私にとっては、久しぶりのオペラ鑑賞である。
欧米にいた時は勿論、若い時には、随分、各地のオペラ劇場に通って楽しんできたのだが、最近では、能狂言に入れ込んでいて、クラシック音楽のコンサートに行くことも少なくなった。
やはり、鑑賞した劇場は、ロイヤル・オペラやMET、ウィーン、ミラノなどと言ったオペラハウスが多いのだが、出張や旅の途中で、マドリッド、バルセロナ、プラハ、ブダペストなどと言ったところでも、チャンスを掴んで劇場に行き、スイスなら、チューリッヒ、ジュネーブなどでもオペラを見ており、欧米なら、何処でも、水準の高いオペラを楽しめるのを経験しているので、何処の歌劇場のオペラ公演かと言うことにはあまり拘らずに、演目やオペラそのものを楽しむことにしていた。
今回も、かなり、安かったので、モーツアルトを楽しむのが目的であった。
この「フィガロの結婚」だが、硬軟取り混ぜて何回観たであろうか。
モーツアルトについては、映画「アマデウス」の印象が強烈過ぎるので、あの天国からのサウンドのような美しくて清冽な音楽を、神が羽ペンを握らせて書かせたとしか思えないようなモーツアルトとのマッチングに苦しむのだけれど、ボーマルシェの原作を基にしたとは言え、人間の愚かさと人生の機微を、これ程、コミカルタッチで面白く描いた「フィガロの結婚」の深みと冴えは、見上げたものである。
このボーマルシェの三部作の第一作は、ロッシーニのオペラになっている「セビリアの理髪師 (Le Barbier de Seville)で、第二作が、このオペラ「フィガロの結婚 (La Folle journee ou Le Mariage de Figaro)で、第三部作は、「罪ある母(L'Autre Tartuffe ou la Mere coupable)で、フランスの作曲家ダリウス・ミヨーがオペラ化していると言う。
最後の「罪ある女」だが、伯爵夫人ロジーナが不倫してケルビーノの子を、アルマヴィーヴァ伯爵の次男として生み、伯爵も愛人に女子を生ませ、子ども達と財産がからむ陰謀に、フィガロとスザンナ夫婦が関わると言う話になっているようである。
アルマヴィーヴァ伯爵が、セビリアの町娘ロジーナに恋をして、理髪師のフィガロの助けによって、恋敵を駆逐して結婚にゴールインするのだが、妻にしてしまえば関心を失って、この伯爵は無類の女好きなので他の女性にちょっかいを出し、初夜権を復活して、こともあろうに、フィガロと結婚する伯爵夫人の小間使いスザンナにモーションをかける。この件は、フィガロたちに裏をかかれて失敗するのだが、伯爵に見捨てられて孤閨に泣く伯爵夫人は、恋心を抱き続けて近づく伯爵の小姓・ケルビーノに篭絡して不義の子を産むと言う話にまで展開し、最後は財産争いとか。
オペラ作家たちが、触手を動かすのも不思議ではないフランス噺である。
さて、この「フィガロの結婚」だが、ロジーナに飽きたアルマヴィーヴァ伯爵が、何やかやと理屈をつけてスザンナに言い寄るので、フィガロたちの陰謀によって夜の庭に誘い出されて、スザンナだと思って口説き始めたのが、入れ替わった伯爵夫人のロジーナだったと言うことで、伯爵が皆に謝って終わりと言うことなのだが、
面白いのは、借金の証文を形にフィガロと結婚したくてスザンナとの結婚を妨害しようとした女中頭マルチェリーナと、「セビーリャの理髪師」でロジーナとの結婚を狙っていた医師バルトロが、フィガロの実の父母だったと言うどんでん返しである。
とにかく、モーツアルトのお馴染みの流れるように軽快で美しい音楽にのせて演じられる3時間の肩の凝らないフランス噺であるから、楽しくない筈がないのがこのオペラ。
