風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

挨拶状の挿絵

2017年05月30日 | 詩吟
関吟ニュースに添えて、挨拶状が封入されていますが、野田芦孝会長の挨拶状には、芦孝会会員のS先生の季節の花の絵が、彩を添えています。

まとめてご紹介するのは、2回目です。

まず、27年6月から28年6月まで


そして、28年7月から29年6月まで


始まって以来、3回ほど、インターネットのフリーサイトからイラストを頂きました。
一度使ったものは、使わないでいたいと思っていたのです。

今は、考えを改めました。

何度目であろうと、S先生の絵だけを使わせていただこうと決めました。


身の周りの、今咲いている花を描くと決めていらっしゃるので、たくさん咲く季節では、出番を待っている花たちがいたかと思うと、花の種類の少ない季節は、何度かお出ましいただくこともあります。

それも良し。先生、いつもお世話になります。


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ひろったことば

2017年05月30日 | 徒然に日々のことを

ひとつの方法だけを〝信仰 〟しないで 、もっと臨機応変になればいい 。
と、言葉を拾いました。大いに感じるところがあって、日記に書きに来たら、

この映像を、ヤフーの
  ”あなたは知ってる? Twitterをにぎわす話題”から、見つけました。





「葉書が値上げされると、この出し方はできなくなるので記念に。」とのコメントです。
(この記事は、大方の人が、ごぞんじでしょうけれど。)

別の意味で、この言葉に動かされたのだけれど、切手のほうがあまりに面白くて。
この人は、臨機応変なのか、とんちがきいているのか、数学が得意なのか、偶然だったのか、あれこれ思いめぐらして、楽しかったので、載せちゃいました。


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新しいもの

2017年05月27日 | こたろう語録
新しいトイレがとどいたのが月曜日。
今までのものとは、形状と入り方も違っているので、僕は、承知しがたかった。

 だってね、今までのは、横から入るのに、上から入るんだよ。

僕は、まだ、ジャンプ力があるけど、人間でいうと90歳にちかいってことわかってる?


だから、一日目は、「おし○こ」だけしかしてやらなかった。

母さんは、何度も覗いて、「まだしてない」と言ってたな。

   ☆ その日の母さんの日記 ☆
 猫のトイレ砂の飛び散り軽減のため、新しいトイレを注文し、今日届きました。

上からトイレという、人間にとっては、画期的なのですが、こたろうさまにとって、いかがなものでしょう。

もぐりこむのが好きな猫様のことですから、お好きなのではないかと期待をして、購入を決めたのですが、元のトイレに入っていた猫砂を入れて、全くの新品の風情はなくして設置しました。


すでに五時間経過。

お使いいただく気配なし。

同じ形のものだったら、とっくに使用済みのはずだけれど、お使いいただけないのでしょうか。

明日の朝まで、様子を見ましょう。


二日目、まだしない。

三日目、僕も我慢の限界が来て、とうとう、やっちゃったんだよねぇ。「う○こ」を。

でも、期待に沿わずに、一旦蓋の上に上がってからなんて、してないよ。
ダイレクトジャンプで、出入りしてるよ。エッヘン。

肉球の間に挟まった猫砂がね、上の台のに溝が切ってあって、そこに入りこんで、飛び散らないって発想なのさ。
お生憎だったね。

昔のは、ドーム型の蓋と本体との間に、液体が入って、聡怩ェしにくかったけど、今はそんなこともなく一面の壁だから、するりと拭けて、母さんは楽になったさ。
猫砂の飛び散りは、うーん、期待ほどではないけど、心なしか少ないと思いたいみたいだね。

僕は、往年のジャンプ力はさすがになくなったけど、これくらいのダイレクトジャンプは、まだまだ余裕で、できるからね。

めでたく、新しいトイレも市民権を得て、それぞれが心地よく感じられるようになったよ。


さて、「うんこ」って言葉は、使うのにはばかるけれど、ちまたでは、「うんこドリル」ってのが、大流行で、子供に人気なんだってさ。
子供って好きなんだよねぇ、それをドリルにした人も面白い発想をしたもんだ。
なんだかねぇ。

うちの姉さんたちも、五味太郎さんの絵本なんかを楽しんでたみたいだけどね。
久し振りの僕の語録なのに、びろうな話で、すみません。


トイレ騒動が終わって、ぼくは、また、一つ心地よい場所を見つけた。
モンゴルの風を感じながら、窓際で、新しいマットレスを横取りして、お昼寝~♪
この体の伸び具合を見たら、もう夏だとわかるでしょう?


