5年間ロンドンにいて、RSCに通い詰めた筈だが、「アントニーとクレオパトラ」を見たことがなく、今回は、久しぶりに、さいたま芸術劇場に期待して出かけて、何時もの蜷川シェイクスピアの世界を楽しませて貰った。
劇場に、蜷川さんの主要作品の展示がされていたが、最初に見たのは、ロンドンで、マクベスであったが、私としては殆ど見ており、随分と、蜷川シェイクスピアの演出も変って来ているのに、その歴史と軌跡を感じている。
ところで、この「アントニーとクレオパトラ」は、17世紀初頭に、プルタークの「英雄伝」を底本にして書かれたようで、歴史的な事実よりも、最初から、フィクションと言うか、シェイクスピアの創作的な要素が現れた作品のようで、ラストは、お馴染みの、クレオパトラが、毒蛇を胸に当てて死ぬシーンなのだが、後の4大悲劇のような悲劇性はない面白い芝居である。
冒頭、家来たちが、クレオパトラの色香に負けて腑抜け同然になった元勇将のアントニーを詰るところから始まるのだが、クレオパトラとの大人の恋の鞘当などが続いて、最後は、気の多いクレオパトラが、アントニーに対する激しい恋心を独白しながら死んで行く結末が面白い。
この時、アントニーは43歳、クレオパトラは29歳で、アントニーの吉田鋼太郎は、正に等身大で、安蘭けいのクレオパトラも、既にシーザーとの激しい恋の経験者であるから、正に、熟年の恋なのだが、どうしてどうして、二人の恋物語は、痴話げんかからプライドのかかった鞘当まで、若者以上に激しく、時には単純である。
激しく恋焦がれて居りながら、クレオパトラの方は、侍女にアントニーの様子を見に行かせて、「沈んでおいでなら私がダンスをしていると、楽しんでおいでなら私が急病だと言うんだよ。」と言うので、侍女に、何事もあのかたの御心のままに、手練手管はダメと窘められるのだが、それは阿呆な考えと一蹴する。
やってきたアントニーを拒絶しながら、綺麗なすらりとした足を太ももまで露出して誘惑、必死になって、迫る鋼太郎アントニーが振り回される。
シェイクスピアの妻に対する扱いが面白い。
アンソニーの妻ファルヴィアが亡くなったのに対して、アントニーの重臣イノバーバス(橋本じゅん)に、神が古い下着のかわりに新しい肌着を与えてくれるのだから、早速神々に感謝の生贄をささげるべきだと進言する。
さて、歴史上名高い絶世の美女クレオパトラだが、安蘭けいは、かっての宝塚星組のトップスターで、男役と言うことで、威厳と女王としての風格は十分だが、私のイメージしていた色香と言うか女性としての生々しい魅力が出し切れていない感じで、中性的な印象が強く、シーザーやアントニーと言う超英雄を虜にした恋の恋たる所以の女としての究極の魅力が隠れていて惜しいと思った。
上手く表現が出来ないが、男が溺れてしまう究極の魅力は、その女性の持つトータルとしての女性力ではないかと思っている。
勿論、安蘭けいは、実に容姿端麗で魅力的であり、私が、欧米の博物館や美術館などで見たクレオパトラ像にそっくりで、一つのクレオパトラの典型像だと思う。
もう一つ考えたのは、シェイクスピア当時は、あの「恋におちたシェイクスピア」でも分かるように、すべて男優が演じていて、クレオパトラも、声変わり前の少年に演じさせていたのであろうから、「完璧で永遠の女性」と言うイメージでも、シェイクスピア自身、そんなものが表現されるとは思っていなかったと思う。
シェイクスピアの修辞や台詞の巧みさ美しさは抜群であると思うが、この戯曲で、イノバーバスが、ローマに帰って来て、同僚たちに、クレオパトラの魅力について、滔々と喋る実に美しくて感動的な長台詞があるのだが、シェイクスピアは、ここで、クレオパトラの本当の魅力を観客に知らしめたかったのではないかと思う。
元々、炎天下の旅籠の舞台や屋根なしの円形劇場で演じられていたシェイクスピア劇は、見せるのではなく聞かせる芝居であったから、それで良かったのかも知れない。
(シェイクスピアは、観るではなく、聴く芝居だったのである。)
そう考えれば、芝居の筋を忠実に追って、ドラマチックな舞台展開を図るためには、安蘭けいのような台詞回しが上手で、演技にメリハリのついたダイナミックなクレオパトラの方が、似つかわしいのかも知れないとも思ったりしている。
