熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

東京茂山狂言会・・・「妙音へのへの物語」ほか、とにかく面白い

2011年10月30日 | 能・狂言
   昨年亡くなった2世茂山千之丞を追悼した茂山狂言会が、国立能楽堂で開かれたので出かけた。
   千之丞が作・構成・演出した「妙音へのへの物語」と「室町歌謡組曲」と言う代表作に、最後の舞台だったと言う「呂連」を舞台にした狂言で、あの、荘厳な能楽堂が、実に、温かい笑いに包まれて、楽しい一夜であった。
   宗彦・逸平人気の所為か、とにかく、若い人からもう少し上の人まで、女性ファンが多くて、会場そのものも華やかで、歌舞伎や文楽とは、一寸、違った雰囲気であった。

   面白かったのは、「妙音へのへの物語」で、御伽草子である「福富草子」を底本にした新狂言で、大辞林によると、「南北朝時代の成立か。放屁の術により福富の織部(七五三)は長者となるが、それをうらやんだ隣家の男がまねをして大失敗する。福富長者物語。」とある。
   狂言の方は、織部の方を主人公にしているが、草子では、織部の栄華栄達を妬んだ隣家の貧乏人藤太(あきら)が主人公で、その妻おくま(茂)の凄まじさが克明に描かれていて、正に、鬼気迫る御伽草紙である。

   この狂言は、ほぼ、福富草子の筋を追っているのだが、藤太が、今出川中納言(逸平)家で大失態を演じて以降の鬼婆おくまが悔しさに狂気して呪詛し織部に噛み付くと言った事後談は省略して、おくまが、失敗して一文の金にもならなかった藤太を「やるまいぞ、やるまいぞ」と追っかけて、その後ろを登場人物が数珠つなぎで退場するところで終わっている。

   京へと国を出たのだが貧窮した織部が、途中で、へのへの仙人(千三郎、左近丸と二役)から、屁で奏でる妙音の術を伝授されて、京都で名声を博して、大金持ちとなる。
   家来の左近丸と右近丸(宗彦)が引き合わせ、織部が、中納言の面前で、妙なる妙音を披露して、褒美を賜る。
   それを聞きつけた隣家のおくまが、夫藤太を責めつけて、織部に弟子入りさせて、術を学ばせる。
   秘術を聞き出し、秘薬の豆を貰って帰った藤太をせっついて、中納言家で披露するのだが、腹の痛みに堪えて苦しみながら登場した未熟な藤太が必死になって頑張るも音が出ず、誤って一気に放屁したものだから、正に、爆弾が炸裂した戦場のような地獄模様の愁嘆場。

   元銀行マンと言う真面目一方のような七五三が、尺八の音に合わせて、器用に、高々と客席に向かって上げた尻を楽器代わりに微妙にくねらせて演じる妙音の芸の可笑しさ。
   もう、登場した瞬間から、客席の笑みを誘う逸平の、声音の素晴らしさと言い、間延びした実に嫋やかで高貴然とした中納言像が秀逸で、流石に、京都の狂言であり、これを見るだけでも、鑑賞しに来た値打ちがある。
   千三郎の左近丸と宗彦の右近丸だが、中納言に適当に相槌を打ちながら織部の演技をサポートし、その後の、藤太とおくまの一部始終を後場に控えて、語り部のように相槌を打ちながら少しずつ舞台に溶け込んで行く芸の細かさなど、実に爽やかで面白い。
   気が弱くて全く貧相で冴えない藤太を、千之丞の子息あきらが演じていて、これこそが、福富草子そのものの主役なのだが、本当にユニークで、七五三の織部と対照的な実にしみじみとした味を出していて印象的であった。
   一方、鬼婆でわわしい、狂言では典型的な女房おくまの茂は、後半、喚き散らしと言った風情で、非常にパンチが利いた演技で、本来の草子に則って鬼気迫るおくまを演じさせれば、面白いだろうと思った。
   
   この狂言の面白さは、庶民が、尊い公家の前で、下世話極まりない「おなら」で妙なる音曲を奏すると言う極めて奇天烈な話で、それを聞きたいと言う方も言う方だが、演奏直前に、中納言が「匂いの方は?」と聞き、「無味無臭、問題ない」と応えるあたりなどもそうだが、権威に対する風刺どころか、完全に下剋上の世界で、このような狂言が、(尤も、これは新狂言だが、御伽草子と同じ内容で、如何にも、当時の狂言でも有り得るテーマで)、室町時代から650年もの間、伝統的に続いていると言うのは、日本文化の味と言うか、実に、天晴れなことであると思う。

   千三郎は、狂言を「室町時代の吉本喜劇だ」とも、人間肯定劇だとも言っている。
   和歌や俳句に対する狂歌と言う位置づけかも知れないが、欧米人が最も大切にしているユーモアとも相通じる世界で、庶民の笑いは勿論、上質な笑いの体現は、中々高貴で到達し難いものだと思う。

   余談はさて置き、次の「呂連」は、旅僧の出家(千五郎)が一夜の宿を得た家の主・男(正邦)が発心して、髪を剃り「呂連坊」の名を貰って出家するのだが、それに激怒した妻・女(童司、千之丞の孫)の権幕に恐れをなして、旅僧の所為にして逃げ惑い、やるまいどやるまいどで終わる狂言だが、ここにも、定番のわわしき女が登場するのだが、インチキ坊主の多い狂言にしては、ここの旅僧は、真面目ながら、濡れ衣を着せられて追い出されるところは、哀れでおかしい。

   最後の「室町歌謡組曲 遊びをせんとや」は、「狂言小謡を中心に、今様・閑吟集や達小唄などを選曲し、謡の面白さ・囃子の楽しさを表現した組曲」だと言うことだが、全員中正面を向いて正座して、千五郎の滔々とよく響く素晴らしい声で「黒田節」のメロディーで謡が始まり、所々、舞が入る。
   歌謡曲や現在のIT関連の遊びが飛び出すなどトピックス豊富だが、私には、あまり良く内容が聞き取れなかったのだが、こう言った狂言の世界もあるのだなあと面白かった。
   途中、笛の藤田六郎兵衛が、バリトン調の素晴らしい美声で「上を向いて歩こう」を歌いだすと、全員立ち上がって踊り出すなど面白かったが、最後に、また、黒田節調の謡に戻って終わったが、全員後ろを向いて、囃子方から順番に、切戸から消えて行った。
   西洋の芝居やオペラなどでは、この後のカーテンコールで余韻が残るのだが、日本の古典藝術は、幕切れが淡泊過ぎて、いつも、一寸さびしい気がしている。
   
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