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井本整体メルマガ

2017年05月27日 | 体を整える
届いたばかりの「人体力学・井本整体のフシギ vol.35」から

深い呼吸が入ると、いつの間にか心も変わっている。

体と心は、いつも一体になって働いているのです。




昨日の、青葉の練習では、体操をもう一度見直して、丁寧に一つ一つの動作を復習しました。

手を挙げる時、反動をつけないというのがまず大事です。
だらりと下げたその場所から、片手ずつ、左手は右方向へ、右手は左方向へ、体に沿って持ち上げていきます。

すると、二の腕が脇にかけての筋肉を誘いあげて、上にもちあがり、働き始めるのがわかります。

反動を付けて腕を上げると、一挙に肩先まで腕が上がってしまって、それらの動き則ち効果が何も感じられないと思います。

反動をつけたり、体から離れたところを持ちあげると、ブルンと腕を回しただけになります。



それを注意して行うだけで、汗をかきそうなくらいの運動量となります。

運動の苦手な方でも、たった1回の腕を上げるという動作で、それだけ効果が得られます。

それで一連の次の動作を終えると、自然に深く息を吐くことができます。

深い息を吐くから、十分な息が入ってきて肺を満たすことになります。




からだが、すっきりして、動き出したこと、腰でしっかりとまっすぐに体を支えていること、上半身は、リラックスしていること。

そういう、体を楽に自然に作ることができました。


まず、思い切り息を吐くこと、
そうすれば、深く息を吸うことができました。


日頃行っている体操が、丁寧に行うと、こんなにも体が喜ぶことを、改めて感じて共、に喜びました。

そして、練習に入る前のざわついた気持ちを、練習に持ちこむこと無く、スムーズに練習を終えることができました。

そう言うことなんですね。

此の処、心と体について、考えていたので、メルマガの言葉で、弾みが付きました。

たまに届く、井本整体のメルマガは、とても、心と体のためになります。



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蘇嶐窯作陶展

2017年05月25日 | 徒然に日々のことを
日本橋木屋本店 izutuki で開かれた蘇嶐窯作陶展に行ってきました。
蘇嶐窯のブログhttp://soryu-gama.com/blog
もうすでに更新されていました!

見たことのある作品が、izutuki の白い壁面と、計算されて、配置されている白い小さな棚に、しっくりと並んでいました。

俯瞰してしか見ることがなかった作陶が、とても高い位置におかれた薄いプレートの棚におかれると、作品を下から仰ぎ見ることができました。

はじめは、驚きましたが、手に取って作品の後ろ側を見るのと、離れた位置に浮かんでいるようなのを見るのでは、ずいぶんと感覚が違って、興味が湧き興奮しました。

お聞きすると、上に展示した作品から、一番に気に入られて、お持ちになった方がいたとのことでした。

izutuki の展示方を一度でも見た方は、なるほどと思われることでしょう。

    (見たことのない方は、上のリンクからHPでご覧になってください。)

展示室から離れた場所に、飛鉋の手法を動画で見せて、道具と作品とが展示してありました。
せっかくの動画のタブレットが、明るいところにおいてあるので、映像が見にくく、近づくと画面に私の顔が写ってギョッとしました。一人で苦笑してしまいました。

青瓷飛鉋の作品が、より興味深く魅せられるのに、あれでは、もったいないと感じました。
あの動画がはっきり見えてこそ、道具を展示した意味と、作品の奥深さがわかるのに。
唐突に、二つの青磁が、並べてあるという風に最初は、見えて、残念。


それにしても、木屋の商品の上質で、美しいこと。
鶴のはさみは、刺繍をする人には、糸を切って作品の出来上がりを見る時、心躍ることでしょう。

話を元に戻して、青瓷飛鉋重ね鉢 3客組は、やっぱりいいなぁ。

兜ェ飛鉋は、二つの釉薬を上と下にかけ分けて、その間を釉薬のかからない土のままの色が柔らかい色調をまるで帯のようにきゅっと締めている作品は、着物姿を思い浮かべます。



