのはなぜ?にこたえながら自己紹介となる。
漢詩が好きだったり、れきしがすきだったり、前向きのスタートを切った人が多く、私のように、無理やり部活に引き入れられ長い年月をかけて好きになったという人は、いませんねぇ。

お一人は、初めての練成会で、発表した後で、ダメだこりゃぁと思って、しょげて檀をおりていいたところに、にこにこ笑ってよかったよと言ってくれた人が居たそうです。
それで、辞めようかと思う気持ちにブレーキがかかったそうです。
その声かけをしたのが、後になって私とわかったとのエピソードを話してくれたのです。

そうか、そうだったのか。よかった、よかった。

こんな話が、耳に入ってくるのも、お稽古のあとの集いがあってこそのこと。
ありがとう。うれしいです。



盛り上がりついでに、教室を出てのワンャCントレッスンの話が起こったのだけれど、あいにく、日程の都合がつかなくて実現はしなかったけどね。

真ぁ、またの機会があれば、いつでもやりましょう。



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ももてなし

2014年09月26日 | 徒然に日々のことを

                  告知

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とっとりおかやま新橋館オープンです。

9月28日(日)新橋センタープレイス1≠Q階
  心のふるさとがここにあります。


テーマは「ももてなし」  (注 おもてなしではないよ)

その心は・・・「岡山の桃」と「鳥取の梨」・・・分かり易いでしょ?


で、オープン早々の10月4日・5日(土・日)にはそれぞれの県の商工会連合会により物産展
が開催。佐藤果樹園も白桃コンフィチュール・黄桃コンフィチュール・味噌ドレッシングで参加。

五似ん会のメンバーが佐藤果樹園の主ですよ。
ご興味の向きは、足をお運びくださいませ。


















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偉い人効果

2014年09月26日 | こたろう語録
偉い人に会って、そして、お話を聞き、その様子を眺めたりして、その穏やかな包容力にほぐされたみたいだね。
影響を受けやすいかあさんは、春からのざわざわがいつの間にか、なくなっているみたい。

偉い人たちは、会員の声を聴くといいつつ、その声を聴いて自分たちの路線をかくにんしているんだよねきっと。

そうじゃなくちゃぁ、1万4千人の会員を支える会長以下首脳陣の仕事は、勤まらないだろうよ。


かあさんは、来年順次発行される新教本に期待を寄せているみたい。
少しずつ増えてきた教本やら副読本やらが、効率よくまとめらるようで、コンパクトになるのかなぁ。

詩吟を習うものにとっての学習の糸口になるのだから、学術書である必要はない。
詩吟に取り上げられている漢詩を一歩進めて研究したい人にはあきたりないものかもしれないけど、最初から小難しく詳しい資料は、却って気持ちが引くよねぇ。

程々の内容で、興味の入口に導いてくれるものがいいよねぇ。

ぼくは、小難しいのはきらいだし、押しつけがましいのも好きじゃない。
それとなく、風のようにひらめいたり、香りが届いたりするのがお好みだよ。




袴をはき脇差を差したら似合いそうな常任理事さんのしゅっとした立ち姿やら、声や言葉の豊かな響きやら、多くの仲間たちが一様に感動したんだってねぇ。
きっと、その映像は、目に焼き付いて、これからも長く影響を与え続けることだろうねぇ。

文字からの理論やら、簡単に手にした情報は、自分の中に定着させるのは、時間がかかるのだけれど、その場にいることは、一瞬で伝わってくるものがある。
かあさんは、吟詠はきけなかったけど、四人の方たちから伝わってくるものに、大いに酔い、大いに影響を受け、得体のしれなかったもやもやを払しょくしたかなぁ。


一方、ぼくは、母さんにいっぱい情報を伝えているというのに、ぼくには肩書がないからかなぁ、それとも馴れ合っているからかなぁ。...。僕のメッセージが伝わってないんだなぁ。




音源から、お気に入りの先生の吟詠を聞くというより、イアホンからの音を聞き流していると、いつの間にか、自分がその吟詠をしているかのような誤解を覚えてしまってるのをかあさんわかってるかなぁ。

