風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

因果関係

2020年08月31日 | 体を整える
細かい因果関係をあれのせい、これのせいと考えるより、今の体の状態を正しい方向に修正するためには、どうすればよいかを考えていくのが、井本整体のすすめかたかなぁと、今頃気が付く。

あのことがあって、それがストレスとなって、今日の体の不調になっている。
だから、体を治しましょうという図式も今まであったなぁ。

山田先生は、何かありましたかとお尋ねになるけれど、だからと言ってその事態を取りあげてどうということは、おっしゃらない。

黙っていることは、それが原因であると思っている私を認めてくださっていただけのことで、その因果関係をその通りと認めてくださったわけではなかったんだ。

まず、大きな声を出したければ、体を開く、喉を開く、軸をしっかり持つということ。
それができないでいて、声が出ないから、物事を収束していく方向、あきらめる方向へと向けてはいけない。

長年かかって、出来た体の癖を、正していくのは、そう簡単なことではない。
それは、体だけのことではなく、心と、生活の習慣からも起きていることだから、その一つ一つを見つけていくこと。

そうだね。。。。。 
  
何かのせい、だれかのせいと外に原因を見つけていこうとするのは、肘をついたり、足を組んだりして、ひと時の安息を求めるのと同じ。

できてしまった体の癖は、もう、その原因について、言い及んでも、何にもなら無いってこと。

アイロンで、間違ってできてしまった皺を治すには、どうする?
「だって、〇〇があんなこと言うから、よそ見した時にできたんだもん」
「だって、ここが、折線だっていうから、きっちりあいろんをかけたのよ」と言ってみたところで、出来た間違いの線は、丁寧に消して行かねばなりません。

まず、十分に蒸気を当てて、熱と湿り気をふくませる。そして、きちんとしかるべく平らにするか、正しい位置に折線を付けるか。

まるで、「熱刺激」の理論だねぇ。

こだわりを捨て去って、今の状況を良く見て、正しい行動をすること。

過去の出来事に、執着しないで、先を見る。

今しか見えない刹那的な治療ではなく、先のことを見据えて行う人体力学の操法は、すごいと思う。

山田先生は、細かいことをいちいち言わない。私と、違うところ。

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喉と声

2020年08月29日 | 体を整える
昨日の施術の時に、山田先生も、「声は出さないと出なくなる」とおっしゃった。
でも、喉の詰まった状態で、無理な声の出し方をするのは、どうしてもできない。

少人数でも、広い場所に広がっていては、声も届きにくく、無理に声を出そうとして、だんだんに声が出にくくなってくる。
それでも、出さなくてはならないだろうか。
できれば、ささやき声で話したいのに。

ここは、未だかつてない、苦労のしどころなのだろうか。

体に聞いてみる。喉に聞いてみる。

喉は、声を出したくないと言っている。

そうなんだねぇ。

ちょうど、休止時期に、体の声を聴き、心の声を聴き、ゆったりと時間を過ごし、山田先生の教えを守り、教えを乞い、体の調子も上向きになってきたことだし。

この喉の問題は、体の声を聴いてみようと思う。

練習ありきではなく、私の「体の声」主導でね。

本をぱらぱらとしてみると、飛び込んできた言葉は、「無意識のうちに肘をついたり・・・」と言う部分。

肘をついていることに気が付いて、慌てて手をおろすと言うことが、まだ、結構あるなぁ。

それは、肋骨を支える力が足り無いってことかも。

大きく前に出ている肋骨は、後ろにある1本の背骨のアーチの弾力をもって支えねばなりません。そして、背骨の土台としてすべてを受け止めているのが、骨盤。

骨盤の負担が大きくなると、肘をついたり、足を組んだり、何かに凭れたりするようになる。
その動きが、ねじれとなって、骨盤に一層無理な力をかけてしまうようです。

最近、背もたれによりかかったり、足を組んだりが無くなってきたけれど、ともすると、肘をついているなぁ。

まだまだ、いろんなところに負担がかかっているわけで、その元凶を、井本整体で、正しい位置に戻しているわけです。

私の場合は、喉の当たりに問題ありと言うことは、それは、どう考えたらよいのだろうか。

ひざの痛みにしか興味の無かったのだが、本当のところは、膝ではなく、別のところにもあったという訳なの?

