今月の歌舞伎座の公演で、私が期待したのは、菊五郎と吉右衛門と言う人間国宝が素晴らしい芸を見せる2曲の松羽目もの、「身替座禅」と「勧進帳」であった。
「身替御前」は、狂言の「花子」、「勧進帳」は、能の「安宅」が、夫々の原曲になっていて、最近、両方の素晴らしい能・狂言を鑑賞して、益々、歌舞伎の舞台が面白くなってきた。
「松羽目物」とは、舞台正面に、能舞台の鏡板に描かれている老松を写した松のある羽目板を描いた「松羽目」とよばれる「定式」の大道具から付けられたためで、また、下手にある五色の「揚幕」、上手にある「臆病口」とよばれる出入り口も能舞台を模している。
また、「長唄」の一節を謡曲風に唄う「謡がかり」や能の囃子を取り入れた「鳴物」の演奏など、格調高く表現するために音楽の面でも能や狂言の様式を取り入れていて、更に、三味線を取り入れている分、能・狂言よりも、はるかに、華やかさと音曲効果に豊かさを増している。
揚幕から最初に登場する人物が、「名ノリ」をあげたり、せりふ回しも能・狂言風に重々しくなったり、また、衣装も、能や狂言の装束を基本としていているなど、多少、従来の歌舞伎の舞台よりは、高級志向を目指しているような感じである。
さて、「花子」だが、
洛外に住む男が、東へ下った時に、美濃の国野上の宿で花子と言う女性と馴染みになって北白河に宿を取ったので来てくれと言う。逢いたくて仕方がないのだが、嫉妬深い妻が許さないので、妻を騙して、一夜だけ持仏堂に籠って座禅をすることを認めさせて、絶対に、途中見舞いに来るなと約束させる。太郎冠者を脅して、代わりに座禅衾を被せて花子に逢いに行く。ところが、心配した妻が見舞いに来て、座禅衾を剥ぐと現れたのは太郎冠者なので怒り心頭、太郎冠者に代わって衾を被り夫の帰りを待つ。そうとは知らずに、花子との至福の一夜を明かして夢心地でかえって来た夫は、花子の宿を訪れた冒頭から後朝の別れまで、のろけ話を滔々と喋り、太郎冠者への語りももうよかろうと、衾を取ると、形相を変えた恐ろしい妻が現れたので、びっくり仰天、平謝りになって逃げ出して行く。
昨年、80歳を超えた人間国宝野村萬の素晴らしい狂言「花子」の舞台を観た。
”「思うに別れ、思わぬに添う」と。あの美しい花子に添わいで、山の神に添うというのは、ちかごろ、口惜しいことじゃなあ。”と言って、これも人間国宝の山本東次郎の妻の座禅衾を剥ぎ取るのだから、結果は、決定的。
狂言の女と言うか、妻は、殆どと言ってよい程、わわしい(口やかましい、気がつよくてうるさくてこわい)女と相場が決まっているので、この曲も同様で、それを受けて、歌舞伎では、厳つくて醜女のいでたちで登場するので、立ち役が演じている。
狂言では、さらりとした表現だが、歌舞伎では、花子に聞かれたのでこう説明したと言って、徹底的に妻の醜女ぶりを示して見せるのであるから、正に、喜劇そのものである。
歌舞伎も、殆ど、狂言のストーリーを踏襲しているのだが、能楽師と歌舞伎役者の表現方法が大きく違っていて、狂言の場合には、前半は台詞主体で進んでいて、それ程違いはないのだが、後半は、ほろ酔い機嫌で登場する夫の冒頭のセリフから小歌で、花子との対話も小歌と言う、正に、小歌を多用して、露骨になることを避けて、情感を豊かに情趣本位に表現し、濃艶にしかも品位を持って演じなければならないのであるから、難曲中の難曲と言う最高秘曲だと言うことである。
それに対して、歌舞伎の方は、リアルそのもので、菊五郎など、冒頭の花子から来てくれ来てくれと言って来るのだと言う表現から、上ずった女言葉になって相好を崩してしまっており、もう、これでもかこれでもかと言うくらいに、夫・山蔭右京の正直な男の浮気心や心の内を、吐露しているのだから、非常に面白い。
これを受けて、久しぶりの女形を演じる吉右衛門の奥方玉の井が、真面目をよそおって受けて立ち、滑稽味を増幅させているのだから、実に、楽しい舞台である。
又五郎の太郎冠者は、今回も秀逸で決定版であろう。
それに、歌舞伎の創作で登場する侍女千枝の壱太郎と小枝の右近が、実に、初々しくて良い。
午後の部の「勧進帳」は、もう、何度も観ているので、殆ど暗記したような舞台で、役者によるバリエーションを楽しむと言う感じになっている。
