風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

還暦 2

2008年03月08日 | 風のこたろう裏日記
ぎっくり腰をしたことを期に、体のことを立ち止まって考える事をしました。

生まれたときは、虚弱でしたが、成人してからは、これといった病気もせず、花粉症もここに引っ越してからは、鳴りを潜めているし、元気になった事を実感し、手放しでいたのです。

体も60年使い続けると、あちこち、手直しをするところが出来てくるもののようです。
いろんな意味で、折り返し地点であるなぁと思ったことでした。

新しいスタートを切るにあたって、ちょうど、いろんなことがリセットされたようで、何でも、お好みのままに出来るわけなのです。

60年を、引きずっていると重いし、さりとて、すっかりおろしてしまうと、すぅすぅと足元に隙間風が吹くような気がして。
ほどほどの荷物をえり分けるのは、なかなか、むずかしい。

いったん、おろしてしまうと取り返しがつかないのか、拾い上げることが出来るのか、、、
拾い上げられるくらいの捨て方なら、捨てたことにならないのか。。。

一つの物事を決めるのに、あちらこちらに揺れ動いて、定まらない。
もっと、もっと、悩んでお決めなさいということなのか。

でも、良く考えてみると、悩むというより、来るかどうか分からない悪い結果のみを思い描いているような。
悩むって、ほんとは、どういうことなのかなぁ。

そんな大きなことよりも、目の前の、家の片づけが、腰をいたわるという大義名分の前に、ちっとも進んでいない。

物を一つ動かすにも、心が定まっていないと、決められないもののようです。

はぁーーー

淵澄
「淵澄取映」《淵は澄んで 映(ひかり)を取る》
「澄んだ淵のように虚心に自分や世の中を観察する」という意味

 川の流れは時に、大岩に遮られて動けなくなることもある。その時は静かに岩を映す淵となり、人を愉しませるのもよいだろう。が、時至れば岩を穿ち、本来の流れを取り戻す。静と動、それは生命の源である水の本質ともいえる。人の生き方もそうありたいものだ。

偶々、見ていたニュースの片隅に額に入った「淵澄」の字が見えました。
早速、ネットで調べてみたら、上のようにありました。

まさに、大岩にさえぎられている感のある私にとって、意味のある文字が目に飛び込んだものです。
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3月 還暦

2008年03月02日 | 風のこたろう裏日記
溜まったビデオをDVDに落としかえる作業をしています。

小学生の頃の娘のビデオは、ほんとにかわいくて、ほほえましくて、おまけに私たち夫婦も若い!

忘れているはずは無いと思っていたことを、こうしてビデオで見せてもらうと、事柄とそのときの思いが蘇ってきて、幸せな時間を過ごすことが出来る。

とても重要なことと思って、わざわざ記録して残したたはずのャCントが、分からない。
年を重ね、状況が変わってくると、残したいほど重要なことだったのかと疑問に思う。
それは、もう、それを見たときに血となり肉となってしまったからかもしれない。
だから、今、繰り返し見たとき、何?と、思ってしまうのではないかしら。

より分けていると、残したいものは、何といっても家族の記録しかないことが分かります。

いまどき、メディアで一般に放送されたものは、何らかの形で、情報を手にできるのですね。
あの頃、懸命に記録しようとしたことは、無駄とはいえないまでも、それに近いものがあります。

決して、他から得られないものは、家族の肖像だけなのでした。

そして、やはり、ビデオを買うきっかけとなったルーブル美術館のシリーズは、今では手に入るけれど、高価でおいそれと私のお小遣いでは手に出来ないのです。

それらは、録画したまま、見返す暇も無く危うく死蔵になるところを、HDDタイプのDVDプレーヤーを手にすることで、DVDに落として、さらに画像がクリアになって、私の手元に残りました。

帰国当初から、早く整理をしたいと思っていたのですが、プレーヤーの使い方すら覚える気力が無くて、そして、ビデオテープの数を思うと途方も無く大変な作業と思えたのですが。

今は、難なくそれをやり終えようとしています。

あの頃は、それほど、私の感受性や、思考や、もろもろの生命力が失われかけていたことが分かります。

誰かのために何かをすることが無い、自分のためだけに生きる生活なんて、何の意味も無いのでした。

今は、かろうじて、私にはすることが在ると思えるようになり、二本足で歩けるようになって、あと少しで、心地よい風を感じられるようになることでしょう。

還暦という魔物を、誕生日が来る前に、その姿を見つけることが出来て、良かった。
我武者羅さの希薄な今、猪突猛進は出来ないのですから。
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