痛みを発する膝から出発して、太もも、股関節、肩から喉へと、先生とお話をする部位が、どんどんと変わって、動いて行く。

それって、核心に近づいているってことなの?

うーーーん、だんだんと面白くなっていく。

どこに向かって行くのか、興味津々。

一筋縄ではいかない、体の物語は、動きだして、面白いエピソードを聞かせてくれるらしい。
それは、とりもなおさず、楽器としての体の物語でもある。

死ぬまで鳴り続ける楽器の「想像」、「創造」、「創作」、「捜索」、「探検」、「探索」「ねじれ」、「もどす」、「のばす」 「もどす」 どの物語に、興味がある?

生まれた時の、束縛の無いからだに、戻れると思う?

ねじれや、拘りが、大人になるの言葉の呪縛から、柔軟性を欠いて今の体になったのを、元に戻すには、何が必要なのだとおもう?



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喉のつまり

2020年08月28日 | 体を整える
今日の収穫は、後頭部に意識を集中して行う体操を教えていただいたこと。

会話の中から、問題点を拾い上げるようにして、指摘くださいました。私の、不満(主に痛み)を解消するという形で、これまで、改善方法を指摘して下さったのですが、こんな形で、体操を教えていただくのは、初めてかもしれません。

その体操を行うと、頭の縛りが無くなって、何時も頭の中で鳴っていた音が、消えていくようでした。

「騒音になれていて、その音が無くなって初めて、騒音があったことに気づき、その騒音に対して意識しなかったストレスがあったことがわかる」というような図式。
頭と体の連携は、すれ違いがちと言う例の問題。

これは、喉へも影響があって、詰まっているようです。
これで、喉に関しては、二つのアプローチがあるということがわかりました。
これでは、伸びやかな声は出ないでしょうね。

こんな大きな気づきを下さったので、せっせと体操に励みましょう。
ただ、先生は、ちょっと難しいのですがとおっしゃりながら、教えてくださっただけに、微妙なところで、ャCントがずれてしまいます。
さらに、右手の動きから、左手の動きに移るとき、右の手の動きと角度で、せっかくャCントを掴んでいても、左手を動かそうとするちょっとした気持ちの動きにも、ふっと気が緩んで、目標を失ってしまいます。

はじめは、先生のサメ[トがあって、やっとできるのはいつものことですが、これは、特に家に帰ってやってみても、思いだすものがない。

こういう場面は、症状が生半可ではないということです。
ャCントを捉えるまでには、いく度となく、サメ[トを得ながら、繰り返すしかありません。

繰り返して、わけがわからないままに、体操を行っているうちに、やっと認識できる。
騒音を騒音と認識して、やっと、次の手が打てるわけです。

そういう、メカニズムがわかってくると、見えない、手ごたえがないものに使づいて、色を付けていく作業が、面白い。
色がついてくると、的となって、認識できる。そうなると、こっちのもの。

今、楽しく加減をしながら、体操ができるようになった部分については、面白いほど、改善が始まる。
あくまでも、心地よく感じるところで、ストップ。やりすぎはいけません。