たまに、われに返って、自分の声を録音して聞きなおしてみて、あまりのひどさに唖然としてしまうかあさんがいる。

シャワーのように浴びるというけれど、耳という単一の器官からのシャワーは、聞く耳を育てるだけだったのかもしれないよ。

やっぱり、その人となりから発せられるものを受け取らないとね。
だから、母さんは生の吟詠を聞きたい、同じ空気を共有するその先輩の今の思いと声を受け取りたいと、言ったんだろう

自分のありのままを認めることって、むずかしいよねぇ。
ぼくのように、こだわらないで、好きな時に好きなことをする。嫌なものはことさらはっきりと意思表示をする。

これって、楽だよ~。


かあさんは、僕がこの家に来る前の詩吟とのかかわりは、僕のように自由に身勝手だったみたいだねぇ。
なんで、いまは、そんなこだわりをもってるのさ。

ん?そうか、「師範」「指導者」って、ちっちゃいちっちゃい肩書に影響されてる?
はは、、、ばっかじゃない?


かあさんはこだわらなくていいんだよ。



おや、山内先生にお聞きした言葉を、反芻しているみたいだね。
よしよし、ぼくの思いが少しは伝わっているってことかな。

こだわりからはマイナスエネルギーが発生するんだよね。


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須藤先生油絵展

2014年09月24日 | 論語と
野田にある画材屋さん併設の喫茶店が、須藤先生のもう一つの論語教室。
今日は、先生の絵の展覧会がそのお店で開かれているので、鑑賞がてら、有機栽狽フしょくざいで作ってくれるランチを頂いて、その後、論語の解説といつもの段取りで、行われました。

今日は、先生の親交のある歌手の生前葬コンサートとコラボして、その歌のイメージを絵にしたものが掲げられていました。



そして、今日の論語は、下村湖人の論語物語から、「伯牛疾あり」のレクチャーです。
孔子の弟子の中でも特に徳行に優れた伯牛が、病を得た時の話。
孔子は余命いくばくもない伯牛を折に触れ訪ね絶望の淵にいた伯牛のこころを、自暴自棄から救い出し。

最後には、伯牛は「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり。」と言った孔子の深い言葉をじみじみと思いだし、あれほど荒れた気持ちが、何かしらすがすがしいものが流れているのを感じたのです。


あまりに端折りすぎて、意味不明かもしれませんが、論語を理解する手助けとして、「論語物語」は、面白い教材ですと、須藤先生の弁。

毎回手作りの教材を提供して、懇切な解説と素読をしてくださる「里仁」論語教室でした。




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関吟本部連絡協議会

2014年09月23日 | 詩吟
本部より会長 副会長 常務理事がおいでになりました。
関吟のこれからについてのお願いやら、改定事項やらを伝えていただきました。
そして、会員からの要望などを真摯に受け止めてくださいました。

私自身の願いは、生の詩吟を聞きたいとお伝えしました。
HPに音源が入り、やっとのことで、CDが発売されたときは手をたたいて喜び、二枚目、三枚目と素晴らしい吟英を聞かせてもらい、手放しで喜んだのですが、音源と言うものは、出来上がった時点で、もう古い過去の音。続けて、切磋琢磨なさっているはずの上級者たちは、もしかしたらもう耳にしたくない音かもしれない。

やはり同じ空気を共有する、体の使い方、息遣い、その時の思いの届く、今のそして生の吟詠をどうしても聞きたい。

そのどうしようもない思いをお伝えしているとき、感情が激してしまいかなり恥ずかしい思いをしてしまいました。
情けない。


その後、いつもの幹事会帰りに立ち寄る中華料理のお店に、四人の首脳陣も一緒に食事に出かけました。

最初山口先生の隣に座ったときは、先輩のお話が延々と続いて、そのうち、会長は咳を変わられました。

その次に、隣に座ったのは、二人の副会長のうちのおひとりと隣になり、だんだん緊張が解けてくるにつれて、いろいろとお話を聞き出し、やがては、自らお話をしてくださいました。


「指導者は、下手でいいのですよ。」「正しく導いてあげればよいのです。」
「その人となりを、高めましょう。」
「富士山のすそ野似る人は富士のたかさがわからないものですよ。」



