熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

七月大歌舞伎・・・團十郎・海老蔵・梅玉の「勧進帳」

2011年07月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   海老蔵復帰の舞台としては、成田屋の十八番で、ご両人が主役として並び立つ「勧進帳」が、最も相応しい舞台と言うことであろうか。
   先年、パリ公演でも話題となり、パリッ子を唸らせたと言うのであるから、話題性も十分である。
   何故か、この日は、冒頭の富樫の海老蔵よりも、花道から登場する弁慶の團十郎の方に、大きな掛け声と拍手が湧いたのが、多少、私には違和感があった。
   この昼の部のチケットは、TVで、即日完売と報じており、歌舞伎座が閉鎖されて新橋演舞場に移ってからは、空席が目立っていたので、いわば、異常現象で、お客の大半は、海老蔵の雄姿を期待しての来場だと思ったからでもある。

   この「勧進帳」は、幸四郎や吉右衛門の弁慶や、富十郎、梅玉、勘三郎、吉右衛門などの富樫、芝翫や玉三郎の義経など、色々な舞台を見ていて、どの舞台が良いのか分からずに、夫々の舞台を見ながら、その時々で楽しんでいると言うのが正直なところである。
   したがって、今回は、歌舞伎通が論じている「勧進帳」に対する思いや考え方について、私なりの感想を綴ってみたいと思っている。

   まず、山川静夫さんは、「主役は義経です。義経よりも弁慶や富樫が活躍する時間は長いのですが、「勧進帳」の精神は、義経を守ることに尽きます。」と仰る。
   花道の出と、杖折檻の後で弁慶をねぎらう場面意外は笠をかぶって下を向いたままで、殆ど動きのない義経なので、そう言われても、精神は理解できるとして、視覚芸術の最たる歌舞伎であるから、どうしても、山伏問答の迫力、金剛杖で主君を打つ機転、主従の涙、延年の舞、飛六方と言ったスペクタクルシーンに、目が行ってしまう。
   ところで、小山觀翁さんが、「歌舞伎通になる本」で、勧進帳の「格」による配役表について書いていて、関所の大将富樫から書いて弁慶で終わるのが普通で、更に凝ると最高位の義経から書いて次に弁慶、トメに富樫を書くと言う方法を取る。しかし、そうなると主人公の弁慶が二行目になり、主役としての形がつかなくなる欠点があるので、出演者の地位なども勘案してきめることになると言う。
   今回の舞台は、團十郎が筆頭で、次に、海老蔵、四天王と続いて、トメが義経の梅玉である。 
   さて、これは、何に従った配役表であろうか。

   また、この本で、小山觀翁さんは、富樫について、興味深いことを語っている。
   私も前に振れたことがあるが、関守の富樫は、鎌倉の頼朝の厳命であるから、弁慶の機転と主従の麗しい姿に感激して武士の情けで、義経一行を見逃してやった上に、一行に酒まで振る舞って慰労するのであるから、既に、切腹覚悟の決断であり見送りである。
   このドラマは、富樫人情物語としても立派に成り立つ、むしろ、富樫の心の内の葛藤こそ「勧進帳」の中心テーマとなるべき本質を持つと仰る。
   しかし、現実は、動かし難く犯し難く、弁慶主演の物語である。富樫はワキ師としての分を守ることが、総合演出の至上命令で、弁慶一行に露骨に同情しては、主役が馬鹿に見えるので、東大寺勧進の僧と偽って関所関所を通り抜けようとする男が勧進帳さえ持たない「開いた口がふさがらない」ほど迂闊な男を、忠義無比の人物に仕立て上げたものである。
   この大愚劇が、あれほど面白く感動的なのは、演出の妙を措いて他になく、そこを掴んだ時に、富樫には自然に「型」が生まれると言うのである。

   この主客逆転は、シェイクスピアの「オセロー」にも言えるようで、見方によっては、比較的単純なオテロ―よりも、「イアーゴー」の方が魅力的だし、シェイクスピア自身も一時期イアーゴーを表に出した時期もあると言うし、それに、最近のRSCなどの舞台では、オテロ―は、有色人役者が演じることになっていて、白人は演じられない(このことは、サー・アントニー・シャーに直接聞いたので間違いない)ので、名優がイアーゴーを演じることが多くて、一層、その感を強くしている。
  
   さて、勧進帳をでっち上げる弁慶を、知勇無比の役者に仕立て上げて魅せるところが、勧進帳の魅力だとするとしても、私が解せないのは、主君義経の扱いで、富樫が、山伏一行の頭が、弁慶であると言うことを信じ切っていたのかどうかと言うことである。
   山伏問答で合格して一行が関を立とうとする時点では、富樫が認識していないとしても、弁慶が義経を打擲する時点では、はっきりと主従の認識はあり、それ故に武士の情けを与えて酒まで振る舞って見送るのである。
   そのあたりの心の変化については、海老蔵の場合、微妙にニュアンスを変えていたようで興味深かったが、主客転倒の舞台演出は、そのままであった。
   また、義経が弁慶を許す時点で、四天王が、弁慶の行為を誉めそやすが、そんなことが可能な時代であった筈がない。
   いずれにしろ、これは、弁慶を見せて魅せる芝居に徹した歌舞伎の舞台だと言うことである。
   「歌舞伎芝居や人形浄瑠璃は、芸を見せることに全力が投入されており、筋書きや脚色演出に、多少の不合理や無理があろうとも、「そこが芝居でさァ」それですむ。」と小山觀翁さんが言っているのだから、理屈は止めようと思うが、ついつい、西欧風のドラマ鑑賞の姿勢になってしまう。

   また、小山觀翁さんは、「味わいの深い弁慶とそうでない弁慶を、簡単に見分けるコツを申し上げよう。それは、去りゆく弁慶の姿の中に、情ある関守への、感謝の心が読み取れるか否だ。」と言っている。
   團十郎は、最後の花道で、舞台の富樫の方に向き直って軽く手を合わせ、その後、客席にも手を合わせて、飛び六方で花道を豪快に去って行った。
   しかし、延年の舞の最後に、四天王に近づいて、下手に扇を振って退場を促す仕種をして、義経一行が関を退出したのを確認してから後を追うのだが、表情は殆ど変えない。
   山川さんは、「富樫らが見入っている隙に、主従は旅立つ。」と書いているのだが、切腹覚悟の富樫は、肚が座って泰然自若として、義経一行を見送っているのだが、弁慶には、富樫の命を懸けた武士の情けに多少の疑いがあるとするのなら、小山さんの言う感謝の心も中ぐらいになってしまって、表現が難しい。

   とにかく、團十郎家の十八番の「勧進帳」であり、誰よりも第一人者の弁慶でなければならないと肝に銘じて命を懸けて演じている團十郎であるから、いつも、決定版だと思って鑑賞させて貰っている。
   海老蔵の富樫の匂うような凛々しさも格別で、富樫を演じれば天下一品の梅玉の義経も、威厳と品格があって良かった。
   四天王の友右衛門、権十郎、松江、市蔵も、意欲的な舞台で素晴らしい。   



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