気持ちが良いと感じるャCントは、角度、力の加減など、すべてが弥次郎兵衛みたいなばらんすで、生じるものであることが、またまた、わかってしまった。

無理やりとか、頑張ってとか、目いっぱいなどと言う表現は、そこには、無い。

そこに向かう気持ちは、脱力して、こだわらないことなのだと思う。



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マイクではなく拡声器

2020年08月28日 | 徒然に日々のことを
マイクではなく拡声器で、検索をしたら、格安で、目的のものがあった。

マイクとは、集音であったのだ。

見つけられるはずがなかった。

パソコンを始めたころは、検索ワードが適切ではないと、なかなか目的のものがさがせなかったものです。
お気に入りにいれることを忘れて、同じところに飛んでいこうとして、記憶では同じ言葉を入れたはずなのに、どうしてもたどり着かないことがあった。

最近は、いい加減にいれても、スペースで重ねて検索ワードが受け付けられるから、検索は、とても簡単になった。

それでも、マイクと拡声では、逆意味であたことが、探し物の失敗で、初めてわかる。
お笑い草だねぇ。
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ダメだった

2020年08月26日 | 詩吟
アプリをいれて、マイクを自信満々で、使ってみたけれど、声が二重に聞こえて、だめだった。

電波を飛ばすのは、音楽だけに有効なのかも。

線で実直に(?)つなぐのが、一番いいのだねぇ。

再考。

今日は、律詩をいたしました。
長い詩を、一回の練習で行うのは、抵抗がある様です。
絶句のように、丁寧な練習にならないからです。

いままで、お稽古の時間内で、納得の行く練習ができたのは、個人練習に等しい人数だったからです。
それと同じ満足度の練習を10人近い人数で、行うのは、私の力不足で、出来そうもありません。

できたら、2.3人ずつに分けて行いたいくらいです。

そして、昨年のグッドタイミングな同時三名入会などと言う幸運は、先ず来ないでしょう。
一人いる新人さんは、別の会(はじめの一歩)の練習で、スキルアップしてもらうことといたしましょう。
別の会の所属のない方には、特に、懇切な練習を行う必要があるので、何か考えるとします。

補習という形の、時間をとることにしたのは、どうしても時間内にできないことを、置き去りにできないということと、自分の練習時間をとりたいということ。

皆さん熱心なので、私一人の時間は、無理そうなので、本会の前に取れた1時間は、私だけの時間にしていただこう。
やはりスタートは、皆一緒にスタートがいいものね。

話の時の、音量はできる限りしぼりたいのですが、マイクの失敗で、できませんでした。
大きな声を上げようとして、喉に力が入ります。
こんな間違った発声をしているなんて、がっかり。
基本の基をうたった教室なのに。

さて、私の改善が進めば、三、七の七の音が、くっきりとだせるようになるはずです。
ちょっと、自分にがっかり。



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大笑いで吹き飛ばす

2020年08月23日 | 徒然に日々のことを
少しずつ外出が増えて、それにつれて、家族の留守番が増えてきました。
初めて、夫の方が在宅時間数が長くなりました。
こんなことも起こり得るのだね。


さて、今日は、中央会の後、まっすぐ帰ったものだから、ゆっくりと食事をしながら、土産話を展開。

今までは、聴こうともしなかった芦孝会のあれこれを興味深く聴いてくれます。
そして、吟詠のいろはは、知らないものだから、本筋から離れた話の方に、傾いていきます。

今日は、昇段試験だったのだけれど、そんなことには、興味のない留守番の人だから、気のない返事が返ってきました。

それで、帰りのエレベーターに乗る時のエピソードを話すと、手をたたいて、
「そりゃあ、きらわれたもんだね!」と、大笑いされてしまった。

大笑いのおかげで、憮然としていた私も、つられて、笑ってしまいました。

今まで、運営面の話には、載ってきましたが、下世話話にも、耳を傾けるようになったね。

留守番が長いと、そうなるのかねぇ。

さぁ、リセット。

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心身と頭

2020年08月18日 | 徒然に日々のことを
阪井修一さん《歌人・情報科学者》の奥様は、不思議な直観力をお持ちだそうです。
(2020年8月2日(日)”うたごころは科学する” =日経新聞=コラムより

