11年前、10周年の実行委員会が、中央会の後、着々と計画が進んでいるころ、遅れて入った実行委員会で、書道とお花とがあって、もう一つ、「舞」があったら、舞台が映えますね。と、発言したことから、舞をプログラムに入れることになりました。
その当時、「舞」のできる人は居なくて、言いだしっぺの私が、習いに行くことになった。
何の素養もない私が?と思いながら、実行委員はそれぞれ役割があり、遅れて入った私には、何も役割がないことから、ただそれだけで、決まった役割でした。
周りの人たちに心当たりの師匠はなく、どうしようと、途方に暮れかけたら、目の前を着物で、駆け出していく人がいて、声をかける。
そこから、近所の新舞踊の教室へと道筋がつきました。
先生は、詩舞の経験のある師匠のところへ、吟詠のテープを持参して、習ってきたのを、先生の自宅の教室で、教えてくださいました。
あらかた、振付が頭に入ったころ、
T先生から、広い会場で、踊りの練習ができるよと、お誘いを受け、剣詩舞を習うの方たちとご指導にあたっている小西如泉先生へと、導かれました。
それからの1年足らずの間に、「月夜三叉江に舟をうかぶ」を死に物狂いで、伝授されました。
無事、10周年で、瑞江教室の方たちの伴吟で、三叉江を舞い、好評を得ました。
それから、続いていくご縁で、小西如泉先生は、15周年にお弟子さんを差し向けてくださり、9月の20周年には、みずからも「富士山」を舞ってくださることとなりました。
芦孝会とのご縁は、それだけですが、私が、ご指導いただく前から、
T先生との剣詩舞と伴吟との関わりは、長く続いていました。
そんな長い時間をかけて、育て上げた縁は、やがて、芦孝会の一教場へとつながり、そこから、吟と舞とがつながり、練成会の舞台を盛り上げました。
小西如泉先生が、踊りも習ったこともなく、基礎もない私に、いきなり、絶句の舞を教えねばならなくなって、大変なご苦労をかけました。
当然私は、死に物狂いで取り組みましたが、後になって、先生も死に物狂いだったそうです。
そんな先生のご苦労も知らず、恩返しもしないまま、10周年後に生まれた教場で、教えることを始めた私は、膝の痛みもあって、舞のお稽古を中止いたしました。
舞を続けて、先生のご期待に沿うことが、唯一の先生への、ご恩返しなのに。
それから、数年の中断の後、今度は、剣詩舞教室の伴吟メンバーとして、お声がかかり、わずかばかりの協力をさせていただいて、今日に至っております。
最近では、5月18日に新座市のふるさと会館での伴吟をさせて頂きました。
もっと、まともな吟詠がしたいと、そのたびに思います。
そんな時に、小西如泉先生の伴吟で、20周年の舞台を飾れるお話を頂き、この上もなくやりがいと喜びに震える思いです。
こんなチャンスを与えてくださった、演出担当の方たちに、心からお礼を申し上げたい。
今度こそ、会心の吟詠をしたい。そのためには、わき目も振らず切磋琢磨です。
どうか、この富士山に集中させてください。
だから、ほかのことに心を迷わせてはいけなかったのです。
この、10年にわたって、狽「盤石な結びつきを作ってきた先生お二人のことを、そばで、見てきて、無理なく積み上げることがいかに大変か、時間をかけて、積み上げてくることが如何に強いものなのか、やっと、知りました。
本番に至るまで、練習を繰り返し、相手の気持ちを知り、私も理解していただいた上での伴吟がどれだけ、意義があり、幸せなことか。
通り一遍の、「テープを送って、はい、本番」とは違う強さが、あります。
お互いに支え、支えられて、より高い完成度をめざしたい。