示唆の深い言葉を、その思いやりとともにいただきました。

私って、ものすごい思い違いをしていたなぁと、思いました。

山口先生からも、ものすごいDVDをお借りしたのですが、傷がついていて、再生困難の部分があって、今、あれこれ試しているところです。


ゆすぶられた魂は、今さまよいつつ、着地点に向かって、降下中。


そして、とても良いお話を聞いている最中、咳を移動した山口先生が吟詠指導をしている声が聞こえてきた。

先生からの直接指導なんて、うらやましいなぁ。

ただ、今回は、こんなにたくさんの幹事がのこっているのに、4人の方たちが一塊に座って、先輩が行って引き受けで、お話をなさっていたことが、とてももったいなかったなぁ。

4人の方たちが、気を利かして、みなさんの間に座ってくださればよいのに。
地方会員の忌憚のない意見を聞くつもりがあったなら、もっともよいチャンスだったのに。

私を山口会長の隣に座るよう指示してくださった野田 芦孝先生の心遣いに感謝。そして、隣に来てとお願いしたのに、来てくださらなかった芦孝会側の女性の強い遠慮に、がっかり。

そこを糸口に、席をばらまく良いチャンスだったのになぁ。

殿方は、召し上がった後に、本音が出ることがいつものことだったから、もっと、良い話をお土産をもって大阪本部にお帰り戴けたのに。

山口会長の段下がりのレクチャーは、そのような短時間では、身につけられなかったようですが、耳に残っていたら、いつかできるようになるはずです。

私は、山内副理事を独り占めにして、その穏やかな語り口で、いろんなヒントの隠されたお言葉を頂きました。

このところの、変調を解く鍵もあったり、訳の分からぬ焦燥感の原因がおぼろげにわかったり、初対面にの私に、これだけ心を揺さぶる言葉を下さるなんて、関吟一万四千人の会員の副会長を務められている方なのだなぁと、驚きました。

さて、山内副会長のおっしゃる富士山は、何?誰?


来年には、新しい教則本が出版されるとか。たのしみです。




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江戸川詩吟道場

2014年09月20日 | 詩吟
江戸川詩吟道場への二週続けての参加は、かなり久しぶり。

今日は、意気ごみを込めて30分近く早く着きました。
発声練習をみっちりやって、それから吟詠の練習に入るのは、江戸川詩吟道場の習い。
おかげで、喉も滑らかになって詩吟をすることができます。

今日は東大島教室の練習を受けて、和歌、俳句を一通り復習でした。
東大島は、野田 芦孝先生の指導による教室なのと、東大島からのゲストさんが多いことで、そうなるのかな?

やはり私も、野田 芦孝先生の指導を受けたほうが良いのかなぁ。それにしても、東大島は参加者が増え続けているようで、独吟も全員できてないとか漏れ聞いています。

ここ江戸川でも、新しい吟を習わないので、その分個人の独吟練習に重きを置いての練習になっていますが、それでも、思うようにできない悩みがあるようです。

独吟を繰り返し行いたい、そして、批評を受けたいというのは誰しもの望み。
今までは、独吟をするのに特に、経験の浅い人たちが尻込みをしているという風景がよく見られていましたが、今では、積極的に独吟をして、懇切な批評を受けることを望むようになっています。

先生の包容力のあるご指導の賜物と思えます。

私も今日は、一練習生として臨みましたが、どうしても気になることには口を差し挟んでしまって、順番が回ってくるころには、指導者の顔になってしまっていて、まずい!と思うのです。

独吟をさせていただいても、なかなか、ご指摘がなく、齟齬感いっぱいで自席に戻ることになり、大いに不満。

何んとか、このところ言葉を引き出そうと、あれこれ画策してみました。
徹底的に練習した吟は、「結構な模範吟」をと何もなく、練習途上の吟で臨むと、当たり障りのないことだけを言ってくださる。
私の知りたいことは、そんなことではないのよ。
何か指摘をすると、怒って何事かが起こると思っているわけではないでしょうに。