ところで、このオペラの舞台は、今流行の舞台を現在に移しての演出なので、全く、違和感はないのだが、初夜権などと言う極めて古い概念をテーマにして、色好みの伯爵の小間使い口説き騒動をメインに展開した舞台であるから、かなりきわどいエロチックなシーンもあったが、やはり、一寸現代的過ぎて味気ない感じがしてしっくりと行かなかった。
モーツアルトなどは、特にヨーロッパの近世を舞台にした貴族色の強いオペラであるから、非日常を感じながら優雅な雰囲気を楽しみたいと思って、聴きに来るよりも観に来るお客にとっては、期待外れであろう。
私など、例えば、ニューヨークのマフィアを描いたリゴレットや、背広を来たドン・ジョバンニなどを観てはいるのだが、何故、演出を現在に移さなければならないのか、その意図にいつも疑問を持っているし、やはり、アマデウスの映画のようなシーンをバックにしたモーツアルトの方が良いと思っている。
さて、指揮者のジュリアーノ・ベッタGiuliano Bettaは、プッチーニ音楽院、ヴェルディ音楽院、スカラ座養成所で学んだと言う生粋のイタリア仕込みの若手指揮者であるから、冒頭から、浮き立つような軽快なモーツアルトで、舞台の歌手と対話しながらのようなスタイルでタクトを振っていて、流れるようなシーン展開が実に爽やかで良い。
フィガロのエフゲニー・アレクシエフ/バリトンEvgueniy Alexievは、ソフィア国立高等音楽院で学んだブルガリア人歌手で、一緒に居たイタリア人が、イタリア語が一寸と首をかしげていたのだが、私には、実にフィガロのキャラクターを上手く掴んで雰囲気を出していて声もパンチが効いていて良かったし満足であった。
両方歌っていて、フィガロと伯爵とどちらが難しいかと聞かれて、
”フィガロです。伯爵には三つの性格しかないのです。絶望か、嫉妬か、不安です。それに比べて、フィガロはスザンナに色々働きかけたり、その場その場の雰囲気をどんどん変えていかなければならない。陽気に舞台に出てきて、呑気なキャラクターに見えますが、ものすごく考え抜かれた人物なんです。”と答えていたが、よく分かる。
そのアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったのが、アメリカ人のクリストファー・ボルダック/バリトンChristopher Bolducで、実に端正なイケメンで、歌も上手いが、陽気さよりも、アメリカ人ながら、口説くよりも袖にされて突っつき回される方の姿が印象に残っている。
さて、女優陣だが、スザンナのマヤ・ボーグ/ソプラノMaya Boogは、生粋の本国スイス人で、コミカルタッチで、歌もそうだが、実に、テンポが流れるようにリズミカルで軽快な感じがして、多少不器用なフィガロとの相性が良くて、多少、私のスザンナ像とは違うのだが、楽しませて貰った。
伯爵夫人のカルメラ・レミージョ/ソプラノCarmela Remigio(口絵写真。ホームページから借用)は、イタリア人で、他の歌手よりはキャリアもあるようで、”2011年のヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場での伯爵夫人はイタリアでテレビ放映され注目された。昨年はアンコーナ、ボローニャでも同役を歌うなど、世界が認める伯爵夫人の第一人者と言えよう。”と言うことなので、注目して観ていた。
中々、魅力的な歌手で、伯爵に見捨てられて孤閨を嘆きながら切々と歌う陰影のあるアリアの美しさは流石で、それに、控えめだが、フィガロやスザンナとの掛け合いや、伯爵のいなし方、横恋慕するケルビーノのあしらい等、舞台芸も実に達者であった。
ケルビーノのフランツィスカ・ゴットヴァルト/メゾ・ソプラノFranziska Gottwaldは、一番、光っていた歌手であったと思っており、とにかく、歌と言い醸し出す雰囲気と言い、ケルビーノそのものと言う感じであった。
とにかく、上手く言えないが、久しぶりに、モーツアルトのオペラを楽しませて貰って、楽しかった。