色と形だけを重視した展示法は、視覚的には、素晴らしい。
まだ、蘇嶐窯を知らない人に向けて、目を奪うには、とても良い展示場所だと思う。

でも、人によっては、後ろの苦労を知らないままで、ただ、気に入って手に入れたものを幸せに使いたいという人もいるでしょうから。

展示の仕方も、それをプロデュースするかたが居らっしゃるのですね。
そんなことも初めて知りました。
作家さんとその方との、意思の疎通と作品への愛が、どれだけ、通じあえるかが、大事ですね。


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12人の思想家

2017年05月22日 | 論語と
中国の古代思想家の歴史の最初に出てくるのは、管子。
 孔子は、管子の没後90年に生まれています。

「管鮑の交わり」という親友同士の関係を表した言葉にある、「管」は、管仲(管子)のことであり、「鮑」は、鮑叔牙のことです。

詩吟でもよく吟じられる杜甫作 「貧交行」の転句に『君見ずや管鮑貧時の交わり」と出てくるのがこの有名な史記にあるお話です。

敵味方にわかれた時点で、決裂するはずの関係が、管子の才を十分に知る鮑叔牙が管子の命を助けることとなりました。

管子は、鮑叔牙の「小さな筋道のことで恥じるより、天下に名を表さないことのほうが恥だ」と言う言葉に殉死を思いとどまり、生きて才能をさらに伸ばすことになります。

その管子の言った言葉の中で、心に残ったのは、「義」について。
講義の中で、度の教科書にも使われていない言葉で、説明をなさいました。

その言葉がずっと引っかかって、頭をぐるぐる回ります。
自己宣伝とは、ある意味、自己紹介もやり方によっては、自己宣伝になるよね。
その、境目というのは、どこなのだろうと。

それは、須藤先生の講義をお聞きして、わかってきたことは、すべて、他人が決めることではなく、自分で決めるのだということ。

そうなのだろうけれど、その時々によって、境目は、違ってくるだろう。
その境目を決めることこそ、まだ、物事が本当にわかっていないってことだ。
「手放して、つかみとる」またか。

この言葉は、物事を知れば知るほど、ついて回って、何事も人任せではいけないと迫ってくる。

待てよ、今日の学びのもう一つは、漢字に対して持つ自分のイメージ、時代のイメージが変わっているという発見がありました。
これも、大きな発見で、おかげで、またまた、わからない混沌に放り込まれた。





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興味を持って尋ねる

2017年05月19日 | 体を整える
「此の処、体調が良いような気がする。どこがどう、とは説明はできないのですけれど。。。」と、山田先生にお伝えすると、季節が夏に向かって動き出しているとき、不調を訴える人が多いのに、体調が良いとは素晴らしいと、言って頂きました。


前回やむを得ずお休みだったので、さぼりがちだった整体体操をせっせと行ったこと(体)の成果なのか、あることで、先生に私の整体へのかかわり方がとても良いと認めてくださったこと(心)からなのか、確かにはわからないのです。
気持ちと体が軽いのです。

そのほかにも、ちょっと考えることがあって、そのことの解決を得たからかもしれません。
心と体は、自然体でいるとよく回り、感受性が高まるのだそうです。

悩みかけた時に、ふと、目に入ったものに、大いに興味をそそられることがあります。
それは、悩みから抜け出るためだけで手に取ったのか、それとも、それが、答えだったのか。
楽になりたいがゆえに目をそらしただけだったのかと考えてしまうことがあります。

