熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

楠木健著「経営センスの論理 」

2013年07月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   楠木教授の「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 」を読んでいないので、偉そうなことは言えないが、手っ取り早く、新書を読んで、楠木教授のイノベーション論など経営戦略論の一端に触れられれば幸いだと思って読み始めたのだが、私の感想は、賛否相半ばだったが、興味深く読ませて貰った。

   今回は、楠木教授は、イノベーションに関する見解を、第2章の「戦略の論理」と言うところで、開陳しているので、この点に限って、私の感想を述べてみたいと思っている。

   イノベーションとは、単に「新しいことをやる」と言うことではない。進歩(progress)とイノベーションとは全く異なる概念だ。
   スマホが軽く薄くなる。画像が鮮明になり、音質も良くなり、消費電力が少なくなる。こうしたことはすべて技術の「進歩」であるが「イノベーション」ではない。イノベーションの本質は「非連続性」にある。
   非連続であっても、斬新なだけではダメで、イノベーションとは供給より需要に関わる問題であるから、多くの人に受け入れられて、その結果、社会にインパクトをもたらすものでなければイノベーションとは言えない。と楠木教授は言う。

   イノベーションの話のポイントは二つ、第1に、イノベーションは技術進歩とは異なる。第2に、イノベーションは供給よりも需要に関わる現象であり、顧客が受け入れてこそイノベーション。
   イノベーションの条件が非連続だとしても、それが徹頭徹尾非連続であればイノベーションにはならず、供給側の提案を世の中が受け入れて初めてイノベーションになるので、非連続性と連続性の組み合わせで出来ており、このミックスをどうつくるかがイノベーションの成否の決め手になると説いて、
   サウスウエスト航空、アマゾン、アップルのビジネスを例に挙げて、持論を展開している。

   さて、楠木論の、イノベーションは、進歩とは全く異なる概念だと言うことは、分かるが、初歩的な理論展開だが、クリステンセンの「イノベーターのジレンマ The Innovator's Dilenmma」によると、スマホの進化は、持続的イノベーションであり、楠木論のイノベーションは、非連続だと言うから、クリステンセンの破壊的イノベーションに近い概念を言っているのであろう。
   また、イノベーションは、顧客が受け入れてこそであって需要の問題だと言う論点については、全く当たり前のことで、その為に、イノベーターは、ダーウィンの海を渡り死の谷を越えるために四苦八苦しているのであって、需要を生み出せなければ、ビジネスにさえならない。
   だからこそ、エイドリアン・J・スライウォツキーが、「ザ・ディマンド」で、需要の創造が如何に重要な経営戦略のキーポイントであるかを説いているのであって、このブログのブックレビューで紹介している。
   人々が欲しいと思う前に、人々が愛するものを創造すること、これこそが、ディマンド、すなわち、真の需要の創造であって、企業の経営戦略の要諦であると説いて、イノベーション論を展開している。

   楠木教授は、また、次のように説く。
   イノベーションは、「できるかできないか」よりも、「思いつくかつかないか」の問題であることが多く、難しいからできないのではなく、それまで誰も思いついていないだけなのである。
   人間や社会のニーズと言うのは、その本質部分では連続的なものであるから、「全く新しいニーズ」とか、「今はないけれども将来は出て来るニーズ」などと言うものは、元々存在せず、いまそこにないニーズは、将来にわたっててもないままに終わる。
   未来を予測したり予知する能力など必要ない。いまそこにあるニーズと正面から向き合い、その本質を深く考える。大きな成功を収めたイノベーションは、その点で共通している。

   この楠木教授のイノベーションを、思いつかなかっただけのことをビジネス化することだとか、今あるニーズが総てであって、全く新しいニーズなどは存在しない、未来予測など必要ないと言う論点については、全く、承服しかねる。
   直接論破するのではなくて、間接的な見解だが、人間の創造性が無限であると言うことを例証して、反論に代えたい。

   茂木健一郎氏の説明を借用するのだが、
   クリエイティビティにとっては、脳に記憶された経験と知識の豊かさが大切で、その記憶の豊かな組み合わせの多様性が創造性を生むのだと言うのである。
   経験や知識は、必ずしも新しいものではないのだが、脳に知識として内包された経験と知識がお互いに触発し合って生み出す無限の組み合わせが、新しい発想や発明・発見を生み出すと言うことであり、無限に新しいものが創造される。
   したがって、人間に創造する能力が備わっている限り、人間のニーズも、創造され得るものであって、既にあるものが総てでそのニーズをビジネスに乗せればイノベーションが生まれると言った単純な話ではない筈だと言うことである。
   後述するが、技術や産業革命の大半は、供給と言うか、新発明・新発見・新しい創造が需要を誘発して、成長発展の原動力となっており、必ずしも、先に需要ありきではない。


   もうひとつ、本質的な問題だが、イノベーションを論ずるなら、シュンペーターを無視してはならないと言うことである。
    重要なコンセプトは、「創造的破壊 Creative Destruction」で、
    「資本主義・社会主義・民主主義」において、
   ”(内外の新市場の開拓および手工業の店舗や工場からUSスチールのごとき企業にいたる組織上の発展は、)不断に古きものを破壊し新しきものを創造し、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異(――生物学的用語を用いることを許されるとすれば――の同じ過程を例証する。この)「創造的破壊」の過程こそ、資本主義についての本質的事実である。”として、突然変異だと説いている。
   また、シュンペーターの説くイノベーションは、
    ①新しい財貨の生産
   ②新しい生産方法の導入
   ③新しい販路の開拓
   ④原材料あるいは半製品の新しい供給源の開拓
   ⑤新しい組織の実現
   シュンペーターは、必ずしも新しい技術や発明・発見ではなくても、既存の技術やアイディアであっても良く、それらを新しく組み合わせることによって生み出された革新的な「新結合 neue Kombination」を実行・実現することをイノベーションと考えている。
   正に、茂木氏の創造性論の世界の現出である。

   
   また、シュンペーターは、イノベーションの例として、駅馬車から鉄道への変革をあげており、フォードのT型車を良く引用したと言われているが、駅馬車を駆逐した汽車もそうだが、フォードが従来の自動車製造システムを改革して大量生産したT型車を考えても、このようなイノベーションや、第1次、第2次産業革命、あるいは、昨今のICT革命などと言った本格的なイノベーションについては、前述の楠木イノベーション論では、説明できない。
   ブルー・オーシャン市場の創造や、無消費者市場の開拓と言った企業戦略論の段階でのイノベーション論としては、ともかく、
   私には、楠木論は、あまりにも単純なイノベーション論の展開のような感じがして、イノベーションの本質から、少なくとも、文明論としてのシュンペーター理論から、離れてしまっているような気がして、違和感を感じている。
コメント
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