久しぶりの吉右衛門の弁慶と菊五郎の富樫なので、実に、熱のこもった迫力のある素晴らしい舞台を楽しむことが出来た。
勧進帳と安宅の違いについては、前にこのブログで書いたので、蛇足は避ける。
能では、安宅の関での、義経一行と富樫たちとの対決は、力を尽くして押し切るかどうかと言う一触即発の命懸けの対立が基調なので、非常に緊迫感があって凄い舞台展開となる。
尤も、観世清河寿宗家は、山伏の一行が到着した時から、それが義経主従であることを見破っていて、弁慶の読み上げる勧進帳がおかしいことも分かっていたと言っているし、宝生閑は、弁慶のシテの心境によってワキ富樫の対応を変えており、富樫が弁慶に心酔したからこそ、酒宴を催したのだと言っており、多少のブレがあるのが興味深い。
そのために、歌舞伎では、義経だと分かっていて通行を許す富樫の武士の情けと、弁慶と富樫の男のロマンが主体となるストーリー展開へとアウフヘーベンして面白くなったのであろう。
もう一つ、山川静夫によると、歌舞伎では、「勧進帳」の主役は、義経(藤十郎)だと言うことだが、能「安宅」では、義経は、子方が演じている。
歌舞伎では、義経と弁慶との主従の感動的な交感シーンが、見せ場でもある。
小山 観翁が、良い弁慶とは、去り行く弁慶の姿の中に、情ある関守への、感謝の心が読み取れるかどうか、この芝居の神髄は、関守への感謝の有無で、それこそが、芸の厚みを決めるのだと言っている。
吉右衛門の弁慶は、見送る菊五郎の富樫一行に幕が引かれて、一人花道に残ると舞台に向かって、感極まった表情であろう万感の思いを込めて静かに、頭を下げていた。
武士の情けで、義経一行の通行を許した菊五郎の富樫が、踵を返して座を立つ時、一瞬、キッとした表情で中空を仰いで去って行く姿も印象的で、本当の武士の魂を弁慶に見た感動と頼朝に背いた死の覚悟の入り混じった心境を表して余りある。
見送る吉右衛門の弁慶も、軽く富樫に向かって頭を下げてほっとした表情をしたのだが、この時の弁慶は、正に、富樫への感謝よりも、最大の難局を突破した安緒感が先に立ったのであろう。
この勧進帳は、藤十郎の素晴らしい義経は勿論のこと、四天王を演じた歌六、又五郎、扇雀、東蔵たち助演陣の協力もあって、決定版とも言うべき舞台であったと思っている。
「身替御前」は、狂言の「花子」、「勧進帳」は、能の「安宅」が、夫々の原曲になっていて、最近、両方の素晴らしい能・狂言を鑑賞して、益々、歌舞伎の舞台が面白くなってきた。
「松羽目物」とは、舞台正面に、能舞台の鏡板に描かれている老松を写した松のある羽目板を描いた「松羽目」とよばれる「定式」の大道具から付けられたためで、また、下手にある五色の「揚幕」、上手にある「臆病口」とよばれる出入り口も能舞台を模している。
また、「長唄」の一節を謡曲風に唄う「謡がかり」や能の囃子を取り入れた「鳴物」の演奏など、格調高く表現するために音楽の面でも能や狂言の様式を取り入れていて、更に、三味線を取り入れている分、能・狂言よりも、はるかに、華やかさと音曲効果に豊かさを増している。
揚幕から最初に登場する人物が、「名ノリ」をあげたり、せりふ回しも能・狂言風に重々しくなったり、また、衣装も、能や狂言の装束を基本としていているなど、多少、従来の歌舞伎の舞台よりは、高級志向を目指しているような感じである。
さて、「花子」だが、
洛外に住む男が、東へ下った時に、美濃の国野上の宿で花子と言う女性と馴染みになって北白河に宿を取ったので来てくれと言う。逢いたくて仕方がないのだが、嫉妬深い妻が許さないので、妻を騙して、一夜だけ持仏堂に籠って座禅をすることを認めさせて、絶対に、途中見舞いに来るなと約束させる。太郎冠者を脅して、代わりに座禅衾を被せて花子に逢いに行く。ところが、心配した妻が見舞いに来て、座禅衾を剥ぐと現れたのは太郎冠者なので怒り心頭、太郎冠者に代わって衾を被り夫の帰りを待つ。そうとは知らずに、花子との至福の一夜を明かして夢心地でかえって来た夫は、花子の宿を訪れた冒頭から後朝の別れまで、のろけ話を滔々と喋り、太郎冠者への語りももうよかろうと、衾を取ると、形相を変えた恐ろしい妻が現れたので、びっくり仰天、平謝りになって逃げ出して行く。
昨年、80歳を超えた人間国宝野村萬の素晴らしい狂言「花子」の舞台を観た。