欧米にいた時は勿論、若い時には、随分、各地のオペラ劇場に通って楽しんできたのだが、最近では、能狂言に入れ込んでいて、クラシック音楽のコンサートに行くことも少なくなった。
やはり、鑑賞した劇場は、ロイヤル・オペラやMET、ウィーン、ミラノなどと言ったオペラハウスが多いのだが、出張や旅の途中で、マドリッド、バルセロナ、プラハ、ブダペストなどと言ったところでも、チャンスを掴んで劇場に行き、スイスなら、チューリッヒ、ジュネーブなどでもオペラを見ており、欧米なら、何処でも、水準の高いオペラを楽しめるのを経験しているので、何処の歌劇場のオペラ公演かと言うことにはあまり拘らずに、演目やオペラそのものを楽しむことにしていた。
今回も、かなり、安かったので、モーツアルトを楽しむのが目的であった。
この「フィガロの結婚」だが、硬軟取り混ぜて何回観たであろうか。
モーツアルトについては、映画「アマデウス」の印象が強烈過ぎるので、あの天国からのサウンドのような美しくて清冽な音楽を、神が羽ペンを握らせて書かせたとしか思えないようなモーツアルトとのマッチングに苦しむのだけれど、ボーマルシェの原作を基にしたとは言え、人間の愚かさと人生の機微を、これ程、コミカルタッチで面白く描いた「フィガロの結婚」の深みと冴えは、見上げたものである。
このボーマルシェの三部作の第一作は、ロッシーニのオペラになっている「セビリアの理髪師 (Le Barbier de Seville)で、第二作が、このオペラ「フィガロの結婚 (La Folle journee ou Le Mariage de Figaro)で、第三部作は、「罪ある母(L'Autre Tartuffe ou la Mere coupable)で、フランスの作曲家ダリウス・ミヨーがオペラ化していると言う。
最後の「罪ある女」だが、伯爵夫人ロジーナが不倫してケルビーノの子を、アルマヴィーヴァ伯爵の次男として生み、伯爵も愛人に女子を生ませ、子ども達と財産がからむ陰謀に、フィガロとスザンナ夫婦が関わると言う話になっているようである。
アルマヴィーヴァ伯爵が、セビリアの町娘ロジーナに恋をして、理髪師のフィガロの助けによって、恋敵を駆逐して結婚にゴールインするのだが、妻にしてしまえば関心を失って、この伯爵は無類の女好きなので他の女性にちょっかいを出し、初夜権を復活して、こともあろうに、フィガロと結婚する伯爵夫人の小間使いスザンナにモーションをかける。この件は、フィガロたちに裏をかかれて失敗するのだが、伯爵に見捨てられて孤閨に泣く伯爵夫人は、恋心を抱き続けて近づく伯爵の小姓・ケルビーノに篭絡して不義の子を産むと言う話にまで展開し、最後は財産争いとか。
オペラ作家たちが、触手を動かすのも不思議ではないフランス噺である。
さて、この「フィガロの結婚」だが、ロジーナに飽きたアルマヴィーヴァ伯爵が、何やかやと理屈をつけてスザンナに言い寄るので、フィガロたちの陰謀によって夜の庭に誘い出されて、スザンナだと思って口説き始めたのが、入れ替わった伯爵夫人のロジーナだったと言うことで、伯爵が皆に謝って終わりと言うことなのだが、
面白いのは、借金の証文を形にフィガロと結婚したくてスザンナとの結婚を妨害しようとした女中頭マルチェリーナと、「セビーリャの理髪師」でロジーナとの結婚を狙っていた医師バルトロが、フィガロの実の父母だったと言うどんでん返しである。
とにかく、モーツアルトのお馴染みの流れるように軽快で美しい音楽にのせて演じられる3時間の肩の凝らないフランス噺であるから、楽しくない筈がないのがこのオペラ。
ところで、このオペラの舞台は、今流行の舞台を現在に移しての演出なので、全く、違和感はないのだが、初夜権などと言う極めて古い概念をテーマにして、色好みの伯爵の小間使い口説き騒動をメインに展開した舞台であるから、かなりきわどいエロチックなシーンもあったが、やはり、一寸現代的過ぎて味気ない感じがしてしっくりと行かなかった。
