11日の記念大会では、9人の県短吟詩部OGが集まり、指定された席で、吟詠を聞きました。
初代の先輩が一人、次が三代の私、以下四、七、八、十五代が揃いました。
永井先生が岡大の第三代、私と同級生が11代、ということは、短大吟詩部と岡大吟詩部は、10年ほどしか違わないのですねぇ。
本来なら、私たちも、50周年を祝っているはずでしたが、残念ながら、吟詩部は、今はありません。
なぜなら、短大が四大になったとき、吟詩部を受け継ぎ存続することができませんでした。
平成7年1月29日に閉部式が計画され私も出席を予定していましたが、その直前の17日に起きた阪神淡路大地震のため、交通網が遮断され、出席が叶いませんでした。
そのため、そのとき、明らかにされるだろうはずの閉部に至ったいきさつなど、そして、終わりの儀式をこの耳で、この目で確かめていないので、私の中では、まだ、県短吟詩部は生きています。
そんなわけで、私の中では生きていても、本当は、平成7年に30年で、その歴史を閉じています。
翌朝の帰りの窓から富士山
さて、現在の五似ん会は、現役時代は第三代五人組として、勇名を馳せましたが、卒業後にも部室に通ったのは、市内に職を得た私一人だけ。
それぞれは、仕事に精力を傾けました。
そして、それから、50年。
今、私が詩吟とかかわりを持っていることを一番驚いているのが、永井鈴木の両先生でしょう。
だから、こんな時に、出席の報を入れると、手放しで喜んでくださるのです。
今も、永井先生の教場に通い、こまめな連絡をくださったのが、第八代の後輩で、とても喜んでくださったのを、教えてくれました。
結婚で、詩吟とはもうおサラバと思って、新生活にぜんりょくをそそげたから?
遠く離れて、詩吟をしていないことを気に病むことがなかったのが良かったのでしょうか。
のんびり、マイペースで、かかわれたのが、良かったのでしょうか。
そのほかの後輩のうち第七代の二人は、今では、お座布団付きのバッチの指導者資格をもち、それぞれの道をまい進中。
ある人は、この上なく厳しい指導を受けているというし、ある人は、一緒に集まって声を出しているだけです。ずいぶん長いからなんでもわかっているので新しいことを習わなくてもよいし、、、なんて、さらりと言う。
詩吟だけでなく、他の分野でも相当の精進をなさっているとのこと。
その腕前を、次の機会に見せて頂くのを楽しみにしています。
そのほかは、仕事に、漢詩つくりに、それぞれ、自分の道を見つけて、楽しみながら、その生活に誇りを持っている。
なんて、いいんだろう。
こんな後輩たちに会えて。
たった一人の先輩は、早くに逝かれた同輩を胸に置いて、参加され、思い出話をする。
その思い出話とは、第三代の五人は、よくそのなくなられた先輩に叱られましたよねぇ。
鈴木先生の、薫陶よろしく結束の堅かった私たちは、何をするにも目立ち過ぎていました。
そして、岡大の男子学生と同じような行動をしていましたから、だって、先生は、「三年分はおしえてやる!」と意気込んでいらっしゃいましたし。
私たちは、それに、ちゃんと応えているという自負がありましたもの。
女性らしくたおやかでいらっしゃった先輩には、耐えられなかったことでしょう。
それも、思い出話。
今回、私たち五人が、先輩に反抗していたわけでもなく、目立ちたかったわけでもなかったのが、わかっていただけたことでしょう。
「先生のおっしゃる通りにしていただけ」の私の言葉が、今でも現役に負けない吟をなさるお二人の先生をまのあたりにして、ストンと胸に落ちたようでした。
50年を経て、初めて、この先輩は、私たちは無茶や無理をしていたのではなかったことをわかってくださったのかなぁと、思いました。
そして、最後まで居てくれたグループとの別れが何とも言えない幸せなものでした。
言うに言えない、気持ちの交流があって、その時間が、豊かな時間と感じられたのは、私だけだったでしょうか。
なんて、素敵な人たちなんでしょう。また、会いましょうねぇ。