この芝居を観ていて、もう一つ印象に残っているのは、シーザー(池内博之)たちローマの3執政官がポンペーの宿敵ポンピーアスとの和解が成って、ポンピーアスの船に乗り移って宴会を繰り広げるのだが、その時、ポンピーアスの家来ミーナスが、3人を消せば貴方が全世界の王になれるが暗殺しましょうかと示唆したのに対して、ポンピーアスは、黙ってやってくれたら良かった、お前がやれば忠義になるが俺がやれば裏切りになると言って制止したことである。
日本の戦国時代なら、ローマの3巨頭が一緒に敵船に乗るような馬鹿な武将はいなかったと思うが、シェイクスピアの騎士道の一端が垣間見えて興味深かった。
さて、この蜷川「アントニーとクレオパトラ」だが、舞台が主に、エジプトとローマだが、舞台展開に、ローマには、カンピドーリオの丘の上のカピトリーニ博物館にあるオオカミ像や将軍の胸像などの彫刻を、エジプトには、古代エジプトの壁画をバックにスフィンクス像とハスの花飾りと言った調子で、上手く舞台展開を図っていて面白い。
蜷川作品にしては、珍しく音楽がなく、あくまで、役者たちの台詞廻しで舞台展開を図っていて、この頃、蜷川の舞台が、一頃のRSCの舞台に近い、非常にオーソドックスな正攻法の演出に近づいているように思うのは、シンプルに総てを削ぎ落して、逆に、役者たちに出来るだけ自主的に泳がせて蜷川節を増幅発展させようとしているからであろうかと思ったりしている。
かっては、幕が上がる前から役者が舞台に出て演じていたり、劇場外の風景を舞台に取り入れたり、エキゾチックな舞台展開を図ったりなど意欲的な試みを多くしていた。
吉田鋼太郎は、日本のみならず、世界にも通用する大シェイクスピア役者なのだが、今回は、ダメ将軍のイメージを出したいと言うようなことを言っていたが、生身の人間的な深みが出ていて良かった。
シーザーの池内博之は、実に溌剌としたパンチの利いた魅力的な執政官で、中々、どうに入った演技が魅力的。
イノバーバスの橋本じゅんは、あの長台詞を滔々と淀みなくものし、それに、アントニーの最も重要な家来でありながら、多少コミカルな道化回し的な演技も冴えていて、実に器用な役者である。
私が知っていた役者は、吉田以外には、侍女シャーミアンの熊谷真美とシーザーの妹でアントニーの妻となる中川安奈だが、二人とも適役であったが、脇役なので、十分に魅力が出ていなかったのが惜しい。
とにかく、非常に良質なシェイクスピアを見せて貰って感激している。
劇場に、蜷川さんの主要作品の展示がされていたが、最初に見たのは、ロンドンで、マクベスであったが、私としては殆ど見ており、随分と、蜷川シェイクスピアの演出も変って来ているのに、その歴史と軌跡を感じている。
ところで、この「アントニーとクレオパトラ」は、17世紀初頭に、プルタークの「英雄伝」を底本にして書かれたようで、歴史的な事実よりも、最初から、フィクションと言うか、シェイクスピアの創作的な要素が現れた作品のようで、ラストは、お馴染みの、クレオパトラが、毒蛇を胸に当てて死ぬシーンなのだが、後の4大悲劇のような悲劇性はない面白い芝居である。
冒頭、家来たちが、クレオパトラの色香に負けて腑抜け同然になった元勇将のアントニーを詰るところから始まるのだが、クレオパトラとの大人の恋の鞘当などが続いて、最後は、気の多いクレオパトラが、アントニーに対する激しい恋心を独白しながら死んで行く結末が面白い。
この時、アントニーは43歳、クレオパトラは29歳で、アントニーの吉田鋼太郎は、正に等身大で、安蘭けいのクレオパトラも、既にシーザーとの激しい恋の経験者であるから、正に、熟年の恋なのだが、どうしてどうして、二人の恋物語は、痴話げんかからプライドのかかった鞘当まで、若者以上に激しく、時には単純である。
激しく恋焦がれて居りながら、クレオパトラの方は、侍女にアントニーの様子を見に行かせて、「沈んでおいでなら私がダンスをしていると、楽しんでおいでなら私が急病だと言うんだよ。」と言うので、侍女に、何事もあのかたの御心のままに、手練手管はダメと窘められるのだが、それは阿呆な考えと一蹴する。
やってきたアントニーを拒絶しながら、綺麗なすらりとした足を太ももまで露出して誘惑、必死になって、迫る鋼太郎アントニーが振り回される。
シェイクスピアの妻に対する扱いが面白い。
アンソニーの妻ファルヴィアが亡くなったのに対して、アントニーの重臣イノバーバス(橋本じゅん)に、神が古い下着のかわりに新しい肌着を与えてくれるのだから、早速神々に感謝の生贄をささげるべきだと進言する。