教室を持ってしまうと、ご指摘を頂きにくくなって、油断すると自分の姿を見失って、「先生様」になってしまいそうで、浮「。
もう、すでにそうなっているのだろうか。

自分を写す鏡は、どこに隠れているのやら。

此の処の、気分の低迷は、ここに訳があったんだねぇ。
このまま、実力の低下を阻止できなければ、指導していけないよねぇ。

バトルをしたいなぁ。

そのバトルは、やはり、コンクールという大きな理由付けがないと、厳しいご批判、ご助言は頂けないのかなぁ。
自分で、バトルの場を開拓しなさいってことなんだね。


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論語とはじめの一歩

2014年09月18日 | 論語と
「足利学校書き下し 論語」をテキストに、最初から素読をし、解説をしてくださった。

きょうは、先生の書いた「論語の教科書」の出番がなかったのは、ちょっと寂しい気がする。

九月からは、時間も30分早く開始されるようになり、三つに増えた教室は、それぞれ、知の会、仁の会,勇の会と命名されました。

知の会は、今までの育成論語(第1木曜日1時半から)、仁の会は新しく増えた素読実践をテーマとしてこちらでは先生著の教科書を使います(第1木曜日 3時15分から)。
勇の会は、今までの基礎論語 素読と各篇の章句解説。漢文学習。漢詩鑑賞。〈第3木曜日1時半)
それに引き続いて、詩吟の会。論語を漢字で読めるように、漢詩に親しむ第一歩として、漢詩を解説鑑賞をしましょうとの意向で、詩吟を習うことになり、はじめの第一歩と名付けられ、私が詩吟指導を担当しています。


論語の十章までは、論語のエキスとまで言われる重要で、誰でも知っている言葉や熟語が特にたくさん出てきます。
それだけに、何度おききしても新しく奥深さを感じます。

学ぶこと、習うこと、目上年上の者を敬うこと、当たり前で、難しいことが、短い言葉でかいてある。

須藤先生の、簡潔で奥深い表現の解説は、それを聞いているだけで、身が軽くなって爽快になる。

くどくどと言わないt頃が、潔い。素晴らしい先生に出会えた。

そして、そこで出会える仲間とのかかわりも、先生の影響を受けて、穏やかに輪を広げて行っている。

          おかげ様 ありがとうございます

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僕の写真

2014年09月16日 | こたろう語録


       僕の写真が、さるところのある場所にかざられました。



さて、さるところとは、
いきつけの    




ある場所とは、グリーンの影。

僕は、この世で一番の猫だから大丈夫だけど、母さんの携帯カメラの腕は、いま三だからねぇ。
今一とまでは望まないけど、せめて今二くらいまで、上手になってほしいよね。

なので、グリーンの影になるところに貼ってきたらしいよ。

これから、続々と写真が集まって、この壁がいっぱいになると、何か、良いことが起こるらしい。

いざ、集まれ 猫の写真 ナチュラルカフェ コンャXテラへ!




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小豆

2014年09月15日 | こたろう語録
あたふたとして、いろいろと反省したかあさんは、きのうは、ゆったりとした時間を演出したかったみたい。

それで、父さんも好きな小豆を煮ることにした。
圧力鍋はやめて、普通の鍋でね。



丁寧に作るってことは、豆の吟味から始まるんだねぇ。
それで、なんだか気になることが起きたみたい。

選ばれた豆と選ばれなかった豆。
選ばれた豆は、取り出された方、そして、選ばれなくて鍋に残った豆は、おいしく煮られて、味を付けられて、天寿を全うする豆。

同じ畑で、苦楽を共にして、やっと育って、我が家にきたのに。
最後の、この我が家の鍋の中で、選ばれてしまった小豆。


選ばれるって、いろいろだよねぇ。

僕も、インタ―ネットの捨て猫サイトに掲載された写真で、三兄弟のなかから、選ばれてこ父さんとかあさんと二人のお姉ちゃんのいる家に来た。生後3か月くらいの時。

僕は選ばれて、しあわせに(エッヘン)13年が過ぎた。

選ばれた豆の行く先は、母さんのことだから、捨てないとおもうけどね。


さて、選ばれなかった豆のその先は。
茹でこぼしは、三回。
砂糖は、火を消したところにザラメを入れて一晩おく。
そして、今日、味見をして、「うん」いけてるって顔をしてた。
「上品に仕上がったでしょう」と、とうさんに「イエス」の返事を強要してた。


小豆は、僕にはかんけいないけど、小豆の煮えていく香りの醸し出す空気は、ゆったりしていて、かあさんの顔もやわらかで、ピンととがった思いが伝わってこなくて、いいなぁ。






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