ぎっくり腰をしたことを期に、体のことを立ち止まって考える事をしました。
生まれたときは、虚弱でしたが、成人してからは、これといった病気もせず、花粉症もここに引っ越してからは、鳴りを潜めているし、元気になった事を実感し、手放しでいたのです。
体も60年使い続けると、あちこち、手直しをするところが出来てくるもののようです。
いろんな意味で、折り返し地点であるなぁと思ったことでした。
新しいスタートを切るにあたって、ちょうど、いろんなことがリセットされたようで、何でも、お好みのままに出来るわけなのです。
60年を、引きずっていると重いし、さりとて、すっかりおろしてしまうと、すぅすぅと足元に隙間風が吹くような気がして。
ほどほどの荷物をえり分けるのは、なかなか、むずかしい。
いったん、おろしてしまうと取り返しがつかないのか、拾い上げることが出来るのか、、、
拾い上げられるくらいの捨て方なら、捨てたことにならないのか。。。
一つの物事を決めるのに、あちらこちらに揺れ動いて、定まらない。
もっと、もっと、悩んでお決めなさいということなのか。
でも、良く考えてみると、悩むというより、来るかどうか分からない悪い結果のみを思い描いているような。
悩むって、ほんとは、どういうことなのかなぁ。
そんな大きなことよりも、目の前の、家の片づけが、腰をいたわるという大義名分の前に、ちっとも進んでいない。
物を一つ動かすにも、心が定まっていないと、決められないもののようです。
はぁーーー
淵澄
「淵澄取映」《淵は澄んで 映(ひかり)を取る》
「澄んだ淵のように虚心に自分や世の中を観察する」という意味
川の流れは時に、大岩に遮られて動けなくなることもある。その時は静かに岩を映す淵となり、人を愉しませるのもよいだろう。が、時至れば岩を穿ち、本来の流れを取り戻す。静と動、それは生命の源である水の本質ともいえる。人の生き方もそうありたいものだ。
偶々、見ていたニュースの片隅に額に入った「淵澄」の字が見えました。
早速、ネットで調べてみたら、上のようにありました。
まさに、大岩にさえぎられている感のある私にとって、意味のある文字が目に飛び込んだものです。
生まれたときは、虚弱でしたが、成人してからは、これといった病気もせず、花粉症もここに引っ越してからは、鳴りを潜めているし、元気になった事を実感し、手放しでいたのです。
体も60年使い続けると、あちこち、手直しをするところが出来てくるもののようです。
いろんな意味で、折り返し地点であるなぁと思ったことでした。
新しいスタートを切るにあたって、ちょうど、いろんなことがリセットされたようで、何でも、お好みのままに出来るわけなのです。
60年を、引きずっていると重いし、さりとて、すっかりおろしてしまうと、すぅすぅと足元に隙間風が吹くような気がして。
ほどほどの荷物をえり分けるのは、なかなか、むずかしい。
いったん、おろしてしまうと取り返しがつかないのか、拾い上げることが出来るのか、、、
拾い上げられるくらいの捨て方なら、捨てたことにならないのか。。。
一つの物事を決めるのに、あちらこちらに揺れ動いて、定まらない。
もっと、もっと、悩んでお決めなさいということなのか。
でも、良く考えてみると、悩むというより、来るかどうか分からない悪い結果のみを思い描いているような。
悩むって、ほんとは、どういうことなのかなぁ。
そんな大きなことよりも、目の前の、家の片づけが、腰をいたわるという大義名分の前に、ちっとも進んでいない。
物を一つ動かすにも、心が定まっていないと、決められないもののようです。
はぁーーー
淵澄
「淵澄取映」《淵は澄んで 映(ひかり)を取る》
「澄んだ淵のように虚心に自分や世の中を観察する」という意味
川の流れは時に、大岩に遮られて動けなくなることもある。その時は静かに岩を映す淵となり、人を愉しませるのもよいだろう。が、時至れば岩を穿ち、本来の流れを取り戻す。静と動、それは生命の源である水の本質ともいえる。人の生き方もそうありたいものだ。
偶々、見ていたニュースの片隅に額に入った「淵澄」の字が見えました。
早速、ネットで調べてみたら、上のようにありました。
まさに、大岩にさえぎられている感のある私にとって、意味のある文字が目に飛び込んだものです。