さて、歴史上名高い絶世の美女クレオパトラだが、安蘭けいは、かっての宝塚星組のトップスターで、男役と言うことで、威厳と女王としての風格は十分だが、私のイメージしていた色香と言うか女性としての生々しい魅力が出し切れていない感じで、中性的な印象が強く、シーザーやアントニーと言う超英雄を虜にした恋の恋たる所以の女としての究極の魅力が隠れていて惜しいと思った。
上手く表現が出来ないが、男が溺れてしまう究極の魅力は、その女性の持つトータルとしての女性力ではないかと思っている。
勿論、安蘭けいは、実に容姿端麗で魅力的であり、私が、欧米の博物館や美術館などで見たクレオパトラ像にそっくりで、一つのクレオパトラの典型像だと思う。
もう一つ考えたのは、シェイクスピア当時は、あの「恋におちたシェイクスピア」でも分かるように、すべて男優が演じていて、クレオパトラも、声変わり前の少年に演じさせていたのであろうから、「完璧で永遠の女性」と言うイメージでも、シェイクスピア自身、そんなものが表現されるとは思っていなかったと思う。
シェイクスピアの修辞や台詞の巧みさ美しさは抜群であると思うが、この戯曲で、イノバーバスが、ローマに帰って来て、同僚たちに、クレオパトラの魅力について、滔々と喋る実に美しくて感動的な長台詞があるのだが、シェイクスピアは、ここで、クレオパトラの本当の魅力を観客に知らしめたかったのではないかと思う。
元々、炎天下の旅籠の舞台や屋根なしの円形劇場で演じられていたシェイクスピア劇は、見せるのではなく聞かせる芝居であったから、それで良かったのかも知れない。
(シェイクスピアは、観るではなく、聴く芝居だったのである。)
そう考えれば、芝居の筋を忠実に追って、ドラマチックな舞台展開を図るためには、安蘭けいのような台詞回しが上手で、演技にメリハリのついたダイナミックなクレオパトラの方が、似つかわしいのかも知れないとも思ったりしている。
この芝居を観ていて、もう一つ印象に残っているのは、シーザー(池内博之)たちローマの3執政官がポンペーの宿敵ポンピーアスとの和解が成って、ポンピーアスの船に乗り移って宴会を繰り広げるのだが、その時、ポンピーアスの家来ミーナスが、3人を消せば貴方が全世界の王になれるが暗殺しましょうかと示唆したのに対して、ポンピーアスは、黙ってやってくれたら良かった、お前がやれば忠義になるが俺がやれば裏切りになると言って制止したことである。
日本の戦国時代なら、ローマの3巨頭が一緒に敵船に乗るような馬鹿な武将はいなかったと思うが、シェイクスピアの騎士道の一端が垣間見えて興味深かった。
さて、この蜷川「アントニーとクレオパトラ」だが、舞台が主に、エジプトとローマだが、舞台展開に、ローマには、カンピドーリオの丘の上のカピトリーニ博物館にあるオオカミ像や将軍の胸像などの彫刻を、エジプトには、古代エジプトの壁画をバックにスフィンクス像とハスの花飾りと言った調子で、上手く舞台展開を図っていて面白い。
蜷川作品にしては、珍しく音楽がなく、あくまで、役者たちの台詞廻しで舞台展開を図っていて、この頃、蜷川の舞台が、一頃のRSCの舞台に近い、非常にオーソドックスな正攻法の演出に近づいているように思うのは、シンプルに総てを削ぎ落して、逆に、役者たちに出来るだけ自主的に泳がせて蜷川節を増幅発展させようとしているからであろうかと思ったりしている。
かっては、幕が上がる前から役者が舞台に出て演じていたり、劇場外の風景を舞台に取り入れたり、エキゾチックな舞台展開を図ったりなど意欲的な試みを多くしていた。
吉田鋼太郎は、日本のみならず、世界にも通用する大シェイクスピア役者なのだが、今回は、ダメ将軍のイメージを出したいと言うようなことを言っていたが、生身の人間的な深みが出ていて良かった。
シーザーの池内博之は、実に溌剌としたパンチの利いた魅力的な執政官で、中々、どうに入った演技が魅力的。
イノバーバスの橋本じゅんは、あの長台詞を滔々と淀みなくものし、それに、アントニーの最も重要な家来でありながら、多少コミカルな道化回し的な演技も冴えていて、実に器用な役者である。
私が知っていた役者は、吉田以外には、侍女シャーミアンの熊谷真美とシーザーの妹でアントニーの妻となる中川安奈だが、二人とも適役であったが、脇役なので、十分に魅力が出ていなかったのが惜しい。
とにかく、非常に良質なシェイクスピアを見せて貰って感激している。