そんな時に、言ってもらう言葉は、「手放して、選ぶ。」「お義姉さんは、選んだんですよ。」と。

その義弟は、お寺さんの修業をした人なので、たまに会うときには、天気の話は、すっとばして、いきなり、お互いに少し深い話をすることがあるのです。

義妹曰く、「お姉さんは、彼のたった一人の檀家さんだからねぇ。」と言う。
なるほど、そうですねぇ。
信者ではなく、「檀家さん」という表現がとても気に入っています。

赤玉の鳥井さんが、高僧から示唆を受けたように、私は、この義弟から気が付くと、肝心な時に、ヒントや答えをもらっています。

そして、山田先生からは、体の調整を受けながら、良い循環を得た時に、良い気づきが自然に生まれています。

お二人とも、私から、問いかけをしない限り、あちらからは、何かを言ってくることはない。
誘導もなさらない。

私も、このお二人のように、何かを言ってこなければ、言葉を発しないという修業を、始めたほうが良いなぁと、気づきました。

聞きたいと思わねば、耳にさえ届かない。
おたずねしたいと思うからこそ、拙い言葉も届くのだということが、やっと、わかってきました。

それには、私自身の覚悟として、「わかりません」ということを、素直にキチンといえることも大事だと、思います。

体を整えると、心も整ってくる。
心は整えにくいけれど、体は、とても正直に反応し、まっすぐに答えをくれる気がします。

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菜根譚 108番

2017年05月18日 | 論語と
怨因徳彰。    怨みは徳に因りて彰わる。
故使人徳我、   故に人をして我を徳とせしむるは、
不若徳怨之両忘。 徳怨のふたつながら忘るるにしかず。
仇因恩立。    仇は恩によりて立つ。
故使人知恩、   故に人をして恩を知らしむるは、
不若恩仇之倶泯。 仇恩のともに泯(ほろ)ぶるにしかず。


「感謝も怨みも受けぬがいちばん。」


そうは言っても、人を喜ばせたいと思うのです。
それで、一人を喜ばせると、他の人は、怨みを抱くもの。
だから、感謝も怨みも、共に忘れてもらうのが一番だ。

洪自誠は、そう言うけれど、怨みはいらないが、感謝はされたいなぁ。
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31番と31≠Q番

2017年05月18日 | 詩吟
あぁ、すごい。
今日の課題吟は、富士山。
はじめの一歩で、取り上げるのは、二度目。
富士山を、習ったことのある人は、5人の内一人だけ。

その一人の方が、承句の「洞中」の吟じ方が、最初に習った時と違うような気がするとおっしゃいました。

そんなに、記憶にとどまるほど、熱心に習っていてくださったとは、そして、何て音感の良い方なんだろうと、驚きました。

吟法とか、譜名とかの説明は一切しないで、口移しの方法で、聞いて覚えていただいています。これで二度目の吟法がどのくらい定着しているのかは、初めて知りました。

この能力を、何とか引きのばしたいと欲を出しそうになりましたが。
そうそう、今日の菜根譚の言葉に、ほどほどに、という学びがありました。

今日は、初めて、関吟色を出して、関吟ニュースをお見せしたり、吟剣詩舞の大会などもありますよというお話をして、はじめの一歩の教室の外の世界を、垣間見てもらいました。

少しずつ情報をお伝えして、興味を持たれるようなことがあったら、開示していこうと思います。


話が横にそれました。
平成26年では、まだ、富士山は譜№31番だったのです。
そして平成29年の今は、「関吟の会歌」だけに残してある譜であり、今は、すべて31≠Q番に統一されています。
それを忘れて、当然の如く、譜№ 31ー2で吟じたわけです。

帰宅して調べてみると、メモには、27年7月1日実施、28年3月31日までは猶予期間が設けられているとありました。

ですから、26年の4月に発足したはじめの一歩の三番目の吟題の「富士山」は27年の2月に習いました。
その時には、まだ31番だったわけです。

そして、関吟らしい31番が、関西吟詩文化協会会歌の中にだけ残されて、それ以外は、31-2に統一されるなんてことは、思いもしなかったときです。

その時の、31番の「洞中の」を、しっかり覚えていてくださったわけです。

懐かしくうれしく、そして、31番が、事実上なくなってしまったことに、残念としか言いようのない感覚を覚えました。

私の言う「関吟らしい」は、初めに洗礼を受けた吟法ということなのかな。

「はじめて」というのは、忘れられませんよねぇ。


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蘇嶐窯展 告知

2017年05月17日 | 徒然に日々のことを
 お~~い、みなさ~ん 
   らいしゅうからですよ~


        5月25日(木)から 6月21日(水)
     日本橋木屋本店 izutuki  にて


            素敵な器たちにまた、会えると思うと楽しみです。




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