”「思うに別れ、思わぬに添う」と。あの美しい花子に添わいで、山の神に添うというのは、ちかごろ、口惜しいことじゃなあ。”と言って、これも人間国宝の山本東次郎の妻の座禅衾を剥ぎ取るのだから、結果は、決定的。
狂言の女と言うか、妻は、殆どと言ってよい程、わわしい(口やかましい、気がつよくてうるさくてこわい)女と相場が決まっているので、この曲も同様で、それを受けて、歌舞伎では、厳つくて醜女のいでたちで登場するので、立ち役が演じている。
狂言では、さらりとした表現だが、歌舞伎では、花子に聞かれたのでこう説明したと言って、徹底的に妻の醜女ぶりを示して見せるのであるから、正に、喜劇そのものである。
歌舞伎も、殆ど、狂言のストーリーを踏襲しているのだが、能楽師と歌舞伎役者の表現方法が大きく違っていて、狂言の場合には、前半は台詞主体で進んでいて、それ程違いはないのだが、後半は、ほろ酔い機嫌で登場する夫の冒頭のセリフから小歌で、花子との対話も小歌と言う、正に、小歌を多用して、露骨になることを避けて、情感を豊かに情趣本位に表現し、濃艶にしかも品位を持って演じなければならないのであるから、難曲中の難曲と言う最高秘曲だと言うことである。
それに対して、歌舞伎の方は、リアルそのもので、菊五郎など、冒頭の花子から来てくれ来てくれと言って来るのだと言う表現から、上ずった女言葉になって相好を崩してしまっており、もう、これでもかこれでもかと言うくらいに、夫・山蔭右京の正直な男の浮気心や心の内を、吐露しているのだから、非常に面白い。
これを受けて、久しぶりの女形を演じる吉右衛門の奥方玉の井が、真面目をよそおって受けて立ち、滑稽味を増幅させているのだから、実に、楽しい舞台である。
又五郎の太郎冠者は、今回も秀逸で決定版であろう。
それに、歌舞伎の創作で登場する侍女千枝の壱太郎と小枝の右近が、実に、初々しくて良い。
午後の部の「勧進帳」は、もう、何度も観ているので、殆ど暗記したような舞台で、役者によるバリエーションを楽しむと言う感じになっている。
久しぶりの吉右衛門の弁慶と菊五郎の富樫なので、実に、熱のこもった迫力のある素晴らしい舞台を楽しむことが出来た。
勧進帳と安宅の違いについては、前にこのブログで書いたので、蛇足は避ける。
能では、安宅の関での、義経一行と富樫たちとの対決は、力を尽くして押し切るかどうかと言う一触即発の命懸けの対立が基調なので、非常に緊迫感があって凄い舞台展開となる。
尤も、観世清河寿宗家は、山伏の一行が到着した時から、それが義経主従であることを見破っていて、弁慶の読み上げる勧進帳がおかしいことも分かっていたと言っているし、宝生閑は、弁慶のシテの心境によってワキ富樫の対応を変えており、富樫が弁慶に心酔したからこそ、酒宴を催したのだと言っており、多少のブレがあるのが興味深い。
そのために、歌舞伎では、義経だと分かっていて通行を許す富樫の武士の情けと、弁慶と富樫の男のロマンが主体となるストーリー展開へとアウフヘーベンして面白くなったのであろう。
もう一つ、山川静夫によると、歌舞伎では、「勧進帳」の主役は、義経(藤十郎)だと言うことだが、能「安宅」では、義経は、子方が演じている。
歌舞伎では、義経と弁慶との主従の感動的な交感シーンが、見せ場でもある。
小山 観翁が、良い弁慶とは、去り行く弁慶の姿の中に、情ある関守への、感謝の心が読み取れるかどうか、この芝居の神髄は、関守への感謝の有無で、それこそが、芸の厚みを決めるのだと言っている。
吉右衛門の弁慶は、見送る菊五郎の富樫一行に幕が引かれて、一人花道に残ると舞台に向かって、感極まった表情であろう万感の思いを込めて静かに、頭を下げていた。
武士の情けで、義経一行の通行を許した菊五郎の富樫が、踵を返して座を立つ時、一瞬、キッとした表情で中空を仰いで去って行く姿も印象的で、本当の武士の魂を弁慶に見た感動と頼朝に背いた死の覚悟の入り混じった心境を表して余りある。
見送る吉右衛門の弁慶も、軽く富樫に向かって頭を下げてほっとした表情をしたのだが、この時の弁慶は、正に、富樫への感謝よりも、最大の難局を突破した安緒感が先に立ったのであろう。
この勧進帳は、藤十郎の素晴らしい義経は勿論のこと、四天王を演じた歌六、又五郎、扇雀、東蔵たち助演陣の協力もあって、決定版とも言うべき舞台であったと思っている。