奥様は、まだ、それが定説ではなかった40年も前に、「鳥は恐竜の子孫」だとわかっていたそうです。
どうして?と尋ねても、「当たり前じゃない。みればわかるのよ」とこたえが帰って来たそうです。

片や、科学者の夫は、帰納と演繹を何度も繰り返して確認してからでないと、不安で前に進めないのだそうです。

これほどに、両極端の人がいても、家庭は成り立ち、世の中も成り立っているわけです。
だからこそ成り立っているともいえますね。

わけがわからなくても、心地よければ、直感で、「良し」とする私は、感覚のみで、選択して、果ては、「これいいよ」と人様に平気で勧めている。

それを長く信じて、破たんが無いということは、そんなにも前の選択が間違ってなかったってことよねぇ。

きっと、阪井さんタイプの方は、長い時間をかけて、帰納と演繹を重ね、繰り返し確認してから、「大丈夫かも」と、やっと、分かってくれるのだろう。

それを、遅いといったり、意外に早かったとか、判断をしてはいけないのだろう。


この記事を読んでから、確実に、「遅い、まだ?」と言う感覚薄れてきたように思う。

そのように、一歩も二歩も引いた立ち位置でいると、意外にも、向こうから、声がかかってくる。

それが、ちょっと、うがちすぎかもしれないが、らんらんと輝かせた眼からは、いったんは、逃れたいものだからね。

そして、この切り抜きの隣には、「猫を待つ」という東山彰良さんのエッセイがある。(2020年7月19日(日)日経新聞文化面)
これにも、「慌てず騒がず、風向きが変わるのを待つことだ」という記述がある。

今の、ゆっくり流れる時間の中に身を置いていたから、この二人の人の書いたものが、勝手に私の中で、繋がった様です。

せっかちな私にも、「ゆっくりと待つ」気になって、それによって、暖かさと、豊かさとを感じることができました。そうして得た繫がりは、ゆるぎないものとなるだろうということを。

心身という言葉があっても、体と頭、あるいは脳という言葉はあったかしら。

心と体は一体となることが出来るが、脳で帰納と演繹を繰り返したことがらについては、心身と書き表すように切り離せないものとは、成らないのだろうか。

理屈で、わかった事や証明できたことを体は、どのように受け止めて、反応するのだろうか。

突き詰めていくと、脳と心とは、一体化するのだろうか。

最後には、するのかもしれないねぇ。



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マイクロフォン

2020年08月16日 | 詩吟
その名の通り、「マイクロフォン」というアプリで、スマホをブルートゥース・スピーカーとセットして、拡声器として使えることが、遅ればせにわかりました。

広島のニュースをみていて、スマホを口に構えて講演ををしている人がいたのです。
さては、と思いました。

アプリは、いくら、たくさんあっても私に取っては、無用の長物と思っていましたが、ちょっとした、ヒントやキーワードと、要望があると、たちどころに望みを叶えてくれるものなんですねぇ。
ブルーノマイクロフォンというアプリもありますが、有料なので、こちらにしました。

アプリに使われないようにしなくちゃね。


 

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ノド仏

2020年08月16日 | 詩吟
   野村萬斎著 「狂言サイボーグ」日本経済新聞社刊

萬斎さんの首は、長いのだそうで、トロンボーンを想起してしまうそうです。
なぜなら、発声する声の高さによって、ノド仏の位置が変わるからです。


そうだったんだねぇ。やっぱりノド仏の位置って、変わるのよねぇ。
高い音の時は、私は、つむじに抜けるように出すのだけれど、低い音の時は、喉を開くようにしているつもりだったんだけど、それって、ノド仏の位置を下げるためだったのか。

高い音から、急に低い音に下がるとき、声が濁るのは、高い音のためのノド仏の位置で低い音を出すからなのかもしれません。
音程を変えるために、ノド仏の位置に頓着するなんて、考えたこともないからねぇ。