モーツアルトなどは、特にヨーロッパの近世を舞台にした貴族色の強いオペラであるから、非日常を感じながら優雅な雰囲気を楽しみたいと思って、聴きに来るよりも観に来るお客にとっては、期待外れであろう。
私など、例えば、ニューヨークのマフィアを描いたリゴレットや、背広を来たドン・ジョバンニなどを観てはいるのだが、何故、演出を現在に移さなければならないのか、その意図にいつも疑問を持っているし、やはり、アマデウスの映画のようなシーンをバックにしたモーツアルトの方が良いと思っている。
さて、指揮者のジュリアーノ・ベッタGiuliano Bettaは、プッチーニ音楽院、ヴェルディ音楽院、スカラ座養成所で学んだと言う生粋のイタリア仕込みの若手指揮者であるから、冒頭から、浮き立つような軽快なモーツアルトで、舞台の歌手と対話しながらのようなスタイルでタクトを振っていて、流れるようなシーン展開が実に爽やかで良い。
フィガロのエフゲニー・アレクシエフ/バリトンEvgueniy Alexievは、ソフィア国立高等音楽院で学んだブルガリア人歌手で、一緒に居たイタリア人が、イタリア語が一寸と首をかしげていたのだが、私には、実にフィガロのキャラクターを上手く掴んで雰囲気を出していて声もパンチが効いていて良かったし満足であった。
両方歌っていて、フィガロと伯爵とどちらが難しいかと聞かれて、
”フィガロです。伯爵には三つの性格しかないのです。絶望か、嫉妬か、不安です。それに比べて、フィガロはスザンナに色々働きかけたり、その場その場の雰囲気をどんどん変えていかなければならない。陽気に舞台に出てきて、呑気なキャラクターに見えますが、ものすごく考え抜かれた人物なんです。”と答えていたが、よく分かる。
そのアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったのが、アメリカ人のクリストファー・ボルダック/バリトンChristopher Bolducで、実に端正なイケメンで、歌も上手いが、陽気さよりも、アメリカ人ながら、口説くよりも袖にされて突っつき回される方の姿が印象に残っている。
さて、女優陣だが、スザンナのマヤ・ボーグ/ソプラノMaya Boogは、生粋の本国スイス人で、コミカルタッチで、歌もそうだが、実に、テンポが流れるようにリズミカルで軽快な感じがして、多少不器用なフィガロとの相性が良くて、多少、私のスザンナ像とは違うのだが、楽しませて貰った。
伯爵夫人のカルメラ・レミージョ/ソプラノCarmela Remigio(口絵写真。ホームページから借用)は、イタリア人で、他の歌手よりはキャリアもあるようで、”2011年のヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場での伯爵夫人はイタリアでテレビ放映され注目された。昨年はアンコーナ、ボローニャでも同役を歌うなど、世界が認める伯爵夫人の第一人者と言えよう。”と言うことなので、注目して観ていた。
中々、魅力的な歌手で、伯爵に見捨てられて孤閨を嘆きながら切々と歌う陰影のあるアリアの美しさは流石で、それに、控えめだが、フィガロやスザンナとの掛け合いや、伯爵のいなし方、横恋慕するケルビーノのあしらい等、舞台芸も実に達者であった。
ケルビーノのフランツィスカ・ゴットヴァルト/メゾ・ソプラノFranziska Gottwaldは、一番、光っていた歌手であったと思っており、とにかく、歌と言い醸し出す雰囲気と言い、ケルビーノそのものと言う感じであった。
とにかく、上手く言えないが、久しぶりに、モーツアルトのオペラを楽しませて貰って、楽しかった。