ゆっくりと降りてくる時は、意識しなくて、そのように動くのだろうけれど、素早く音程を下げなくてはいけない時は、しらないから、それができてなくてやみくもに音程だけを追求していたんだねぇ。

それが顕著な方に、どのように伝えたらよいのかわからなかったのですが、このことをお伝えしたら、わかっていただけるのでしょうか。

発声練習は、声に特化しているようだけれど、本当は、体の動かし方の訓練なのよねぇ。


発声について、専門的に習わないで、朗読の延長で、詠うと、このようなことが起きてしまうのでしょう。

見よう見まねで、身につけてきた、怨みとでも申しましょうか。

階段を上り下りする発声練習では、出来ないことが起こっているわけです。

何の意識もせず、そのコントロールのできている天才的な発声巧者もいるので、「あれ?おかしいなぁ」で、やり過ごしているらしい。

体のことから、アプローチしている私に取って、すごいことを教えていただきました。

もっと、体の使い方について、習熟して、見てわかる発声を身につけなくては。
声を出せないでいる時に、よくぞ、発見をしたものだ。

目標ができて、体も喜んでいるなぁ。
補習授業では、自分の時間もきっちり確保しよう。


この本、読み進んでいくと、体と声の関係が、良く表れています。
そして、「漢字」と言う章もあって、興味が湧くことばかりで、面白くてしょうがない。

題名についた「サイボーグ」の意味が、解明されて行くらしくて、うずうずしています。

そして、かつて、狂言師のところに、お話を伺いに言ったこともあったねぇ。
あの時は、せっかくのお話から、学びきれなかったなぁ。。。


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会議室二つ

2020年08月12日 | 詩吟
今日の、部屋は、BとCの会議室を二つ借りました。

今日の出席者は、10人。

フェイスシールドに、少し慣れてきたのだけれど、手が当たる音は、耳に衝撃が来る。
自分の声は、自分の意識下で出る音だから、わかるけれど、衝撃音は、予期せずして起こるから余計に大きく響くのだと思う。

幹事さんが用意して下さったマイクは、マイクスタンドがあって、使いやすい。
通常の講義で、マイクを使うのは、初めてなので、自分の声が、どのくらいなのか、わからなくて、落ち着かない。

今日は、絶句一題。
9人の人の、お稽古は、休憩もいれて、私としては、駆け足になる。
休憩はとらずに、続けたいのですが、まじめな人は、途中退席になるし、席を立つタイミングがわからないと、全員の休憩を望まれる。

休憩の余韻と次の立ち上がりに、時間をとるので、5分のつもりが10分のロスとなる。

それをロスと考えない、おおらかさを、持たねば。

そんなこんなで、2時間の配分に、悩んでしまう。
決められた時間内に、てきぱきと、こなすのも、リーダーとしての役目なのだけれど。
どうしても、伝えたいことに、口を閉ざせないものだから...
それで、おけいこの後に、もし、取れたら、延長で1時間の予約を入れてもらうことにしました。
そうすれば、ぎりぎりまで、練習をしていられるし、残りの時間は、私の練習に使えるから。

とは言え、補習を望まれる方がいると、そちらの要望に応えることになって、私の時間は、無くなってしまう。

松風の公式練習は、3時間ほしいなぁ。。。。。

2時間なりの練習をするしかないのだけれど。

先輩たちがまじめすぎるものだからねぇ。

まだ早いのに、自立したかのように思う人と、もう自立しても良いのに、自立したくない人と。
采配が、まずいなぁ。  
                        僕は時間はいくらでもあるんだよ。

これが正解というやり方は無いねぇ。

とりあえず、今のところ、1時間の補習時間がほぼとれているので、私の「足りない・足りない」をなだめることが出来だのだけれど。

時間の短い教場のまじめすぎる会員さんとの、ちょっとした、やりとり。
今は、補習で、補ってます。会場の使用料が安いので、出来ることです。おかげで、助かります。




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